厩戸豊聡耳皇子命(うまやどとよとみみのみこのみこと)、斑鳩宮(いかるがのみや)に薨(かむさ)りましぬ。是の時、諸王、諸臣、および天下の百姓は、ことごとく、長老(おきな)は愛児を失うがごとく、塩酢之味口(あじわいくち)にあれども嘗めず、小幼者は慈しめる父母を失うがことく、哭(な)き泣(いさ)つる声、行路に満てり。すなわち耕夫は耜(すき)を止め、春女は杵(きおと)せず。皆いわく、日月輝を失いて、天地すでに崩れぬべし。今より以後、誰をか恃(たの)まん哉。
 
日本書記では、聖徳太子薨去のありさまを上記のように記し、さらにこの後このことを伝え聞いた朝鮮の恵慈法師が悲しみのあまり翌年の同月同日に死んだことが書かれています。
 
以上は、『聖徳太子と憲法十七条』に書かれていましたが、日本書記30巻を通じて個人に対する詳細な記録と国の内外をあげての悲嘆の述懐の記録は他に類をみないとあります。聖徳太子薨去100年後に編纂された日本書記にこのように記録されたことは、100年後の当時も聖徳太子の遺徳が偉大であったことを物語っているといいます。
  
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)聖徳太子が薨去されました。(推古天皇29年とも)つまり2年前とその前の年の2年連続聖徳太子1400年として、1400年祭関連の行事をなにかと目にする機会があったかと思います。

 
聖徳太子は、用明天皇の皇子であり推古天皇の皇太子となり補佐をされた方です。十七条憲法と仏教普及、また冠位十二階や遣隋使派遣等の功績が有名な方で、多くの伝説もあります。

 

 

特に十七条憲法に貫かれている和の心はその後の日本の根本的考え方になりました。その影響は今も生きていることが感じ取れますが、ここで間違えてはならないのはこの和は単純に協調すればいいというものではないということです。竹田恒泰さんは『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』において「和」の意味について以下のように解説されています。

 

「聖徳太子が冒頭に示したのは『和の精神だった』。『和』は自己の主体性を保ちながら他者と協調することであり、自己の主体性を失って他者と協調する『同』とは似て非なるものである。」

 

つまり、ただ同調しても『和』にはならないのです。確かに自分を失ってしまっては、相手が良くても、自分が良くない。その反対でも、同じこと。これでは不協和音のもとです。しかし、自己の主体性を保つ和であれば、お互い対等となります。だからこそ論議せよ、と第一条に書かれているわけです。『和』の考え方は、聖徳太子がそれまでの歴史をみてたどり着いた叡智の結晶ではないかと思うのですが、そうしたことがきちんと教えられなくなってしまったのが現代の日本で、辞書をみても「和」の説明も肝心なことが抜けていたりします。こうしたことが同調圧力などということを生じさせてもいるのかもしれません。

 

 

 

日本の政治や役所の対応に歯がゆさを感じることが多くあります。これには色んな要因が重なっているかと思いますが、なにかと官僚が邪魔をしているところが多いともよくいわれるところです。十七条憲法は元々役人のために作られており、官僚には十七条憲法を学んでほしいと思います。こうした十七条憲法を学んできたからこそ、日本では不正を憎む心が強くあり、幕末明治に来日した人々が下々までの日本人の正直さに驚いたのだと思います。しかし、今の日本ではどうでしょうか?

 

日本の根本的な思考の根となっている『十七条憲法』は何度読んでも奥深いです。私達日本人がきちんと知らないのはもったいないです。


 

聖徳太子が建てた法隆寺では、旧暦に近い3月の22日からお会式と呼ばれる法要が行われました。

 

聖徳太子は、磯長陵に葬られています。後に弘法大師をはじめ多くの高僧が廟内で修業したと伝えられ、我国仏教の聖地としても重要な位置を占めていると書かれています。

 

磯長陵は叡福寺内にあります。ここには前日に薨去された妃 膳部郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に薨去された母 穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と共に埋葬されています。推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置かれたことに始まる寺で、神亀元年(724年)には聖武天皇の勅願により七堂伽藍が造営されたと伝えられるとHPには書かれています。こちらのHPには、推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)に大使が薨去されたとあり、毎月11日に太子御影供法要が営まれ、毎年4月11日、12日には大乗会式が盛大にとりおこなわれています。

 

小野妹子の墓も近くにありますが、妹子が太子の御陵を守護し花を供えたのが池坊の始まりと太子町のHPに以前は書かれていました。(今は削除されたようです。)そのため小野妹子の墓の管理は池坊が行っているそうです。

 

聖徳太子が創建された四天王寺では新暦の2月22日に太子会(聖徳太子忌)が行われており、月命日として毎月22日は四天王寺の縁日となっており、絵堂と中心伽藍が無料開放され、また五重塔最上階回廊も開放されています。

 

聖徳太子縁のお寺は日本中にありますから、多くのお寺で行事が行われているかと思います。また聖徳太子ゆかりの神社も日本中にあります。

 

鵲森宮(かささぎもりのみや)は聖徳太子が父君の用明天皇と母君の穴穂部間人皇后をお祀りして創建された神社ですが、聖徳太子も祀られています。

 

栃木県栃木市にも聖徳太子神社があります。ここは氏神神社で、聖徳太子の子孫が移り住み祀った神社で太子館という温泉旅館の敷地内にありますが誰でもお参りできます。

 

奥の上にある白い建物が聖徳太子神社です。

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ここ何年も、聖徳太子はいなかったなどという珍説を唱える人たちがいて、教科書からも聖徳太子ではなく厩戸皇子という記述にするとかの動きがあったり、聖徳太子を否定する本があったりしますが、それは例えば崩御後に名前が贈られる天皇の名前も否定することとなり、日本の歴史そのものを否定する行為となります。また日本には貴人になればなるほど実名を避けて使用しないという実名敬避という敬語がありますが、こうした行為はそうした日本の言葉や文化の歴史までも否定するものとなり、日本の慣習そのものを否定する行為だともいえます。

 

聖徳太子縁の寺社仏閣の多さは、後に太子信仰までも生まれた証であり、1400年も続くその存在感を否定するなどとんでもないことだと思います。

 

復刻版初等科国史では聖徳太子には4ページ以上割いています。十七条憲法や日本的仏教の教えなど、日本の人間教育の礎を築いたともいえる聖徳太子を教えることがいかに大切なことかを表していますし、そうした教えを受けた先人達が先の大戦で私達未来の日本人のために闘い、また戦後復興にご尽力されたことを考え、また今の政治と比較すると歴史教育の重要性が示されています。

 

「FULL POWER」によれば、家族の歴史を知っている子供は困難なことに直面した時の対応力があり、また回復力がありストレスにも強いといいます。そして、創業史を知っている従業員は意欲的になれるといいます。これは世代を超えた自我や自分よりも大きい何かの一部であると知っていることが自信に結び付くからです。我が国は、「国家」という言葉を造ったように国は家族であるという認識の国です。そうした認識が実はアメリカを怯えさせていたほどの日本人の強さとなりました。

つまり、今もこうした日本の歴史をきちんと知ることは、私達を強くするということになります。このような偉人の存在はいかに私達を励まし自信をつけてくれるか計り知れません。だからこそ、聖徳太子については繰り返し伝え続けていかなけらばならないのです。

 

 

 

 

その影響は今も生きていることが『日本の民主主義はなぜ世界一長く続いているのか』や『天皇家百五十年の戦い』からも感じ取れます。

 

 

 

 

竹田学校での聖徳太子の動画がいくつかありますので是非ご覧ください↓

 

ねずさんこと小名木さんが語っている聖徳太子の動画もたくさんありますので是非ご覧ください。

 

 

 

 

 

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