昨夜、日本を知る会の第118回特別勉強会に行ってきました。

 

昨夜は、NPO法人国旗・国歌研究会代表の吹浦忠正氏と新藤昌子氏で、世界の国旗・国歌にまつわる講演と新藤さんがその場で各国の国歌をその国の原語で歌うという贅沢な勉強会でした。お二方は、先ごろ江東区の全小中学校での国旗・国歌についての講演が終了されたそうです。新藤さんのHPに新聞記事があるのですが、3年ほどかけて行われたようです。

 

お二人の御著書

 

私は国旗が好きなので国旗に関する本を何冊か持っているのですが、みな吹浦さんの御著書でした。プロフィールには昭和39年の東京五輪から国旗にかかわってきたとあるのですが、昨年の大河ドラマには吹浦忠正さんの役もあったそうで、現在も健在でいらっしゃる唯一の登場者だったそうです。ただし、自分から売り込みに行ったりする場面があったりするなど、実際と違うことがいくつもあり宮藤官九郎さんには、これを本気にする人がいるのにこういう風に描かれるのは困ると打ち上げの時だったかに本人にしっかり伝えたそうです。その時宮藤さんがなんと答えたのか?聞きたかったのですが、懇親会の席の話で席が遠くて聞けませんでした。宮藤さんは好きなんですが、やはりこういう実話物は、史実に沿わないといけない面がありますし、ただ面白おかしく描けばいいというものでもないですよね。

 

吹浦さんからは、オフレコのお話もいくつかあったのですが、日の丸の話に始まり東京五輪でどのように関わるようになったのか、また各国の国旗の逸話を聴かせていただきました。

 

世界には国旗の専門家が現在13人ぐらいいるそうで、吹浦さんはそうした方々と協力して国旗について調べたりもしているそうです。

 

さて、日の丸ですが一番古い記録は、続日本紀だという新井白石の説があります。これは〇の中に三羽の烏の絵があるものだそうで、吹浦さんはそれは大陸のものとなるので、その説には反対だそうです。

 

では、一番古い記録はいつか?というと前九年の役(1051年)の安倍貞任の赤地に金の丸が最初だったと考えていそうです。その後戦国時代になって、日の丸が一気に増えますが、これは我こそは天下を治めるという名乗りのために皆日の丸を掲げたんだといいます。合戦絵巻の中には、黒地に金もあり、様々な日の丸がありました。

 

江戸時代になると、お米が江戸に運ばれてきましたがその船には日の丸が掲げられ、その旗があると皆道を開けたんだそうです。

 

そして幕末、日本にも国旗が必要となった時、幕府の案は徳川の先祖(説?)の新田の紋から黒く太い横線を真ん中に引くものだったそうです。これに反対したのが、徳川斉昭と島津斉彬で、この二人がいなければ日本の国旗は日の丸ではなかったかもしれません。

 

 

オリンピックでは毎回、国旗の間違いが起きてしまうそうですが、日本でも昭和58年のアジア競技大会では台湾の国旗の上下を間違えたそうです。なぜそうしたことが起きるかというと国旗の大きさがとても大きいため、掲揚の際にどちらが上かわからなくなってしまうんだそうです。そこで、上には金、下には銀という目印をつけそれから日本では上下の間違いは起きていないそうです。

 

それから、昭和39年の東京五輪の晴天の逸話をその時にいた人間として語られていたのが嬉しいです。有名なエンペラーズウエザーです。(吹浦さんはそういう言い方はしませんでしたが)気象庁の記録は毎日その日の正午のものが記録されているそうです。だから、当時の状況はやはり、当時いた人じゃないとちゃんと語れないと。

 

昭和39年(1964)10月9日、夕方4時から大雨になり、夜になっても止まないため当時の吹浦さんはこれは明日の開会式は中止だなと飲みに行ったそうです。しかも飲み屋のはしごで、最後の店を出たのが夜中の2時だったそうです。ところが、外に出たら雨は止んでおり月はなかったけれども満天の星空だったんだそうです。吹浦さんは真っ青。なにしろ当時タクシーもなかったし、集合時間が朝の6時であと4時間しかなかったからです。10月10日の晴天は、未明の時間から始まっていたわけです。当時、若い吹浦さんが飲み屋のはしごをしたおかげで、現在こうした話が聞けるわけです。

 

 

それからアメリカの話もされたのですが、その中にホワイトハウスの由来がありました。これは、1814年の独立戦争のさなか、当時のホワイトハウスがイギリスの焼き討ちにあった話です。その時焼け焦げた跡を使ってまた再建し、全部白く塗ったことからホワイトハウスと呼ばれるようになったのがホワイトハウスの由来です。現在でも焼け焦げた一部が残されており、これは見学できるそうです。これはイギリスには油断するな!という教訓にもなっており、きちんとした歴史教育の一部になっているとのことです。こういうことが現在できない日本とは大違いですよね。

