「すめらぎ」とは大和言葉で天皇のことを言います。

すめらぎの逸話で日本について知るきっかけを積み重ねることができたら幸いです。

現代は一夫一婦制が当たり前ですが、昔は高貴な方や権力者には何人かの妻がいることが普通でした。しかしその場合も通常は正妻がいました。わかりやすくいうと、例えば徳川の将軍であれば、大奥での正妻は御台所です。

そして天皇の場合それはお后様となります。

お后様は通常お一人です。しかし、後宮争いが政策としてあった時代には二人のお后が立つこともありました。しかし、本来は同時に二人の皇后が立つことは稀な事のはずでした。

ところが、御歴代の天皇の中に唯一、同時期にお后が三人立たれた方がいらっしゃいました(三后並立)。お后が三人いらっしゃった天皇もいますが同時期というのはこの例しかありません。それは後冷泉天皇の時代のこと。しかも崩御直前のことでした。

 

なぜそんなことが起きたのでしょう?

後冷泉天皇の最初のお后は東宮時代からの妃、後一条天皇の皇女である章子内親王が中宮に立てられました。

次いでそれから約四年後、関白藤原頼通の長女藤原寛子が立后されますが、この時章子内親王は先に中宮となっていたため皇后宮に、寛子が中宮となるところを、中宮のままで良いというご希望のため

章子内親王は中宮
寛子は皇后宮
とされました。

中宮とは皇后の住居を指し、そこから皇后は中宮と呼ばれました。章子内親王の母は藤原道長の娘である中宮威子でしたが、既に父も母も亡く、道長の子息達が後宮政策で互いにしのぎを削っていた時代のことですから、章子内親王には有力な後ろ盾となる人がいませんでした。後からの皇后は二人とも藤原家の子息たちの娘で、次の関白の藤原教通の三女藤原歓子が立后されたのは、後冷泉天皇崩御の直前でのことです。

中宮章子は皇太后
皇后宮寛子は中宮
歓子は皇后宮となりました。

つまり、お后の順番が訂正されたのです。

その二日後後冷泉天皇が崩御されると、先代の天皇の皇后として

皇太后章子は太皇太后
中宮寛子は皇太后
皇后宮歓子はそのままとされました。

太皇太后章子はその後、院号宣下を受けて二条院と称されました。

現在、太皇太后は、先々代の帝王の正妻、または当代の帝王の祖母に対して用いる尊称ですが、昔は以前に皇后(中宮)だった者が新たな皇后が立てられると皇太后と称せられ、さらにまた新たな皇后が立てられると繰り上がって太皇太后の位を称されていたのです。

後冷泉天皇にはお子様がありませんでしたが、太皇太后章子は、国母ではない后として初めて女院号の宣下を受け、安定した余生を送られたといいます。院号を受けると上皇に準じた扱いになりますから身分が安定することになるのです。80歳で崩御されましたから当時としては長命です。後冷泉天皇が崩御直前に、歓子を立后し皇后を同時に三人立てることにしたのは、東宮の時代からの妃であり後ろ盾のない章子内親王に安定した地位を授けるためだったのかもしれません。そう考えると、唯一の三后並立も頷けるのです。

 

先例が大事とされてきた宮中で、崩御の直前まで残される皇后の行く末を考え、藤原家の子息の娘を押し付けられる形でその立場を正したのだとすると、青年になってから壮年までという年代に天皇の地位にいたからこその叡智があったのではないか、と考えています。

 

また、これは後三条天皇が朝廷の改革をされるまで、例え皇后であっても後ろ盾がないと生活が大変となったという現実があります。経済的基盤はいつの世も重要であるということであり、だからこそ戦後皇室の財産はことごとく国の管理となるように変えられたわけです。つまりそうすることによって皇室の弱体化を図ったのです。そのため、明治天皇が強化した宮家を皇室から離脱させざるを得なくなり、後継問題も生まれていますし、何かあるごとに税金をもらっているくせにと国民が皇室を責めるなどという状態にもなっておりGHQが望んだ未来の日本の図が現在というわけです。


なお、歴史上太皇太后だった方は平安時代を最後に13名しかいらっしゃいません。(位を贈られた方は除く)平安時代を最後に現在に至るまで太皇太后が不在なのは、皇后が立てられない時期が長くあったことと、当代の天皇が在位中に祖母が存命であることがないためです。

万寿二年八月三日(1025年)は後冷泉天皇が誕生された日です。本日は旧暦の8月3日ですので、998年前の本日に誕生された事となります。

※単純に旧暦にあてはめています。

参照:歴代天皇で読む日本の正史


 

古今東西世の中は経済で回っており、その経済という言葉は日本では経世済民から生まれた翻訳語です。日本では皇室があったからこそ、こういう翻訳語ができる所以がありました。

『天皇家百五十年の戦い』を読むと、いかに天皇をはじめ皇室の方々が孤高の戦いを続けてきたかがわかりますし、今もそれは続いています。戦後皇室財産が国のものとされる前も後もいかに皇室の方々が福祉のために動かれてきたかがわかります。戦前はその皇室財産を使い、戦後は支給される税金の中から捻出してきているのです。そうしたことを知らずに、日本に反すことばかりをことさら取り上げるメディアやソーシャルメディアに乗せられて皇室の方々を様々に一方を持ち上げ、こちらは攻撃し、あちらも下げる、などとやっている方々はそうして皇室を外側から分断させるようなことが皇室を弱体化させるためであるということに気づいた方がいいのではないでしょうか?もっともらしいことを言わなければ、人々はその気にならないでしょうが、そのもっともらしいことを言っている人々は信頼できる人たちなのですか?

 

 

この短い言葉の奥深さ、特に「叩くだけ叩き、本人たちの気力を奪っていく」という言葉を多くの人に考えてほしいと願っています。

 

 

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