3月11日、日本国史学会第44回講演会がありました。

 

毎月あるのですがとても面白く、一般の人でも第一線の話を聴講できますので、これを知らないのは惜しいと思います。そこで今度から簡単なレポートをあげようかと思います。

 

日本国史学会とは

HPから引用します。

終戦直後、
日本の歴史学界には、占領下の中で、民主主義の名のもとに、マルクス主義経済史観が非常な勢いで入りこんできました。

日本の歴史学はその中で形成されたといっていいでしょう。

現在では直接「マルクス主義」という名を聞くことはまれになりましたが、その残滓は確実に残っております。
多くの学会の歴史観の基本となっており、そのため今の若手研究者でも、無意識のうちに、特定の方向性に導かれてしまっております。

したがって、それらと史観を異にする学会がつくられなければならない、
唯物論的な経済史観、階級闘争史観とは異なった日本史観による、あらたな日本の国史を形成し、議論する場としての学会をつくらなければならない、と強く感じ、「日本国史学会」を創設するに至った次第であります。                  

日本国史学会 発起人

田中英道(東北大学名誉教授)

小堀桂一郎(東京大学名誉教授)

中西輝政(京都大学名誉教授)

竹田恒泰(皇学館大学講師)

 

◇日本国史学会 基本方針

  1. わが国の祖先たちより継承してきた歴史、すなわち国史を、その伝統と文化を重んじる観点から、あらためて何であったかを研究し、学問する者の学会とする。
  2. 従来の専門化・細分化した研究を、他国、他分野のそれと比較、対照しながら、その価値を再認識し、日本の国史を再構築しようとする学会とする。
  3. 前項の目的に即して、時代、地域を限定せず、それぞれの立場から研究し、歴史の連続性、一貫性からそれをお互いに理解し、検証し合う場としての学会とする。
  4. 質の高い創造的な論文を、学会誌に掲載し、あらたな知見を発表することができ、誰にも開かれた場としての学会とする。

この日本国史学会の事務方として、久野潤チャンネルの久野潤さんも当初から関わっており、もちろん久野さんも講師として定期的に講義をされてらっしゃいます。

 

 

基本方針にあるように開かれた場としてあるため私などでも聴講できるのです。そして国史をみた場合寺社の歴史と切り離せませんから宮司さん等の話を聴くことも多く、神武天皇2600年祭が実際は今年が本来の年であったのを知ったのも、日本国史学会のシンポジウムが年末橿原神宮で行われ、久保田宮司さんの話を聞いたことによります。

 

先月の回では、伊藤博文と第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリアの皇太子暗殺に使用された銃が連番であったことを知りました。これは講義の合間の余談で聞いたのですが、この余談も私は好きです。

 

私には上手くまとめられないとは思いますが、少しでも興味を持っていただき日本国史学会の講義を聴きに来る人が増えたら嬉しいです。

 

 

 

ところで現在、「聖徳太子」を「厩戸王」に変えないで!という活動が起きています。文科省の次期学習指導要領には、「聖徳太子」の呼称を「厩戸王(うまやどのおう)」に置き換えるという案が含まれているのです。「聖徳」という美称を捨て去り、「厩」などの卑近な漢字を使わせることで、聖徳太子の崇高なイメージを低俗化させたいという一部の人間の意図がそこには見え隠れしています。

教科書の新指導要領に関しては、文科省で国民の意見をパブリック・コメントとして3/15まで募集していますから意見をするチャンスです。「聖徳太子の呼称を厩戸の王に変えないで」という意見を是非文科省に届けましょう。

 

パブリック・コメント(意見募集)の詳細
学校教育法施行規則の一部を改正する省令案並びに幼稚園教育要領案、小学校学習指導要領案及び中学校学習指導要領案に対する意見公募手続(パブリック・コメント)の実施

◆参考資料
聖徳太子は実在した


 

 

さて日本国史学会の今月は、国際教養大学特任教授の金岡秀郎先生と、東北大学名誉教授で日本国史学会の理事である田中英道先生の講義でした。毎回面白い講義なのですが、今回もとても面白く、笑い声が何度も起きました。

 

