第七代孝霊天皇は欠史八代と言われている時代の天皇です。しかしその欠史八代の最後の第九代開化天皇の名前である大毘古命(おおびこのみこと)/大彦命(おおひこのみこと)を表している「意富比垝(おおひこ)」と書かれた埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘があることから、開化天皇の実在が確認され、その父である孝元天皇も実在したと考えられるようになっています。孝霊天皇はその孝元天皇の御父です。


そして相次ぐ遺跡の発掘調査により、随分色々な事が推測されてるようになってきています。そう考えると欠史八代をいうのであれば、こうした諸々のことも伝えなければおかしいということになります。

 

 

孝霊天皇の御名は大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)


御父は孝安天皇、御母は押媛命。


孝安天皇七十六年に皇太子になり、考安天皇の崩御により即位されました。

 

この年黒田廬戸(いおと)宮に遷都されました。ここは現在の奈良県磯城郡田原本町黒田にある法楽寺が伝承地で、このすぐ側には大和盆地の弥生時代の遺跡で発見されている最大のもの唐古・鍵遺跡があります。ここは350年頃まで約150年にわたり栄えたとみられており、このような都市が存在したことは、記紀に書かれたことを明確に補てんしていることにもなります。

 

特にここは銅鐸の鋳型が出土したことから、製造拠点であったことがわかっており、神武天皇が日向から持ってきた神話が、地元の鋳型信仰の神話を凌駕していったことが、この遺跡からわかるともいいます。つまり、大和の国譲りです。同時代に共存した文化の一方がだんだんと廃れていったということは、ゆるやかにそれが進んだことを表しているといいます。そしてその時代の一つが孝霊天皇の時代だったというわけです。そこには稲作技術を有する合理的な文明の力も大きかったといいます。合理的で便利なものは広がりやすいからです。

 

 

 

そしてこの時国を譲った神様が大神神社の大国主神なのです。日本では古いものは消し去らずに祀られます。そうしたことが出雲神話ほどではないにしても記紀に残されているというわけです。

 

大神神社

1482701214330.jpg

 


そしてその国譲り神話というのは、出雲や大和だけではなく日本中で起きています。日本中に千年、二千年の歴史を紡ぐ神社がありますが、その神社の御祭神と奥の宮の御祭神は一緒でしょうか?あるいは主となる御祭神が何柱もいらっしゃらないでしょうか?それこそ、その地域の国譲りの記録であり、そうした穏やかな国造りをしてきた源である時代の中に孝霊天皇もいらっしゃったというのが本当のところなんだと思います。


皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまととびももそひめのみこと)は、巫女的な性格をお持ちになっておられたため、崇神天皇の時代に疫病の続く理由を占われ、三輪山の大物主神が乗り移られ、「我を大物主神の娘、大田田根子に祀らせれば国は治まる」といわれ、大物主神の娘大田田根子を探し出して大神神社の祭主にされると疫病が治まったと伝わっています。この疫病というなかには、争いごとのようなものもあったのかもしれません。そうしたことがちゃんと祀られることによって鎮まったということを比喩したものだとも考えられます。つまり緩やかな国譲りで大きな事は起きなかったとはいえ、崇神天皇の時代まで国譲りの完了はしなかったことになりますが、それが遺跡とも符合してくるわけです。


百襲姫は、後の孝元天皇の皇子の反乱を予言したこともあり、事実その通りとなりました。箸墓古墳はこの百襲姫の墓と伝わっていますが、その規模や伝承から神と崇められていたのがよくわかります。

 

箸墓古墳

DSC_2700.JPG


なお、箸墓古墳については、卑弥呼の墓などという説がありますが当地で発掘に携わる考古学者にお話を聞いたところ、30年ほど時期がずれるので伝承どうり百襲姫のものか、あるいは崇神天皇の可能性もあるかもしれないということでした。そもそも百襲姫という伝承があるのに、それを伝承に関係なく卑弥呼に結び付けるのには無理があります。

 

 

 

桃太郎のモデルとなった吉備津彦命は孝霊天皇の皇子のお一人です。

 

古事記によると百十六歳、日本書紀によると百二十八歳で崩御されました。


御陵は片丘馬坂陵、奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目にあります。

 

奈良にある孝霊神社をはじめ祭られている神社が沢山あるのは、各地にある桃太郎伝説と無縁ではないと思われます。

 

