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写真は2015年7月の高津宮の朝陽です。

 

高津宮とは大阪市にある神社ですが、その由来は仁徳天皇の宮にあります。大阪城ができるときに遷されたものですから元々の場所ではありませんが、大阪城のところにあった宮で、実際そこには難波宮跡があります。

高津宮で知ったこと

失ったものは二度と戻らない…高津宮はどこに?

お城に住んでいます

 

 

大阪市の歌には民のかまどが歌われています。しかし、このような素晴らしい歌であるのに大阪市民でさえも知らない人が現在は多いと聞きました。もったいないことです。

 

 

 

民のかまどとは、仁徳天皇四年二月六日、天皇が民の竈から煙が上がっていないのをご覧になり、民の窮乏を察し年貢の徴収を三年間禁止させる詔、「百姓(おおみたから)の窮乏を察し群臣に下し給える詔」を渙発されたことをいいます。民の竈の話にはこの詔についてまで語られることがありませんが詔が発せられて免税が始まったのです。

 

 

本日は3月3日のお雛様ですが、旧暦では2月6日ということで、民の竈の詔を伝えるのに相応しい日ではないかと思います。もちろん暦は何度も改暦されていますから、当時の2月6日とは時期がずれているかもしれません。しかし、民のかまどがこの時期であったということを知るのは、例えば夏であったということよりもその窮乏さの加減が分かりやすい時期だったのではないかと思います。

 

 

歴史を繰り返し伝えるという事は、忘れない為という事が第一にありますが、繰り返し伝えることにより、以前は分からなかったことや理解できなかったことが分かるようになったり見えてくるという効果があるからだとも思います。今回この日付を意識することで、その窮乏の加減や切実さがより一層感じられました。もしこの時が、夏であったなら仁徳天皇はかまどの煙がなくても、そんなものと思ったかもしれません。夏であれば時期的にも生で食べられるものも多いと思われるからです。しかし、冬は保存食ばかりで生で食べられるものは少ない時期だったでしょう。またかまどで暖をとるということもあったでしょう。そのような時期に煙が少なかったのです。当時の人々はどのように飢えや寒さをしのいでいたのか?と時を隔てた現代でありながら、仁徳天皇のご心痛が伝わってくるような気がしました。

 

 

この3年間の免税の間、宮の屋根の葺き替えもされず宮殿はボロボロになりましたが、民の竈(かまど)のその後は課税されて終わりかというとそうではありません。3年後もまだ課税を開始せず結局6年間免税されたのです。ですから、その後民はすすんで昼夜を問わず宮殿の材を運び宮を完成させたといいます。

 

 

仁徳天皇は土木工事を大々的に行ったことがその業績として知られていますが、その土木工事を行う下地には、この民を富ませたことも大きいのだといいます。確かに窮乏している状態で、土木工事まで行うのは無理があります。

 

 

そしてこの土木工事を行ったことが、仁徳天皇陵という世界一の陵墓にも繋がっていきます。なぜなら沢山ある巨大な陵墓を比較すると、その土木工事の進歩までうかがい知ることができるからです。例えばその形だけを見れば、素人でもその技術の向上がわかります。そうした工事を繰り返すことで土木工事技術が進歩し、田畑が整備され民はより一層富んでいきました。だからこそ、そう励んだ天皇の陵墓が大きくなるのも不思議はありません。しかも、陵墓には土木工事で出た土の処理という一面もありました。このような大きな陵墓を造ったというのは民を使役したのではないかというような話が出た時期もあったようですが、以前この陵墓の造り方からそのように使役した造りではなかったという説も出てきました。宮殿も喜んで造られたといいますし、土木工事で川の氾濫も抑え、田畑が富んでいったわけですから人々、おおみたからは、宮を造るように喜んで造ったというほうが筋が通っています。

世界一大きなお墓ができたわけ

公共事業の先駆け

 

 

 

土木工事を行われた仁徳天皇について書かれている本はいくつもありますが、この本はとても分かりやすい本の一つ。

 

 

 

仁徳天皇が聖の帝として歴代の天皇の範とされてきたのは、このような仁政を行ったことからであり、その諡号もここから来ています。御歴代の天皇が仁徳天皇を模範とされてきたことは、日本の歴史をみると民が窮乏した時には何度も免税や減税が繰り返されていることからも伺いしれますし、平安時代には仁徳天皇が歌ったものとして和歌まで詠まれました。

 

高き屋に登りて見れば煙立つ.

民の竈(かまど)はにぎはひに けり

 

 

つまり、御歴代の天皇だけでなく貴族たちも仁徳天皇について学ばれていたということがこの和歌からわかるのです。

 

 

そして、次第に皇子の名前には通字として「」の字が使われるようになりました。仁は不仁以外、悪い熟語のない素晴らしい言葉であり、それこそ天皇や皇室が理想としてきたものを体現する文字です。

 

 

御幼少の頃から、やはり仁徳天皇を理想とされた昭和天皇はその孫の皇子が生まれた時、仁徳天皇の諡号から名前を贈られています。現在の皇太子殿下です。

すめらぎのお話・・・仁が表すもの

 

 

 

もしかしたら、昭和天皇は終戦後の日本の変化から、名前で聖の帝の力を呼び寄せようとしたのかもしれません。

 

 

民のかまどと仁徳天皇について話すとき、私達は日本の未来も言祝いでいるのだと思います。日本の未来とは、そこに生きる私達日本人の未来のことでもあります。

 

 

 

 

 

本日はお雛様

お雛様には厄払いに神社に行こう(^O^)/