竹田恒泰氏の『天皇の国史』は、建国の時代と近現代に比重を多く割いていますので、その中間の時代の頁数が全体の割合からすると少ないです。しかし、そうした中でも、大きく頁を割かれている時期がいくつかあります。奈良時代末から平安時代の始まりの時期もそうした時代の一つです。それは、称徳天皇が崩御された後に皇位に就いた光仁天皇から桓武天皇の時代ですが、約11頁がここに割かれています。この時代に何が起きたのか、といえば皇太子の変更が何度も繰り返されたのです。

 

天智天皇の孫にあたる光仁天皇の即位は、天武天皇の玄孫であり称徳天皇の姉妹の井上内親王が妃であったことから、その皇子の他戸親王は天智天皇系と天武天皇系が融合した結果の皇子ということで、それまでの皇位争いを収められる期待感とともに即位することになった経緯がありました。

 

光仁天皇には、他にも母方が下級貴族のため皇統とは無縁とされ東大寺などの寺院に住まわれていた親王の兄弟もいました。父が、60歳になって急に天皇に即位することになっても皇太子は内親王を母とする他戸親王ですから、その兄弟は皇統とは無縁だと思われていました。

 

ところがその三年後、井上皇后と皇太子の他戸親王が廃される事件が起き、突如寺院に住む僧の同母の兄が皇太子となることになりました。山部親王、後の桓武天皇です。山部親王はこの時、初めて親王となり、それまでは王であったことが皇統からいかに遠かったかを物語っています。

 

そして、その9年後、兄が譲位により45歳で即位した時、父の光仁天皇の勧めによって還俗し立太子されたのが東大寺で親王禅師と呼ばれていた早良親王、桓武天皇の同母の弟です。

 

これは即位当時、既に桓武天皇は45歳を過ぎていたこと、そしてその第一皇子である安殿親王がまだ幼かったことから、桓武天皇が急に崩御し安殿親王が幼帝となることを回避するためだったとみられています。

 

またそれまで禅師と呼ばれていた早良親王には妻子がなく、皇太子になっても妃を迎えたり子を為した記録もなかったといいますから、早良親王が皇位に就いても安殿親王に皇位が引き継がれるとみられていました。

 

ところがその4年後の延暦四年(785年)、長岡京遷都のための造長岡宮使の藤原種継暗殺事件が起き、捕らえられた者の中に桓武帝を廃して早良皇太子を立てようと計画したと自白する者が出てきました。

 

早良親王は捕らえられ乙訓寺に幽閉されました。その後淡路に移配されるまでの10日あまり飲食を絶った親王は、延暦四年九月二十八日(785年11月8日)移送の途中河内の国高瀬橋辺りで憤死したといいます。満年齢35歳でした。本日は旧暦では9月28日に当たりますから、1238年前の本日のこととなります。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明ですが、長岡京造営の目的の一つが東大寺などの寺院の影響力排除があったこと、そしてその寺院の繋がりが強い早良親王がその遷都の阻止を目的として暗殺を企てたと疑いをもたれたという見方があるようです。

 

親王の屍は淡路に送られて葬られ、天智天皇の山科山陵、光仁天皇の田原山陵、聖武天皇の佐保山陵に皇太子の早良親王を廃する報告をし、翌年、桓武天皇の皇子、安殿親王が皇太子に立てられました。

 

しかし皇太子が発病し、桓武天皇の妃が相次いて三人病死し、またその母君も病死、さらに疫病の流行や、洪水などが続き、早良親王の祟りであるとされました。

 

そのため延暦九年(790年)早良親王の親王号は復活され、同十一年(792年)には親王の霊への鎮謝が相次いで行われ、同十九年(800年)には親王に崇道天皇の尊号が追贈されました。この時には既に鎮魂が繰り返されてきた井上内親王も皇后と追号されています。

 

その後も崇道天皇の怨霊鎮祀が行われ、同二十四年(805年)には改葬崇道天皇司の任命があり、墓を山陵とし、大和(奈良)の八嶋陵に改葬されました。山陵とは天皇や皇后、太皇太后、皇太后のお墓のことで、井上内親王も既に光仁天皇により改葬されていました。

 

現在あるお彼岸もこうした慰霊の一環として始まっています。

 

後の清和天皇の時代の貞観五年(863年)の神泉苑での御霊会では、御霊の一つとして祀られており、こうした御霊を繰り返し鎮めてきたことが天変地異の激しい時代に御霊信仰へと変わっていくことになったのでした。

 

崇道天皇(早良親王)が祀られている神社

 

崇道神社・・・京都左京区

おもに奈良から西日本を中心に点在し、崇道天皇社、崇道神社、また宗道神社、惣戸神社の字があてられたものもあります。なお、中には早良親王が祀られていない事例もあるとのこと。

 

御霊神社・・・奈良市(主祭神は井上皇后、他戸親王、事代主命ですが、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿と、怨霊になったとされる人々が祀られている)

 

崇道天皇社・・・奈良市(平城天皇の勅命により、崇道天皇を祀るために創建された神社)

 

嶋田神社・・・奈良市(神武天皇の皇子、神八井耳命が祀られた神社であるが、後に近くにあった崇道天皇社と合祀され、崇道天皇も祀られている)

 

八嶋陵(崇道天皇陵)・・・奈良市(嶋田神社のそばにあります)

 

こうしたことこが続いたことは、桓武天皇の皇子達の成長にも影響を与えたと思われれるのですが、その怨霊の標的とされた第一皇子である平城天皇(安殿親王)とその同母弟の嵯峨天皇に、対照的に現れているように思われます。平城天皇は、成長した後に自らも上記のように崇道天皇社を創建されています。

 

平城天皇は、嵯峨天皇へ譲位後、薬子の変を起してしまいます。しかし嵯峨天皇は兄を入道させるにとどめ、善政を敷き、その後譲位した後も、その御存命中には皇族同士の争いのない時代を維持しました。ただ、その存在の大きさゆえ崩御後すぐに後継問題が起きたことが残念ではあります。

 

 

『怨霊になった天皇』はこの時代と、崇徳天皇の時代を中心に書かれています。

竹田恒泰氏の歴史関連動画、竹田学校は『天皇の国史』片手に視聴するとわかりやすいです。

 

多くの怨霊に、ただ皇統に生まれたがために政争に巻き込まれた方々がいることは痛ましいです。このように逃れようのない宿命に巻き込まれる人はいつの時代にもいます。怨霊とは良心の疼きが作り出したものと現代の私達は考えていると思います。しかしその良心は、民族、国により違ってきます。だからこそ、他の国ではこのような怨霊信仰は生まれなかったといえます。そして、現代の日本に怨霊が表れないということは、ただ時代が変わったからだけでなく、私達の良心が変わってしまったのか、それとも良心を持つ人々が変わってしまったのか?とも考えてしまいます。

 

なお、奈良の崇道天皇社は、昨夏近隣火災の飛び火で屋根が一部焼けたことから、防災のためのクラウドファンディングを昨年実施して、多分世界遺産白川郷の各所に完備されているものと同様の防災システムを導入しました。こうしたシステムはもっと一般化すればいいと思います。

 

最近見つけたこうした皇子達の話をまとめた『皇子たちの悲劇』

 

 

 

 

 

 

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