最後に、欠史八代とは歴代天皇一二五代のうち、第二代綏靖天皇、第三代安寧天皇、第四代懿徳天皇、第五代孝昭天皇、第六代考安天皇、第七代考霊天皇、第八代孝元天皇、第九代開化天皇のことです。

 

なぜそう呼ばれたかの理由の一つは、古事記・日本書紀共に天皇の事績に関する記述が少ないことからがあげられます。しかし、平凡な毎日のくりかえしであればあらためて記録すること、言い伝えることがなかったということもできます。平凡な毎日の繰り返しの時代であったということは、つまり平和な時代であったということになります。そういう平和な時代が八代もの間続いたというのであれば、素晴らしいことですしそれほど初代神武天皇の統治の影響が大きかったのだということもできるかと思います。ここは素直に日本人なら誇りにしていいことではないでしょうか。


いずれにしても、当時血縁ネットワークを広げていたことは伝わっており、記紀には天皇と周辺の豪族などの娘である皇后の結びつきが記録されています。こうした血縁による結びつきは現在でも通用する地盤固めの基本の方法の一つでもあります。

 


「建國の正史」において森淸人氏は、
「古事記を通覧してもわかるように、古事記が最も力を注いで記しているのは、御歴代の系譜であって、仁賢の巻以後はただそれだけを記してあり、書記にあっても皇室の系譜及び皇位継承の記事がほとんど各巻の中心を成している。」
と書かれています。

つまり記紀の記述は事績に関する記載が少ないのではなく、一番重要なことのみ記載されていたということになります。

 

この時代が建国の時代であり、平和ではなく建国に明け暮れて統一に忙しすぎて伝わることが少なく記載が少なかったという説もあるのですが(それが桃太郎伝説と繋がります)その場合でも系譜だけはきちんと残したということになります。

 

これは古今東西変わらぬ大事なことではないでしょうか。誰しもが自身のルーツをきちんと知っておきたがりますし、自身のルーツを知っている人は精神的にも強いのです。我が国の強さは、こうした国としてのルーツがきちんと知られていることもあることから、我国を弱体化させたい人はそのルーツを教えないようにさせるのです。

 

こうしたことをきちんと知ると、現在の日本の皇室問題への答えもみえてきます。何か問題が起きたら原点に戻れ、とはこういうことを言うのだと思います。日本の場合は記紀の時代を見直す、ということです。

 

 

またもう一つよく言われていることが、その崩御年の高すぎる年齢です。記紀で年齢の違いがありますが、考霊天皇も百歳代となっています。しかしこのことについても、古来日本では半年を1年とする春秋歴説があったといわれていますので、単純に2で割ると古事記では58歳、日本書紀では64歳となるので違和感のない年齢となります。


ただし、春秋歴説で考えると、その宮の跡と時代にはずれが生じるかと思いますが、古代は伝承の時代ですから、伝言ゲームの様に言い伝え違いなどもあるかもしれません。しかし、簡単に記録と照らし合わせることができないからといってそれを否定するのは、先人達を否定することになってしまいます。たとえ伝言ゲームの伝え違いがあったとしても、その伝承の場所から遺跡が出てきたということが真実であり、その存在の真実を否定することはその子孫であるといわれる私たち自身をも否定することになってしまいますから、素直に受け入れることも必要ではないかと思います。


「建國の正史」では、襲名についての説も書かれています。現在も伝統のあるところ、有名なところでは歌舞伎や能などですが襲名がされていますが、この襲名により年齢が長くなっているのではないかというのです。以下に詳細はまとめてありますが、さまざまなこうした例が示していることはただ一つ、いかに日本の歴史が長く続いていることかということです。

 


私達は神話から続く天皇の歴史をいただく国に生まれました。神話から続く歴史ということが示しているのは、神話になるほど、神話になってしまうほど歴史が古いということです。そしてその初期の頃の天皇さえも神話と変わらないほどやはり古い歴史の国なのだ、ということに誇りをもっていいのではないかと思います。


参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇辞典」
「現代語古事記」
「歴代天皇で読む日本の正史」
「よみがえる神武天皇」

 

古代と近代に多く頁を割いている「天皇の国史」

 

 

 

年末にお参りした大甕神社が、わかりやすい国譲りの神社でした。でも出雲と同じで国譲りをしながら、今も元々の神様がしっかり根付いていて面白いなあ~と思ったものです。

 

 

 

 

 

🌸🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎🐎