10年以上前から修身の教えが見直されてきて、復刻版教科書での修身の教科書が何冊も発売されています。私も興味を持つようになって知ったのが、この修身の教えの基本に二宮尊徳の教えがあるということでした。二宮尊徳って誰?と思う人でも、きっと幼名ならわかるはずです。二宮金次郎です。二宮金次郎もわからない、という人でも一定年齢以上の方なら、この像はご存知でしょう。

 

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かって、日本中の小学校に置かれていた像です。この少年が成長したのが二宮尊徳です。これは山へ薪を拾いに行くその往復時に本を読んで勉強した金次郎少年を像にしたものですが、昨今ではながらスマホの危険性もあって、金次郎像が座っていると聞いています。

 

でも多くの人はなぜ二宮金次郎が凄いのかなんて、教わらずにきているかと思います。私自身、二宮金次郎は知っていても10年ぐらい前まで全くどういう人物か知りませんでした。しかし、戦前までに教育を受けた人なら誰もが知っているのが二宮金次郎でした。なぜなら、修身の教科書に何回も登場して教えられてきたのが、二宮金次郎や二宮尊徳だったからです。

 

ところで、「修身」とはなんでしょう?

修身の教科書復活の先駆け『国民の修身』

『国民の修身』の「序文にかえて」にこうあります。

「修身」という言葉が広がったのは、江戸時代に儒学が普及し、四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を「修身・斉家・治国・平天下」という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に親しまれるようになったからである。

明治維新によって藩校はなくなったが、明治一四(1881)年の「小学校教則綱領」で、修身は各教科の首位に置かれ、明治憲法発布の翌二三年には「教育に関する勅語」いわゆる「教育勅語」が下賜された。

「序文にかえて」より抜粋。

ここからわかるのは、修身の教科は明治以降の小学校教育の要だったということと、その言葉は『大学』という書からきたものだということです。

「修身・斉家・治国・平天下」の教訓とは、そのまま読めば、身を修め、家を整え、国を治めれば、天下は平和になる、ということです。逆に言えば、天下を平和にするためには国を治め、国を治めるためには家を整え、家を整えるためには身を修めなくてはならない、ということ。

身を修めるとは、自分の行いを正しくすること。家とは家庭や共同体のことです。

人が最初に出来ることはいつだって自分のことです。そして、人を変えることは難しいことですが、自分を変えることは自分次第です。そして、自分が変われば周りも変わる可能性が高いのです。だとしたら、最初から行いの正しい人を育てれば、自ずと世の中が変わっていきやすくなります。

修身とは、正しい人間になるということ。そして、それがそのまま教科となったのです。

修身の教科書に一番載っていたのは明治天皇だそうですが、次に多かったのは二宮金次郎(尊徳)だそうです。二宮金次郎と言えば、薪を背負いながらも読書をする像が有名で、前述したように昔の小学校には必ずその像がありました。そして、その金次郎が読んでいたのが『大学』だといいます。ただし、実際に薪を背負いながら読んだかどうかは不明だそうです。

そして、「修身・斉家・治国・平天下」は、その金次郎が実践したことです。

というのも、金次郎は子供の頃に家が没落し父を亡くしたため、一家の主として幼いうちから働いていました。ところが、母も亡くなり幼い弟達とも離散してしまいます。しかし、骨身を惜しまず工夫して働き、弟たちと暮らせるまでに家を立て直したのです。

ここまでで、修身・斉家です。

その後、その評判を聞いた地元小田原藩の家老の家に奉公して、家計の危なかった家老の家も立て直したのです。そして次には、小田原藩の分家のある栃木県の町まで立て直し、最後にはその方法(報徳仕法)が各地の模範となるまでになったのです。

当時は凶作なども繰り返しありましたし、そうなると人々は厭世観から乱れがちとなってしまいますが、それをうまい農業経営で乗り切り、皆の暮らしを良くしたのです。

つまり自分の立場から治国・平天下を実現させたのです。

この話は金次郎の死後出された「報徳記」により広まり、明治天皇も高く評価されました。だからこそ、その後の修身の教科の設定に金次郎の影響が大きいのかもしれません。

昭和20年12月22日、GHQは「日本教育制度に対する管理政策」と題された第一の指令を手始めに、次々に教育に関する指令を日本政府に命じ、 12月31日には、「修身」「日本歴史」「地理」の授業停止及び教科書の回収を命じました。
その後、地理と歴史についてはGHQ の承認を得た教科書が作成され授業も再開されましたが、修身の教科書については編集作業さえ実施されませんでした。(なお戦前の「地理」は地政学的な要素がありましたが、戦後の「地理」からはそうした要素が抜け、骨抜きとなった「地理」になったと言われています。また「歴史」についても、国史ではなく日本史にされ自国の歴史を学ぶことによって築かれる自信や誇りを学べない骨抜きの「歴史」となっています。)

一方で、アメリカでは子供たちの著しい学力低下と風紀の悪化に悩まされ、レーガン大頭領の時代に教育改革に着手し、このときの教育庁長官は後に『道徳読本(The Book of Virtue )』を刊行しました。この本は大ベストセラーとなり、アメリカの第二の聖書になりつつあるというのですが、アメリカ版修身の教科書といえるものだといいます。

