★第十六代仁徳天皇は古代の天皇で、世界一大きいお墓 に埋葬されています。

 

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高津宮にかけられている絵

 

 

御名は大雀命/大鷦鷯命(おほさざきのみこと)。

 

御父は応神天皇、御母は仲姫命。

 

仁徳天皇は五世紀に活躍したとされる天皇で、大規模な土木工事を行い河内平野を開発し、応神天皇とともに「河内王朝」を築かれた天皇です。

 

応神天皇崩御の後、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は兄の大鷦鷯命に即位してもらおうと即位されず、また大鷦鷯命も父応神天皇の意に背くわけにはいかないと即位されず3年の間互いに皇位を譲り合われたと伝わります。皇太子は儒教の教育を受けられており長兄相続説を取られており、一方で大鷦鷯命は我国古来の一番若い末子が相続することにより国の繁栄が長く続くという慣例に従ったものと言われています。この譲り合いは兄の意志が固いことから国を憂えた菟道稚郎子の自殺による薨去で終止符がうたれ、この知らせに驚き悲しまれ馳せ参じた大鷦鷯命が遺体に招魂の術を施された所、太子は蘇生し遺言を残され再び薨じられたといいます。そしてその遺言により、菟道稚郎子の同母妹の八田皇女を大鷦鷯命は妃とされました。

 

菟道稚郎子の宮があったところには宇治神社があり、その地名も菟道稚郎子の菟道が宇治に転じたといいます。

 

仁徳天皇の都は難波高津宮に置かれました。ここで民の竈(かまど)の逸話が生まれます。民家からの炊事の煙が立ち上らないのを見て民の困窮を知り税を3年間免除したという話です。そのため聖帝(ひじりのみかど)と称えられ、歴代の天皇の とされてきたのです。御歴代の天皇が民が苦しい時減税や免税を繰り返してきたのは、仁徳天皇の範に習ったのでしょう。

何度でも伝えたい「民のかまど」の詔

私達は「おおみたから」宝物です(^O^)/

 

 

古代の大阪は今日の大阪とは地形が全く違っていました。その大阪を開拓し、土木工事を大々的に行われたと伝わるのが仁徳天皇です。大阪の礎を築かれたのが仁徳天皇なのです。そしてそのような大々的な土木工事を行われたということから、大きなお墓もできたのだろうともいいます。土木工事と古墳の出現とが深く関わっていることが解明されてきております。そして、その土木工事は水を制するためで、水を制することは稲作を制することですから、神話に登場する稲にも通じ、全てが繋がっていきます。つまり神話と歴史の繋がりが目に見える形として現れているのが仁徳天皇の時代といえるかと思います。

 

 

そしてその大土木事業を行うための準備期間として民の竈の時代があったのです。当時としては考えられないような大開拓を行うには、多くの民の協力と忍耐が必要でしたが、民が貧していてはそれもできません。しかし、6年間もの免税期間とその間の帝自身の貧窮も辞さない大御心が民の心を勝ち取り、大冒険に繰り出す信任を得たのです。

民の竈(かまど)のその後の物語

 

そこには聖の帝と云われた仁徳天皇の功績だけでなく、その帝を信頼した多くの民がいました。衣食住といいますが、住まいや着る物がボロボロになり、食料の蓄えもなくなったというその帝を、豊かになった民が取って替わろうともせずその大御心に感謝したことは特筆すべきことだと思います。

 

仁徳天皇の時代は天皇と民の紐帯が特に強かったからこそ、大土木事業を成し遂げる冒険ができた。現在に続くの大阪の発展には、そうした始まりがあったのです。

 

古事記によれば八十三歳にて崩御。

 

その業績を称え、奈良時代に漢風諡号の「仁徳」が贈られています。

すめらぎのお話・・・仁が表すもの

すめらぎのお話し・・・徳を贈られた天皇

 

 

なお古事記では八月十五日、日本書紀では春正月の戊子の朔癸卯に崩り、とありますので、宮中祭祀は日本書紀から祭日を決めているのがよくわかります。

 

御陵 は百舌鳥耳原中陵、堺市堺区大仙町にあります。近くには仁徳天皇の第一皇子である履中天皇陵もありますが、これは世界で四番目に大きく日本では三番目に大きい陵墓です。なお仁徳天皇の父である応神天皇陵は、世界で二番目に大きい陵墓でもあります。さらに仁徳天皇も聖徳太子も空海も清盛もお参りした神社方違神社があり、第二皇子である反正天皇陵と隣接しています。その立地から戦国時代の武将や熊野詣の御歴代の天皇もお参りされた神社でもあります。

 

 

大阪、難波には仁徳天皇を祀る難波神社があります。また宮跡には高津宮があります。そして若宮神社が日本全国にありますが、若宮とは八幡神社の御祭神応神天皇の若い宮という意味で仁徳天皇が祀られた神社のことです。摂社末社としてあることも多い若宮神社ですから、実は仁徳天皇は日本全国に祀られています。本日は是非お近くの若宮神社、あるいは八幡神社にお参りしてください(^O^)/

 


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★北朝第三代崇光(すこう)天皇は、室町時代に朝廷が二つに別れた南北朝時代の天皇です。


御名は興仁(おきひと)。初名は益仁(ますひと)。


一三三四年生。


御父は光厳天皇、御母は三条秀子。



在位一三四八年から一三五一年。


光厳天皇の第一皇子である興仁親王が、光明天皇の譲りを受け十五歳で即位しましたが、翌年室町幕府の内紛が起こり全国規模の騒乱に発展、足利尊氏は後村上天皇の南朝に帰服しました。

これにより南北朝は合一し、後村上天皇が天皇となり、崇光天皇と皇太子(直仁親王)は廃されるのです。北朝の神器は南朝に収められ、崇光院には光明院とともに、太上天皇の称号が贈られました。


ところがその翌年南北朝合一は破れ、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と直仁廃太子は南朝の本拠地賀名生(あのう)へ幽閉されてしまいました。崇光天皇の幽閉は賀名生で二年、河内金剛寺で三年に及びましたが、南朝勢力の衰微により一三五七年開放され京都へ戻りました。


その間幕府は自らの正当性を支える天皇が不在なため、崇光上皇の弟にあたる弥仁親王を擁立、即位させたのです(後光厳天皇)。

 

 

後光厳天皇が第一皇子の緒仁親王へ譲位しようとした時、崇光天皇は御自身の皇子である栄仁(よしひと)親王への皇統返還を主張しましたが、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳天皇に押し切られ、後光厳天皇から緒仁親王への譲位が実現しました(後円融天皇)。さらに後円融天皇が皇子幹仁親王(後小松天皇)に譲位しようとしたときも、崇光上皇は、自らの皇子栄仁親王への即位を要求しましたが、このときは逆に将軍足利義満が積極的に紛争に介入し後円融天皇を強く支持したため、栄仁親王の即位は実現しなかったのです。しかも、子孫は皇位を諦めるよう誓約させられ、栄仁親王は世襲親王家である伏見宮家を立てられ初代当主となったのです。崇光天皇は失意のまま崩御され、遺詔して崇光院となりました。つまり崇徳天皇のように自らの皇統を絶たれたことを主張されたのかもしれません。なお「光」の字は北朝の通字のようになっていましたので組み合わせ「崇光」とされたものと思われます。

すめらぎのお話・・・崇められ味方になりました

 


一三九八年崩御。

 


参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「天皇を知りたい」
「古事記」
「日本書紀」