しかも田中先生の講義は、「聖徳太子虚構説批判」というタイムリーな内容でした。

 

聖徳太子虚構説については、その発端となった大山誠一の『<聖徳太子>の誕生』の説から、田中先生ご専門の美術史の年代を例にあげたり、また建築家が調べた事実等から検証されており、とても分かりやすい内容でした。これについては、田中先生ご著書の「聖徳太子虚構説を排す」から引用されていましたのでご興味のある方は是非本を手に入れて読んでください!ただ残念なことにすでに廃版になっているということなので、古書を手に入れるしかないようです。

 

しかしプリントアウトで数ページ分いただきましたので、そこからいくつか引用したいと思います。

 

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まずは冒頭です。

『たしかに日本書紀では聖徳太子という言葉は使われていないが、すでに慶雲三年(706年)に法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」と名が伝えられている。法隆寺の薬師如来像の後背銘で、聖王と呼ばれている。また推古天皇の娘が「東宮聖徳に嫁ぐ」と書かれ、この「聖徳」という言葉は、当時から通用していたことがわかるのである。厩戸王子とのみ呼ばれていたわけではない。』

 

これは、聖徳太子というのが後から付けられたという説への反論です。

 

またその後に、

『偉大な人間は生前よりも死後に高く評価される。その評価もひとつの歴史資料である。歴史というのは人間史である限り、評価などに関するものは、それを客観的に扱うのが歴史学である。しかしその対象が「権力」に近い限り、日本の学者の多くはそれを否定的に割り切ろうとしている。唯物論と称して、そこに当時の評価の問題さえ批判しようとするのである。

治世者を治世者として見ず、権力者として見、抑圧者として考える見方が横行している。文献における七世紀初めの聖徳太子が行ったことを否定することが、あたかも実証主義である、という風潮があるのである。』

と書かれています。

 

また大山氏は、『憲法十七条と教育勅語がともに訓戒的で、天皇生をイデオロギー的に支えた点でよく似ている』、明治二十二年の明治憲法に置いて『天皇は、藩閥の都合により絶対君主に祭り上げられた』、『一体、天皇が絶対君主としされた根拠はどこにあるのか。江戸時代まで無力だった天皇が、どうしていきなり絶対君主になったのか。天皇の存在を根底から揺るがす疑問が出てきたら、肝腎の藩閥政府の正統性は一挙に消し飛ぶ。そのために作成され、憲法の翌年の明示二十三年に出された教育勅語である。』と述べているそうです。

 

これについても、『まず、天皇は、江戸時代まで無力であった、ということであるが、戦国末期に天皇の権威が強化され、徳川幕府についても征夷大将軍の任命から武家の冠位の授与、東照大権現といった幕府の祖神の形成に至るまで、武家政治の正統性に関わる重要な箇所に全て朝廷が関与していたのである。天皇の権威は徳川時代を通じて不可欠なものとして存続していた。それ以前の「中世」においても、網野善彦氏の一連の研究でも、その時々の権力者が政治的権威を天皇に求めてきたことは明らかにされている。日本の歴史を見てゆくと様々な治世者が登場するが、天皇と無関係に形成された権力は正統ならざるものである、という共通了解がずっと存在していたことを見逃してはならない。大山氏のいうように、明治期に急に天皇を絶対君主にしたてて、ときの藩閥政権がその存続をはかったというような事柄ではない。すでに幕末の尊王攘夷の動きに表れているように、日本が外国から攻められるよ木表現される日本外交の原則であったのである。明治期に及んで「近代国家」の体裁を整えるための憲法をつくるときに、天皇立憲君主主義としてそれを成文化した。そして天皇の「化教育勅語」は国家への忠と親への考を語っているのも、国際化した実情に合わせ、日本の道徳観念を再認識させたものといってよい。これを封建時代の家父長制と等しいものと考え、日本が半封建的であり、前近代的な絶対期主義国家である、というテーゼに持っていったのがソ連共産党・コミンテルンの三二年テーゼであり、共産党の「講座派」がそれを丸呑みした。大山氏がこのような聖徳太子の十七条憲法と明治期の教育勅語についての意見を持ったのが、すでに何十年前と書いており、それが聖徳太子研究の原点となったと書いている。つまり大山氏の聖徳太子捏造論は、実証の積み重ねではなく、そうした権力者の存在を否定する見解の上に引き出された理論である事が理解される。・・・一部略・・・「聖徳太子が存在しなかった」という異説は、まさにその天皇の権威を否定したかった意図が前提なのである。歴史家としては失格といってよい。』と書かれています。