つまり、「自己規律」「思いやり」「責任」「友情」「仕事・勉強」「勇気」「忍耐」「正直」「忠誠」「信仰」という十の徳目によって章が構成され、それぞれの徳目についての説明とともに、関連する古今東西の民話や寓話、偉人・賢人の逸話や随筆を短くまとめたものが掲載されているのです。

ということは、アメリカは日本の教育の良さを認めているのです。

あれから78年経ちました。GHQ の呪縛から解き放たれてもいいはずです。

二宮金次郎をはじめてちゃんと知ったとき、現在の西洋型消費社会は二宮金次郎の教えがなくなったことで可能になったのだと考えました。もし、修身の教えが続いていれば、違った形、うまい方法の消費社会になっていたと思うのです。二宮尊徳は、「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」といっています。そもそも経済という言葉の成り立ちが、「経国済民」、または「経世済民」といわれています。これは中国の古典に登場する言葉で、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という意味でそうした教えであり、それを日本では、外来語からの翻訳語として選んだのです。そうした言葉を選んで生まれた「経済」ですが、誰がどう見ても今の「経済」は、一部の人だけが得をするような西洋型のしくみになっています。

 

日本の貨幣経済は、江戸時代まで米を基本としていました。金貨や銀貨があってもその基準がいつかは価値が消えてしまう米であったことは、注目すべきことです。この米が基準であったがために、一定以上の富の独占が抑えられてきたという側面があるからです。そして米の基準ということを江戸時代末まで守ってきたことが、日本の経済、「経国済民」あるいは「経世済民」だったのです。

 

現代の私たちは、こうしたことがきちんと教えられてきなかったがために、現在のように何十年もの経済の停滞期に考えるべきことが考えられなくなっているのではないでしょうか。一方で、二宮尊徳は幼い時から、災害などで酷い目にあってきたことから、経済という基盤がしっかりしていなければならないことを身に染みてわかっていて、生涯そのために働いてきたのだと思うのです。そして、それは自然災害の多い我が国だからこその考え方であったのだとも思うのです。そしてそうした国だからこそ「経済」という翻訳語も生まれたのでしょう。

 

上記、修身の基本をもっともっとわかりやすく一言でいうと「自立自営」であり、「自立」です。修身の教科書をみるとどの学年にも「自立」と「自立自営」のお話、物語が繰り返し出てきます。自立することで得られるものは真の自由です。日本はいつだって、この真の自由のための教育を行ってきたことが、修身の教科書からもわかりますし、だからこそ併合した国や戦争で出ていった先の現地でも、自立できるように教育を進め、産業を興したりしたわけですし、インドネシアなどでは自立(独立)のため現地の人たちに戦い方を教え、戦争が終わった後も残った兵隊さんたちが独立戦争を一緒に戦ったわけです。そうした方々が、教わった修身の教科書に載っていたのが二宮尊徳の経済の基本の教えであり、自立の物語でもあったわけです。

 

こうしたことをきちんと、教わっているかどうか、でその根本的な考え方は全く変わってきます。現在のような世の中の時こそ、二宮尊徳の教えという基本に立ち帰るときではないのか、と考えずにはいられません。
 

二宮金次郎は、小田原領内の農家の息子として天明七年七月二十三日(1787年)に生まれました。本日は旧暦の7月23日ですから、236年前の本日が誕生日だったわけです。この時、京都では御所千度参りが起きており、天明二年から続く大飢饉の大変な時期に生まれていました。そうした時代に生まれたことが、後に金次郎の家の没落に繋がり、金次郎の幼いころからの奮闘に繋がっていくこととなります。

 

後に、小田原城主に仕えることになった二宮尊徳を祀る神社が小田原城内にあります。

 

 

小田原城のドローン映像の最後に本丸に向かって左手の一角にあるのが報徳二宮神社です。

 

 

 

小田原城内にある報徳二宮神社に向かい合ってある報徳博物館

 

博物館では行き場のなくなった金次郎像の引き取りを行っています

 

 

2019年製作された『二宮金次郎』の映画。地味な題材ですが、意外に豪華キャストです。柳沢慎吾さんは多分地元民としてキャストされたんじゃないかと思います。予告編を見た限りでは、忠実に作られているようで観てみたいです。上映形態は全国各地の市民会館や公民館等の施設で公開ですから、『森の学校』と同様の形態のようです。学校などでの上映が望ましいけれど今の日本では無理なのかもしれません。一方で大人になると、こうした村おこしを成功させた人の話が知りたくなるということでしょうか。

映画公開前に、テレビ神奈川で放映された監督へのインタビュー

 


ここに書かれてあって初めて知ったのですが、今まで二宮金次郎の映画が一本も作られなかったのは驚きであると同時に、やっぱりか、とも思ったのでした。日本人による、日本人のための良い映画は、映画会社ではなくこうした人々の集まりでしか作れなくなっているのかもしれません。

 

映画上映をご希望なら、こちらのサイトから↓

 

2013年に金次郎の生家からお墓まで縁の地を辿った散策動画↓

三ツ木清隆の散策のすすめ 小田原 二宮金次郎物語_[20130916]

 

晩年を過ごし、栃木県の今市で亡くなった二宮尊徳の神社は、今市にもあります。報徳神社、二宮神社とあったら、二宮尊徳が祀られているとみてまちがいないでしょう。

 

どれも素晴らしい復刻版の修身の教科書

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小田原市にある二宮尊徳ゆかりの場所が紹介されている小田原市の動画。

 

 

 

 

 

 

 

 

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