本日は大きな国難を乗り越えた天皇の祭日が重なっています。

 

第十代崇神天皇は、纒向時代の天皇で三世紀に活躍したといわれています。

 

奈良県桜井市には纒向遺跡がありますが、ここは崇神天皇が遷都された磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)の近くであり、その規模の大きいことからいかにこの時代から繁栄されたかを物語っており、崇神天皇の御事績とも当てはまっています。


古事記では「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししみまきすめらみこと)」日本書紀では「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とあり、また常睦風土記にも「初国所知美麻貴天皇」とあります。

これは、神武天皇が即位後穏やかな統治が何代も続いていたため何も記すことがなかった後、第10代崇神天皇の時代になり疫病、飢饉の対応や地方の平定、土木事業等、業績が多くあったため、初めて国土を治めたという名前がついたという説があります。


御父は開化天皇、御母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。

 

御名は御真木入日子印恵命(みかきいりひこいにえのみこと)。


 崇神四年の詔で、「わが皇祖の諸天皇達がその位に臨まれたのはただ一身のためではない。神や人を整え天下を治めるためである。だから代々良い政治を広め徳を布(し)かれた。今自分は大業を承って、民(おおみたから)をめぐみ養うこととなった。どのようにして皇祖の跡をつぎ、無窮の位を保とうか。群卿百僚たちよ、汝らの忠貞の心をつくして共に天下を安ずることは、また良いことではないか。」といわれました。

 

国内に疫病が流行し多くの人民が亡くなり、また農民が流離したり反逆したときには、天皇の徳をもってしても難しい時もありました。天皇は朝夕天神地祗に祈り八十万の神々を招いて占われ、大物主神を三輪山に祀られています。

 

 

 

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このとき掌酒(さかびと:神に奉る酒をつかさどる酒人)が天皇にその年にできた神酒を献(たてまつ)って、「此の神酒(みき)は我が神酒ならず倭成す大物主の醸(か)みし神酒幾久幾久」(このお神酒は人知を超えて、大和の国をお造りになった大神の醸(かも)された酒です。天皇様よ幾久しく栄えませ)と歌って酒宴を開きました。やがてその一晩の酒宴の終わりを迎えて、参列していた諸大夫達(まえつきみたち)が「味酒(うまさけ)三輪の殿の朝門(あさど)にも出でて行(ゆ)かな三輪の殿門を」(旨い酒を堪能して、三輪の社殿の朝に開く戸口から帰るとしよう)と歌うと天皇も以下の歌を詠み返され、ご自身もやがてその殿門から朝帰りをされたというこの歌には収穫に神に感謝する君臣の心の通い合いが窺われる、と『歴代天皇の御製集』に書かれていますが、国難を乗り越えられた歓びもあったということなのでしょう。

 

味酒三輪の殿の朝門にも

押し開かね三輪の殿戸を

 

一晩中酒盛りをして、朝になったら三輪の社殿の門口を押し開いてお帰りなさい

 

 

また天照大神を天皇の御殿に祀りした後に大和の笠縫邑に祀りました。これが後に伊勢に神宮ができる始まりとなります。

 

 

崇神天皇という漢風諡号は後の奈良時代に淡海三船が漢風諡号として贈ったものですが、「神を崇める」という名前にしたのは、こうしたことから来ていると思われます。


また四人の将軍を全国各地へ派遣し(四道将軍)、地方の敵を平らげ国内は安らかとなりました。その後、戸口調査を行い課役を仰せつけ家々に物や人が充足し天下は平穏になったといいます。また海辺の民に船がなく苦しんでいると船を作らせ、水が少ない河内には池や溝を掘り善政に励んでいます。その時は「農は国の本である。人民のたのみとして生きるところである。今河内の狭山の田圃は水が少ない。それでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って、民のなりわいをひろめよう。」と詔しています。

 

