二宮金次郎は、明治になる10年ぐらい前に亡くなりました。全国に知れ渡ったのは、明治13年以降、特に明治24年の幸田露伴の『二宮尊徳翁』が貢献しました。


なぜ二宮金次郎が知られたかといえば、金次郎の弟子の富田高慶が『報徳記』を書き、またもう一人の弟子が『二宮翁夜話』を書いたからです。二人がその功績を残したいと思わせた二宮金次郎(尊徳)が何を成遂げたかといえば、村興しや町興し、村の再興でした。そしてその発端は、生家の再興に始まったものなのです。


そして若くして生家を再興した金次郎の評判を聞いた小田原藩家老の服部十郎兵衛が、自身の服部家の家計の立て直しを依頼しました。武家が金次郎(百姓)に内情を打明け依頼してきたのですから、後にはひけません。金次郎は自分の注文を守ってもらうよう頼んでから引受けました。そして五年後には、立て直しが終わり余剰金まで出したのです。


十郎兵衛はこのことを殿様大久保忠真に包み隠さず打明けました。すると忠真は金次郎に小田原藩分家、宇津家の再興を依頼したのです。宇津家の領地は下野国桜町にありましたが荒れ果てており、宇津家は本家に居候していたのです。桜町復興は何度も試みられましたが失敗していました。


金次郎は辞退します。武士どころか大名からの頼みです。一家を立て直すなら何とかできるでしょうが、領土は規模が違いますし、失敗したら命がありません。しかし三年越しに及ぶ依頼に金次郎は折れ、領地を下見して再生できるかどうかを判断してから家族ともども下野に移り住み、10年の計画で立て直しを始めたのです。そしてここでも9年で余剰米が生まれるまでしました。


報告を受けた忠真は激賞し「金次郎の仕法の精神は、論語の徳を以て特に報うに似ている」と言いました。ここから『報徳記』の題名は生まれたのかもしれません。


金次郎の村興しの成功は評判になり、あちこちの大名から依頼されるようになりました。身体がいくつあっても足りませんから、弟子を代理にすることも増えます。門人を受け入れたのは、そんなわけでしょう。


桜町復興にあたって、下見を終えた金次郎は殿様にこう述べています。


「桜町復興の道は、ただ一つ、仁政を行うことです。仁政によって村人が心を改め、農事に尽くせば必ず復興し発展する。仁政を行わなければどうなるか。たとえ、毎年租税を免除すると特令を出してもあの荒廃は治まりません。……桜町を救うには、住民を安んずるしか法はありません。厚く仁を施し、現在の苦痛を取り去って、安楽に導き、大いに恩恵を与えた上で、無頼の人情を改めて、土地のありがたさを教えて農業に励ませる。これです。」


二宮仕法の精随は、「多く稼いで銭を少なく遣ひ、多く薪をとって焚くことは少なくする。是を富国の大本、富国の達道といふ」


難しくない、単純なのです。貯蓄が人の道で、今年の物を来年に譲る、親の身代を子に譲るのも貯蓄の形に他ならない。まず家を富ませる、これが国家経済の根元である。


明治以降の日本人の勤勉にして、貯蓄を旨とする精神は、二宮金次郎(尊徳)の教えによって作られ国民性として定着しました。


自然災害により、生家が没落したことに始まる二宮金次郎の生涯の教えは、今の日本に重なるところが多いではありませんか。


今こそ二宮金次郎の教えを声を大に語り継がなければ!


☆修身斉家治国平天下(まず自分の身を修めて、家庭を斉(ととの)える。家が斉ってのちに国が治まる。国が治まって天下は平らかとなる)☆


参照:「日本人の美風」他