 

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また聖徳太子と同時に法隆寺にも否定的意見が述べられていることに関しては、斑鳩寺と法隆寺二つのお寺があったということからの説明をされています。そしてその時に、田中先生ご専門の美術史からも述べていることの一つが釈迦三尊増の事です。法隆寺の「釈迦三尊」像が銘記から聖徳太子とその王后があいついで病床についたその転病延寿と安住世間を願って太子らの釈迦像をつくろうとしたが、王后と太子は翌二月に日を接して他界してしまい、願いの釈迦尊像等が完成したのは翌年の三月のことであったと書かれていること。またこの像の台座にも銘文と同じ年期の墨書銘が奈良国立文化研究所の調査で明らかになったというのです。つまり、聖徳太子と同年代に作られたものなのです。つまり聖徳太子の飛鳥時代の仏像が、その実在を証明していることになります。

 

そして法隆寺建立の年代ですが、建築家、関野貞氏が法隆寺の建築を調べ、ここに高麗尺(飛鳥尺)といわれる単位でかって作られ、薬師寺東塔などで使われている、天智天皇の時代の唐尺(奈良尺、天平尺)と異なっていることを指摘していることから、建築の形の相違が時代の縮尺にも根ざしていることを明らかにしており、法隆寺の建物も仏像も聖徳太子と同じ時代(死後三十年ほどを含めて)であることは動かない、と述べています。

 

そして、『法隆寺という言葉は「日本書紀」で天智九年(670)に出てきたもので、それ以前の記述は斑鳩寺である。このことは「日本書紀」の書き手が、斑鳩寺と法隆寺の二つがある、ということを知っていたことになる。その焼けた法隆寺は、昭和14年猪郷の発掘で発見された若草伽藍であることが明らかになった。焼土を伴って出て来たからである。そうならば「日本書紀」は斑鳩寺と法隆寺を両方併記しているのだから、斑鳩寺のほうは焼けずに残ったと考えることが出来るのである。両寺に似た様式の瓦が使われていたことも説明できる。従ってこのもともとの斑鳩寺は、現在の法隆寺である事になる。』と書かれています。そしてその五重塔の心柱の年代が594年なのですが、その594年は、推古天皇が詔を出しそこには皇太子として聖徳太子のことが明記され、その詔により斑鳩寺(現法隆寺)を造立したことが推測されるというのです。

 

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他にも詳細を語られていましたが、聖徳太子を抹殺しようとする動きがこれだけでもいかにおかしいことかご理解いただけるのではないかと思います。(私の説明では、中途半端に思われえるかもしれませんが、ご了承ください。)

 

 

なお、田中先生はパブリックコメントを求められてらっしゃるとおっしゃってました。

 

 

 

日本国史学会の講義は本当に面白いので、多くの方に聴いて欲しいと思います。是非この機会に興味をもっていただき、日本国史学会の公開講義を一度聴きに来ていただきたいと思います。中にはわざわざ瀬戸内海の島から、何時間もかけて通っている方もいます。

日本国史学会連続講演会

今後のスケジュール

4月8日(土)14:00~16:45 

第45回連続講演会

(麗澤大学東京研究センター)

【講師】

◯ 福井 雄三(東京国際大学教授)「松岡外交の再評価」
◯ 新 連 続 講 座

5月13日(土)14:00~16:45 

第46回連続講演会

(麗澤大学東京研究センター)

【講師】

◯ 平間 洋一(元防衛大学校教授)「日英同盟再考ートランプ大統領の就任を踏まえて」
◯ 新 連 続 講 座

 

※ 6月以降の東京の連続講演会日程

7/8・8/5・9/2・10/14・11/11・12/9