おはようございます。


昨夜は夜の「君が代」動画が抜けてしまい失礼しました。そこで今朝は久しぶりに、君が代について。


現在学校でちゃんと「君が代」について教えているところは少ないと思いますが、伊勢にある皇學館大學では、皇学として「君が代」についても教えられています。

さすが、日本でただ二つの神道学科のある大学です。


「皇学」とは本居宣長の言葉から、我が国、皇国についての学問、で皇学となったそうです。本居宣長は本来「学問」とは自らの国について学ぶものだったのだけれども、(本居宣長の時代)学問といえば漢学だったのでその混乱を避ける意味で仕方なく使うと言っていた言葉は「皇朝学」だったそうで、それを略したのが「皇学」です。

私は数年前まで皇學館大学の存在さえ知らなかったのですが、今からでも学びたいと思うほど興味津々の大学です。しかも場所は伊勢ですよ。しかもすぐ目の前には、倭姫宮があります。この立地の良さ。私は以前倭姫宮にレンタサイクルで行きましたが、とても空気の澄んだ素敵な場所で、ここで学べる学生さんは幸せだなあと思ったものです。


さてその皇學館大学では、全学課共通科目の「日本学」を平成20年から「皇学」に改めたそうです。

その皇学をまとめた本に、「君が代の旋律の成立過程」(錦かよこ教授)というのがありましたので、一部ご紹介します。


何度か初代フェントン版の君が代についてはここでもご紹介してきましたが、「君が代の旋律の成立過程」でもそのことに触れられています。しかしフェントン版の君が代は、歌詞にあわずに不評でした。そこで曲の改変が計画されたのですが、世情も安定していない中、なかなか進まなかったようです。そしてフェントンは日本を去り、エッケルトが来日してからの紹介です。

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明治13年1月、海軍省から宮内省に対して正式に「君が代」の作曲が依頼された。宮内省は「君が代」の作曲を公募にし、数種の楽譜が海軍省に届けられたが、応募作品の数や応募者名は明らかにされていない。海軍軍楽隊長、陸軍軍楽隊長、式部職雅楽課の一等伶人・林廣守、海軍省雇教師エッケルトの四人によって審査が行われ、その結果林廣守の「君が代」が選ばれた。

実はこの曲、伶人・奥好義が林廣守の長男・廣季と相談しながら作曲したものらしい。二人は当時若手の雅楽員で、奥は後に高等師範学校の教授になった人物であるが、その後の奥の談話によると「林廣守に命じられて『君が代』の歌に譜をつけただけで、それが国歌であるとは知らなかった。複数の者が作曲に当たった場合、その作品に上級者が代表者として記名し、個人の作品とはしない。それが楽部の慣例である。」と語っている。それゆえに林廣守作曲ということになっているのである。

新しい『君が代』は雅楽調の旋律、壱越律旋の音階が用いられた。これに海軍軍楽教師エッケルトが西洋風の和声をつけ、吹奏楽譜に編曲して、新国歌『君が代』を完成させたのである。

エッケルトの編曲は、日本伝統音楽に和声がなかったことを踏まえ、その特性を活かした素晴らしいものだった。最初と最後の二小節の伴奏は和声をつけずユニゾンで奏する。

つまり「♪きみがよは」まではユニゾンで「♪ちよに」からハーモニーが付けられ荘厳さを醸し出しているのだ。エッケルトは次のようにも語っている。「『きみがよは』の部分はたとい千万人集まって歌おうとも、いかほと多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても日本の国体に合わぬ気がする。云々」

明治十三年十一月三日、天長節御宴会において、宮内省雅楽部吹奏楽員によってこの新しい『君が代』が初演された。評判は上々だったそうである。

国歌の音楽としての条件は、○尊厳にして高雅なること、○外国音楽の模倣ではなく、その国独特の音律によること、○誰にでもたやすく歌い得ること----などである。雅楽に基づく『君が代』は、このような条件にも合致した上に、単純、素朴な中に言い知れぬ美しさを秘めている素晴らしい国歌となった。


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こんな風に学べる学生さんは幸せですね。

そしてこんな素晴らしい国歌を持つ私達も幸せです。

感謝。


作曲家すぎやまこういちさんの解説『君が代』の曲の素晴らしさ↓

 






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