 

現在国旗の専門家は吹浦さんだけとなっていますが、日本にはもともとペリー来航前から国旗の研究をしている人がたくさんいたんだそうです。ところがそうした本が今どこにあるのか?というと終戦時にアメリカが皆持って行ってしまったそうです。それがそのまま放置されており、アメリカの研究者が研究したいのでと吹浦さんを呼ばれたそうです。研究書は17冊あり、そのうち11冊がペリー来航前の書物だったそうです。私はその話を聴きながら、無理やり持って行ったものは返却してもらいたいと思いました。放置されているのならなおさらです。だって、研究しようにも言葉がわからなければ研究しようがないのですから。

 

 

昨夜は、吹浦さんが国旗にまつわるお話をされ、その国の国歌を新藤さんが歌うという形式で行われました。小さなホールで新藤さんがパッと歌いだすたびに鳥肌もので、全曲素晴らしかったです。このような機会となった昨夜の勉強会に感謝です。

 

スポーツの祭典の前には国歌が歌われますが、その際の失敗も多く聞かれます。アメリカの有名な歌の上手い歌手が失敗したり、日本でも昨年やはり歌の上手さで知られる歌手が失敗してしまって話題になりました。ところが、新藤さんは、本当にパッと美しく歌いだすのです。

 

昨夜は、英、仏、独、中国、韓国、アメリカの国歌を歌われました。この中では、仏、中国、が戦いの歌です。またアメリカは独立戦争のさなかにはためいていた旗に感動して作られた歌です。そして英は女王を讃える歌です。そして独は戦争前からあった3番までの歌が、戦後は3番のみで1番2番は削られてしまいました。

 

戦争に負けると、国旗・国歌が変えられる国がたくさんある中、日本は国旗も国歌も変わらなかった稀有な国だと吹浦さんはおっしゃってました。(でも日本は敗戦ではなく終戦をして条約を結んだわけですからね、占領軍を受け入れ敗戦に近いとはいえ)

 

私がちょっといいな、と思ったのが韓国の国歌です。歌詞の意味が考えていたのと違って素晴らしかったです。戦前は同じ歌詞で「蛍の光」の曲で歌っており、戦後今の曲に変わったそうです。作詞したイン チコウは、日本に留学していたこともあり、日本に来る船上で朝鮮にも国歌が必要だと考えて作詞をしたそうです。作詞したのも、作曲したのもいわゆる親日派の人々だったそうで、吹浦さんはそうしたことを韓国の人に問い正したいというようなことをおっしゃってました。

 

最後はもちろん「君が代」です。吹浦さんが君が代が国歌になった経緯を語り、新藤さんが歌そのものについて語りました。

 

君が代の曲の成立過程はこちらをご覧ください↓

蓬莱山

君が代の旋律の成立過程・・・皇学

 

 

 

新藤さんは色んな国際的な場所で歌われてきていますが、君が代は民族色の強い歌で、西洋音楽に慣れている人達にはなかなか歌えない曲だそうです。それを欠点ととらえる人もいますが、これは日本の誇りとして伝えたいし、その歌詞も血なまぐさい国歌が多い中で平和な歌で好きな歌です、とおっしゃっていました。

 

そして、最後にもちろん全員で「君が代」を歌いました。

 

その際に、新藤さんが歌う際の注意点を教えてくださいました。これは小中学校を回ってお話しする際にも、指導しているそうです。

1.「さざれ石」は一息で歌う

2.日本が末永く続くように思いながら歌う

3.国旗があれば国旗を見ながら歌う

4.姿勢を正して歌う。その際にアメリカ式に胸に手を当てるのではなく、まっすぐ手を下におろして歌う

 

君が代の斉唱はやっぱり良かったです\(^o^)/

 

 

さて、3月1日には、世界の国旗国歌コンサートが行われるそうです。完売してしまったので、同日18時からの追加コンサートが決まったとのこと。

 

 

新藤さんはなんと世界80か国の国歌を原語で歌える唯一のソプラノ歌手なんだそうです。

 

2017年の調布市の動画では70か国となっていますから、それから増えたんですね。君が代についても語られていますが、ここでも血塗られた国歌が多い中、平和な歌詞だとおっしゃっています。

 

現在、五輪選手村での歓迎用に練習を重ねていらっしゃってこんな動画がありました。生徒さんたちが生き生きしていますね。

 

昨年のラグビーワールドカップの際にも、各国の国歌を歌って世界の感動も呼んでいました。これだけ世界の国歌を知り、歌って自分の国だけ除外なんてありえませんから、東京五輪を機に、多くの人の日の丸や君が代への意識が変わっていくんじゃないでしょうか?