本日より、「天外者(てんがらもん)」の予告編第二段がアップされています。

「私は夢のある未来が欲しいだけだ!」で始まる予告編で、最後は五代友厚の笑みで終わる予告編です。製作者の熱意と愛が感じられる予告編となっています。映画公開、待ち遠しいです。

 

 

 

 

 

この映画は残念なことに主役不在でプロモーションが厳しいのではないかと危惧していましたが、この予告編みると大丈夫かも、と思えてきました。だって、この映像見たら、映画絶対見たくなると思うからです。

 

監督さんのHP↓

 

 

ということで、映画の前に五代友厚について知っていこう\(^o^)/

 

先日、戦前の昭和時代の伝記「五代友厚」を読んで予習、と思ったのですが年代がずれていたのと、戦前に書かれたものでしたのでやはり最新の情報まで網羅しているものも欲しいと、新しい本を探して来ました。これ鹿児島人物叢書なんです。鹿児島は偉人が多いからこういうシリーズがあるんでしょうか。流石だな、と思いました。平成28年刊なので情報も最新だといっていいかと思います。

 

この本も、読みやすい本です。これ重要です。私、難しい本だとすぐ挫折してしまうので・・・。

 

導入部は五代友厚の誕生からなんですが、五代友厚が生まれた年の天保6年は幕末明治の有名人が生まれた年として、花の天保6年組と名付けられた年だそうです。この年齢凄く重要だと思います。歴史をみて世の中が動いた時、やはり世の中を動かすのは若者です。大きく世の中を動かす時は、若者の力が必要なんだ、ということがよくわかります。

 

ということで本書で紹介されている花の天保6年組です。なお、西暦になおすと同年生まれとならないので、やはり和暦でみるのがいいとのこと。

 

五代友厚 天保6年12月26日(1836年2月12日)

-明治18年9月25日(1885年)49歳没

 

小松帯刀 天保6年10月14日(1835年12月3日)

-明治3年7月20日(1870年8月16日)34歳没

 

天璋院篤姫 天保6年12月19日(1836年2月5日)

-明治16年11月20日(1883年)47歳没

 

坂本龍馬 天保6年11月15日

-慶応3年11月15日(1867年12月10日)31歳没

 

土方歳三 天保6年

-明治2年5月11日(1869年6月20日)34歳没

 

松平容保 天保6年12月29日(1836年2月15日)

-明治26年12月5日(1893年)63歳没

 

井上馨 天保6年1月16日(1836年1月16日)

-大正4年9月1日(1915年)79歳没

 

松方正義 天保6年2月25日(1835年3月23日)

-大正13年7月2日(1924年)89歳没

 

この他に榎本武揚も記載されていたのですが、こちらは天保7年生まれでした。同じ薩摩の小松帯刀や天璋院篤姫が同じというのはなんかすごく納得してしまいましたが、坂本龍馬や土方歳三まで同じとというのには驚かされましたが、納得もしました。

 

この天保6年生まれの人達は、明治元年時、32歳から33歳という年齢ですが、この中で唯一坂本龍馬はその前年に暗殺されています。

 

この年齢の感覚は歴史をみる時にとても重要だといつも感じています。ドラマや映画化をされることの多い戦国時代や幕末・明治で一番違和感を感じるのはここで、年齢感が滅茶苦茶な配役をされるとそれだけでその物語の印象が変わってしまいます。わかりやすいのが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の年齢が逆転していることです。徳川家康が一番年取った俳優が演じていたり、織田信長が一番若い俳優だったら、興ざめでしかありません。あるいは、豊臣秀吉だけ凄い年取っているなんてこともありました。けっこう、興味のある時代だと年齢を調べていくと面白い事が多いんですよね。

 

ということで、五代友厚に関連のありそうな人達や話題にあがりそうな人の生没をあげてみます。吉田松陰と五代友厚は会ったことないかもしれませんが、高杉晋作は上海に一緒に渡っており、親交がありました。またその縁で木戸孝允とも親交があったといいます。以下に上げた人達は、大久保、西郷、勝のみ年代が上ですが、他はみな天保6年前後生まれで年齢が近かったことがわかります。

 

☆生年の横に明治元年の年齢

大久保利通 文政13年8月19日(1830年9月26日) 38歳

-明治11年5月14日(1878年)47歳没

 

西郷隆盛 文政10年12月7日(1828年1月23日) 40歳

-明治10年9月24日(1877年)49歳没

 

木戸孝允 天保4年6月26日(1833年8月11日) 35歳

-明治10年5月26日(1877年)43歳没

 

吉田松陰 文政13年8月4日(1830年9月20日)

-安政6年10月27日(1859年11月21日)29歳没

 

高杉晋作 天保10年8月20日(1839年9月27日)

-慶応3年4月14日(1867年5月17日)27歳没

 

伊藤博文 天保12年9月2日(1841年10月16日) 27歳

-明治42年10月26日(1909年)68歳没

 

トーマス・グラバー 1838年6月6日 30歳

-明治41年12月16日(1911年)73歳没

 

岩崎弥太郎 天保5年12月11日(1835年1月9日) 33歳

-明治18年2月7日(1885年)50歳没

 

勝海舟 文政6年1月30日(1823年3月12日) 45歳

-明治32年1月19日(1899年)75歳没

 

渋沢栄一 天保11年2月13日(1840年3月16日) 28歳

-昭和6年11月11日(1931年)91歳没

 

アーネスト・サトー 1843年6月30日  25歳

-1829年8月26日86歳没

 

 

坂本龍馬、岩崎弥太郎、伊藤博文、五代友厚の映画スナップ

 

本書で今現在気に入っている箇所をあげると、私は以前から盲目的な坂本龍馬熱が嫌でたまらなかったのですが、そうしたことを正して書かれている点です。まあちゃんとした史実を書けば当たり前といえば当たり前ですが。例えば、有名ないろは丸海難事件の調停の件です。これは坂本龍馬の才覚で乗り切ったと、福山版大河ドラマでも描かれていたかと思いますが、実は五代友厚の人脈によってもたらされたのが本当の所だと書かれています。

 

また薩摩と長州を結びつけたのも、なにも坂本龍馬ただ一人が動いたのではない、ということも書かれています。

 

それから、まさかここに出てくると思わなかったのですがフルベッキ写真についても言及しています。フルベッキ写真とは明治天皇すり替え説で必ず登場する写真で、長崎で英語を教えていたグルド・フルベッキと佐賀藩士の群像写真を、幕末・維新の志士とすり替えられた明治天皇が写っているとされているものです。ここに五代友厚も登場するので、これについても記載したようです。私も最初これを知った時、えっなに?と思ったのですが、歴史を知れば見る価値もないことがわかってきます。

 

先に読んだ、五代友厚の小説と伝記が載っている本では、小説の始まりが生麦事件からとなっていました。この映画はオリジナルだそうで全く物語展開に予想がつきませんが、この生麦事件はとても重要な事件なので映画に登場するかと思います。(事件そのものは出てこないとしても)この事件で死んだイギリス人商人が、友厚が上海へ行ったときのイギリス商船の船長でした。そしてこの生麦事件が、薩英戦争を引き起こし、この時、友厚は自身が上海で購入した船を守るために乗り込んでいて、イギリスに捕まっています。この時、イギリスに実際以上に薩摩の装備があると話して、イギリスの戦意を落とすという影の功績を残しました。

 

それから長州ファイブという、幕末にイギリスに留学した長州藩の志士が有名ですが(伊藤博文も含まれるが、すぐに帰国している)、薩摩スチューデントといわれる密航グループも有名です。その薩摩スチューデントを計画・引率したのはなんと五代友厚でした。しかも大人数で、五代を含めた視察員を入れ18名です。こうした留学生同志が現地であっていた記録も残され、薩長の結びつきは海外でもされていたというのが面白いです。

 

薩摩はこの後も何度も海外留学生を送り出しており、日本人で初めて世界一周をしたといわれている東郷平八郎はこの選抜に何度も漏れた後に選ばれたことが知られています。その始まりは五代友厚だったわけです。

 

いずれにしてもこの時、五代友厚は各地の農場や工場の産業視察を行い、政府要人にも会い、機械や武器購入なども行っています。マンチェスターやバーミンガムなどの工業地帯も訪問し紡績機械を購入しており、鹿児島の磯紡績所に設置しています。こうしたことが、後に「大阪を日本のマンチェスターに」という考えのもとになったわけです。「天外者」映画の予告編でも言っていますよね。

 

さらにロンドンでは銀行や保険の制度も学びます。またこの頃、ベルギーの伯爵で仏国籍を持つモンブラン伯爵訪問を受け、ベルギーにも渡ることになりました。モンブラン伯爵は日本通で長崎に滞在したこともあり、白川健次郎を伴って帰国し秘書にしていました。山師とも噂があったため、幕府関連の人からは会うことを拒否されてましたが、五代友厚は連日会食し各地を視察したということです。もしかしたら友厚は、モンブランを利用し、モンブランも友厚を利用していたのかもしれません。ベルギーの政府要人とも会い、薩摩とベルギーで商社を設立する話まで決まり、仮契約まで結びましたが帰国後薩摩から賛同が得られずまた幕末の動乱でとん挫したようです。しかし、これが成立していれば、日本発の海外総合商社になっていたはずだったそうです。

 

その後、オランダ、フランスと視察旅行は続き、フランスの豪華ホテルでは、幕府使節柴田剛中一行とニアミスをしています。五代一行は密航でしたから、幕府側の驚きようは一様ではなかったといいます。この時、柴田はフランスとの協議は成功しましたが、イギリスとは協定の締結ができませんでした。これは薩摩と英国との関係が緊密化していたためです。このフランス滞在は1か月近くに及び、ベルサイユ宮殿、整地の始まった万博会場、練兵場を見て回っています。

 

この対欧中に五代は十八箇条の提言をまとめており、それを薩摩に送っています。これが、後の日本の明治新政府の青写真、基盤になったものだと思います。次回これも紹介したいと思います。

 

こうして、1864年11月に出発し、鹿児島に帰国したのは1866年3月という欧州視察旅行がその後の五代友厚の大きな糧になったことは誰しもが想像できることだと思います。しかも、ただ視察に行っただけでなく、各国政府の要人に会ったり、当時の最先端技術を見て回ったことが、五代友厚の先を見通す目を養ったのだということが重要だと思います。この時代にここまで見て回った人はいなかったでしょう。

 

日本の経済界の礎を築いたのは五代友厚でしたが、まだ49歳という若さで亡くなったため、今その地位は昭和になるまで長生きした渋沢栄一となっています。しかし、そこに五代友厚がいたからこそ渋沢栄一も次に進めたのだと思います。

 

また、五代友厚については映画公開前にまとめたいと思います。

 

なお五代友厚についての略歴が充実しています↓

 

 

31日まで、あと3日ですが、大阪商工会議所で五代友厚展が開催されています。これ関東でもやってほしいです。

 

 

「私は夢のある未来が欲しいだけだ!」

これは三浦春馬さんの言葉でもあるのだと思います。

 

 

稀有な才能がありながら、役者として冷遇された春馬さんの最後の主役出演作である「天外者」について↓

 

 

30秒バージョン予告

「私は夢のある未来が欲しいだけだ!」
「みんなが夢を持てるのが一番大事だと思う。そんな世の中を作らねばいかん。」
「俺に任せろ~!俺について来い!」

友厚の言葉が春馬さんと重なって見える。やはり春馬さんは道開きの神を体現していたのかもしれない

 

 

 

 

この言葉は五代友厚の言葉のようにも思える。