崇神天皇は何度か詔を出されていますが、そこには何度も「おおみたから」の言葉が出てきます。「おおみたから」とは、民の事。神武天皇の即位の時から民を思う大御心を大切にしてきた天皇の姿がその詔にあらわれていらっしゃるのです。特に各地に軍勢を送った時の詔「民(おおみたから)を導く本は、教化(おしえおもぶ)くるに在り」の言葉は、日本的知恵「知らす」を具体化したものといえるかと思います。

 

崇神天皇の時代、海外からの民の帰化があることが、その詔に書かれています。

 

 古事記によれば百六十八歳、日本書紀によれば百二十歳にて崩御。


古の暦では半年を1年としたといいます。その数え方でも、古事記では84歳、日本書紀では60歳となりますから当時としては長寿だったかと思います。

 

御陵は山邊道匂岡上陵、奈良県天理市柳本町にあります。また大神神社内には崇神天皇を祀る社があります。

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古代日本が分かりやすい本

 

 

 

 

第一二四代昭和天皇は上皇陛下の御父君にあらせられ、天皇陛下の御祖父でもあらせられます。天皇陛下の御名は昭和天皇が命名されました。


 明治三十四年(1901年)生。


御名は、裕仁(ひろひと)、廸宮(みちのみや)。裕仁の御名は、皇孫を喜ばれた明治天皇に命名されました。


御父は大正天皇、御母は貞明皇后(九条節子)。


在位、大正十五年(1926年)から昭和六十四年(1989年)。


明治天皇たっての願いで親王の教育のため就任した院長乃木希典の学習院初等科に入学、初等科を卒業後は東宮御所内に御学問所が設けられ選ばれた御学友とともに、大正十年まで近代的な立憲君主としての教育を受けられました。


大正五年に立太子礼があり、八年には皇太子妃の内定、そして大正十年(1921年)にはヨーロッパの訪問をしました。英国を始めフランス、オランダ、ベルギー、イタリア各国を廻り、半年後に帰朝されています。この諸国訪問は青年皇太子の人間的成長への影響が大きかったと言われています。


帰国されてすぐに、大正天皇の病状悪化のため摂政に任ぜられ国務を逐行されました。


大正十二年(1923年)には台湾訪問、関東大震災、また狙撃される事件などがありました。その翌年には御成婚されています。


大正十五年(1926年)大正天皇の崩御を受け即位、年号が昭和になりました。

 

 

昭和になると急速な軍部の伸張に悩まされていきます。


公には、お気持ちや考えを表明されることがない天皇の、その考えが一番現れるのは詔と御製といいます。しかし、昭和天皇の御製には戦意高揚等の御製は一首もないといいます。


御製について有名なのは、日米開戦直前の九月六日の御前会議で、明治天皇の御製を詠まれたことです。

 

四方の海みなはらからと思う世になど波風の立ちさはぐらむ

 

 

しかし、満州事変、ニニ六事件を経て昭和十二年(1937年)に支那事変が起き、昭和十六年(1941年)には大東亜戦争に突入していきました。


立憲君主として、議会に従うしかない天皇は、機能停止化したニニ六事件と終戦直前にしか権力行使ができませんでした。昭和天皇ご自身が「自分の意を貫いたのはニニ六事件と終戦の時だけだった」と語られています。

 

 

 

歴代の天皇の中で、これほどの国の危機が起きたことはありませんでした。この昭和の時代に昭和天皇がいらっしゃったからこそ、今も日本があり我々日本人が日本人としてあるのではないかと思います。

 

 

昭和二十年(1945年)の終戦後は、国民と共に復興をめざし、戦時中防空壕としてお住まいだった御文庫を出たのは、二十四年後のことでした。御自身のことは後回しにされたという逸話が沢山残されてらっしゃいます。

 

 

その皇居の荒廃を見かねて昭和20年12月自ら勤労奉仕を申し出た宮城県の有志の方々の活動が、現在に続く皇居勤労奉仕の始まりとなりました。


また全国四十六都道府県を八年かけて御巡行され、国民を励まされました。

 

ほぼ同様の映像が続きますが、日本版では消されている当時の音声が圧倒的です。↓

この圧倒的な国民の支持に驚き、GHQは2度も御巡幸を中止しました。

 

昭和天皇の御言葉には悠久の過去を見倣い、何百年もの先まで見据えた視野があることが分かる逸話があります。終戦の直後長い間海軍大臣を務めていた米内光政が天皇陛下に拝謁をした時の御言葉です。


米内光政はこのようなことを申し上げた。
「こういう敗戦の結果と致しまして今後、度々拝謁をする機会も恐らくはないことと思います。随って今日は、ゆっくり陛下のお顔を拝みたいと思って参りました。このたびの敗戦には、我々、大きな責任を感ずるのでありまするが、敗戦の結果、日本の復興というものは、恐らく50年はかかりましょう。何とも申し訳ないことではありますが、何卒、御諒承をお願い致します。」
ところが昭和天皇はこのようなことを仰られるのです。
「50年で日本再興ということは私は困難であると思う。恐らく300年はかかるであろう。」
米内は、この御言葉に胸を打たれて暫くは頭が上がらなかったといいます。

 

これは天智天皇が白村江の戦いで負けた後に行った復興の歴史からの言葉であり、このような視点を持たれていたのは当時の日本で昭和天皇ただお一人だったのではないかと思います。昭和天皇のこの視点は教育もさることながら、2600年以上遡る歴史を持つ天皇という存在だからこその視点だったのではないかとも思えます。御歴代の天皇の歴史を辿れば、大きな歴史の波が何度もあったことが見えてきますし、先を見据えた御歴代の天皇がいらっしゃったからです。そのような歴史を知りながら、只今だけのことに目線を向けることなどはできないでしょう。

 

 

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終戦の翌年の歌会始の御製はこうした想いの溢れたものになっています。

 

ふりつもる み雪にたへて 色かへぬ

松そををしき 人もかくあれ

 

ここには、その言葉通りの意味の奥に大御心が隠れていると松浦光修氏は『日本とは和歌』に書かれています。その大御心とはこうです。

「日本は今敗戦と占領という歴史上かって経験したことのない試練の中にありますが、どうか国民よ、日本人としての誇りを失わず、そして未来への希望も失わず、国を復興していきましょう。」 

 

上皇陛下が皇居内で行ってきた稲作は昭和天皇が始められました。天孫降臨で稲作を広めた邇邇芸命の御子孫として、記紀に描かれた神話に基づき皇室こそは稲作の中心であるということを体現されたのです。それは農は国の本であるとした崇神天皇をはじめとする御歴代が祭祀を司り守られてきたものが初めて外に見える形となったともいえます。そしてそれは、天皇陛下にも引き継がれました。

 

その後多くの農家が稲作を止め、先人達が苦労して作った田んぼが埋め立てられ住宅地に変わってきている現代ですが、一方で全く稲作と関係のなかった人たちが脱サラして稲作を始めたりするようにもなっています。また体験としての稲作をする機会が増え人気もあるのは、春の田植え、秋の稲刈りを昭和天皇から今上陛下に続く現在まで毎年日本中がニュースで見ていることが大きいのではないかと思います。

 

昭和天皇は最後の病床の時も、長雨が続いている時に稲の実りを気にされていたと伝わります。

 

また天長節(天皇の誕生日)、正月二日に行われている一般参賀も始められたのは昭和天皇です。

 

 

年代のはっきりしている歴代天皇のなかで最長・最高齢となられた昭和天皇は、昭和六十三年九月十九日(1988年)吐血され闘病生活に入られました。日本列島全体が派手な行事やイベントを自粛した暗い時期に入りました。今でも覚えていますが、体調がすぐれなかったであろうこの年の夏は私が初めて経験した冷夏で、夏なのに寒いと感じたことが何度かありました。(冷夏はその前もその後もありましたが、体感として夏に寒いと感じたのは今に至るまでこの年だけです。)その翌昭和六十四年(1989年)崩御されました。

 

この時期の自粛については日本経済の停滞を招いたとして批判する向きがあります。しかし、世界中どんな国であろうとその国の長が生死をかけた闘病生活を送られている時に浮かれ騒ぐ国がどこにあるでしょうか?しかも、この停滞期間があったからこそ、その直後のバブル崩壊時の影響が抑えられたとも言われており、昭和天皇は最後の最後まで日本を御守りくだされたともいわれているのです。

 

『歴代天皇の御製集』には昭和天皇の御製が13首紹介されていますが、その中から70歳にお成りになられた時の1首を紹介いたします。説明は必要なく誰でもその意味が分かることと思います。

 

よろこびもかなしみも民と共にして

年はすぎゆきいまはななそら


御陵は武蔵野陵、東京都八王子市にあります。

 

 

 

三十年式年祭時には、上皇陛下御自ら御陵への参拝があり、宮中では当時皇太子殿下の天皇陛下が、上皇陛下の名代とし三十年式年祭の拝礼をされました。

 

また伊勢神宮や明治神宮では、武蔵野御陵遥拝、靖国神社でも10時から昭和天皇武蔵野陵遥拝式が行われ、他の多くの神社でも行われました。

 

 

昭和天皇の崩御から30年となる7日、東京都八王子市にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)で昭和天皇三十年式年祭の山陵(さんりょう)の儀が行われ、天皇、皇后両陛下と、秋篠宮殿下同妃殿下をはじめとする皇族方が拝礼された。元皇族や安倍晋三首相ら約80人も参列した。
天皇陛下は墳丘前の祭壇に玉串をささげて拝礼し、「どうぞ、国家、国民をお守りくださり、さらに繁栄させていただきますよう、お願い申し上げます」という趣旨の「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられた。続いて皇后陛下も拝礼された。
一方、皇室の祖先を祭る皇居・宮中三殿の皇霊殿(こうれいでん)で行われた三十年式年祭では、両陛下の名代として皇太子殿下同妃殿下がご拝礼。療養中の皇太子妃殿下が、心身を清める潔斎をへて、皇室の伝統的な装束を身につける宮中祭祀(さいし)に臨まれるのは、平成28年4月の神武天皇二千六百年式年祭以来約3年ぶり。

※一部敬称をつけたしています。

 

昨年両陛下が、昨年御陵に参拝されたニュース。私たちはいつでもご先祖様のお墓をいつでもお参りできますが、両陛下ともなるとそうはいきません。以下の動画では宮中祭祀がある為との説明がありますが、それだけでなく特に陛下は祭祀を司るための潔斎が厳しいため、なかなか難しいわけです。ありがたいことだと思います。

 

明治期より戦前まで先帝祭は国民の祭日(休日)としてありましたが昭和22年に大正天皇祭がはずされており、昭和天皇祭が国民の祭日(休日)となったこともありません。しかし、我国の先帝の祭日を国として偲ばないのはおかしいものだといわざるを得ません。

私は日本が本当の日本に戻った時、先帝祭が復活しまた昭和天皇の社が出来ると信じています。

 

式年祭の年だけでなく、毎年宮中では祭司が行われ、皇室の方が御陵に参拝されています。そして、多くの神社で昭和天皇の遥拝式が行われています。遥拝式とあるのは、昭和天皇陵の武蔵野御陵に向かってお祈りすることです。本日はお近くの神社へお参りするか、あるいは武蔵野御陵の方面へ遥拝しましょう。また奈良の大神神社内には崇神天皇社がございますので、お近くの方は是非こちらもお参りいただければ、と思います。

 

参照:「宮中祭祀」
「全現代語訳日本書紀」
「古事記」
「歴代天皇事典」
「天皇のすべて」

 

多くの人に読んでいただきたい「天皇家百五十年の戦い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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