先日大阪城に行きました。


去年難波宮跡を見て、大阪城に興味を持ったのと、修学旅行以来来たことがなかったので(大阪城ホールは除く)もう一度見たいと思ったのです。ただ、天守閣はあまりにも外国人だらけなんで再建城だからいいか、と入りませんでしたが。


秀吉は仁徳天皇陵で狩りをした不届き者だ~と思っていたら、大阪城築城の際にはそこにあった神社等を移転させたさらにとんでもない奴でした。その一つが生國魂神社で今も御旅所跡が大阪城に残っています。


生國魂神社は、神武天皇創祀の神社で、国土の平定・安泰を願い、大八州(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神・足島大神をお祀りされたのが始まりと伝わるそうで、だからこそ大阪最古にして大阪の総鎮守というわけです。


大阪城の大手門に行く手前に生國魂神社の御旅所跡の案内があり、そこには大阪城の大手門は生玉門と呼ばれていたとあります。生國魂神社の案内によれば、生國魂神社の跡に小社が残されたといいますから、元の生國魂神社は大手門の近くだったのでしょう。


大阪城は築城前は石山本願寺があり、生國魂神社と隣接していたそうで、大手門近くに石山本願寺跡の碑もあるようです。(今回気が付かなかった~)石山本願寺といえば織田信長の石山攻めは10年にも及んだことは有名です。それほどまでにも強かった理由の一つがその地の利ということで、秀吉はここに大阪城を建てたというのが通説です。


古代の大阪は、今とは全く異なる地形で、それを物語っているのが島や津、波、浪などの字に残る地名で、八十島があったといいます。(八十は沢山という意味でもあるので実際の島の数かどうか分かりませんが)その中心に位置する現在の上町台地北端の地に生國魂神社は創られたのです。


その生國魂神社のあったとされる大手門から南の位置に難波宮の跡があります。


現在ある難波宮跡は、実際は難波宮一部跡です。実際はもっと大きい場所だったのですが、間に高速道路ができ、上にNHK や歴史博物館が建っています。


私は去年それを知って大変ショックを受けました。


難波に都が出来たのは三度しかありません。仁徳天皇と孝徳天皇と聖武天皇の都です。しかも難波宮跡はそれぞれ重なっており、前期難波宮(難波長柄豊崎宮)と後期難波宮(難波宮)として、孝徳天皇と聖武天皇の都の遺構が保存されています。まだ不明の仁徳天皇の宮もこの辺りだったに違いないと誰しも考えたのではないでしょうか?そもそも古代にそんなに土地はなかったのですから。


つまり都の跡は一ヶ所しかないのに、その都の上に高速道路や高層建築を新に建てたわけです。


わざわざここに造るなんて馬鹿げています。しかも大阪の人が愛する秀吉が大阪城築城の際、もしかしたら堀を造る時に仁徳天皇の宮跡を破壊していたかもしれないのです。大阪市の歌にもなった仁徳天皇の都です。


難波宮の復元略図をみると北側のすぐ側にお堀があります。大阪城築城当時、なにかの遺構が出てきたのかどうか分かりませんが、もしあったとしてももう遠い時の彼方、記録がなければ二度と誰も知ることが出来ません。


そしてNHK と歴史博物館は結構な高層ビルですから、相当地盤を掘ったでしょう。歴史博物館の地下は一部難波宮跡をそのまま見ることが出来るようになっていますが、そのほんの一部を残してあとは破壊してしまったのですからその損失も大きいです。


遺構を少しでも傷つけないようにと高速道路はこのエリアは道路が地を這っていますが、そのためか事故の多発地帯だそうです。二重に汚していますよね。


科学の発達により、以前は解明できなかったことが解明できるようになることがあります。でもそうなった時に調べようとするものがなかったら意味がありません。


大阪城が出来るときに移転させられたもう一つの神社、高津宮(こうづぐう)は仁徳天皇の宮、難波高津宮(たかつのみや)の場所を勅命で探して貞観8年(866年)に仁徳天皇を祀ったのが始まりとされる神社です。


これ勅命で探されたというのが重要です。歴代天皇はみな、聖の帝、仁徳天皇を模範にしてきたといいます。貞観8年の天皇は清和天皇。この年、応天門の変という事件が起きていますから、そうした情勢から仁徳天皇の宮を祀りたいと考えたのかもしれません。


しかし、その元の場所が不明です。色んな説がありますが、現在難波宮跡説が強いそうです。実際、先日高津宮(こうづぐう)の神職さんに、高津宮(たかつのみや)はどこにあったんでしょうね?と聞いたら、生魂さんの御旅所が大阪城にあるから、大阪城でしょうか、といわれました。


生國魂神社は高津宮の中にあったといわれていますから、さもありなん。現在地への移転も秀吉によるものですから、大阪城内というのは間違いないと思います。しかし、大阪城も広いし、その謎が解明される日は来るのかどうか。


私がまだ片手分の天皇しか知らない当時も知っていた仁徳天皇、日本人なら名前を知らずともその徳の恩恵に与っている天皇の宮の位置が解明できないなんて悲しいことです。




さて、現在静岡で、3世紀前半の古墳を壊す話が出ています。古墳の上に熊野神社と高尾山穂見神社という二つの神社があってその地を守って来ていた所を壊してそこに道路を通す予定とのこと。

東日本最古の古墳が壊される!? 卑弥呼と同時代...道路は本当に必要か - http://j-town.net/shizuoka/column/gotochicolumn/208387.html


東日本最大といわれている古墳だそうで、スルガ王朝のものとも呼ばれているとか。町おこしに発掘調査するならまだしも自らご先祖様の遺構を壊していいんですか?


壊してしまったら、もう二度とこの古墳を調べることは出来ません。


古都では、建築工事、道路工事をしようとすると遺跡等に当たることがよくあるそうで、次に進めないからと内緒で工事が進められることも多いそうです。


しかし、ここは神社の下に古墳があると元々云われていた場所だとか。神社やお寺は元々そういう場所に創建されることが多いですから、浅はかとしかいいようがありません。


日本は歴史の古い国ですから、色んな古いものがあります。そしてその古いものから新しいものが生まれてくるのです。古くて新しい国日本です。


その古いものから、これからどんな発見があるかわからないのに可能性を摘み取るのは愚かです。





写真は

難波宮跡の碑とその後ろに聳える左がNHK 右が大阪歴史博物館

難波宮を分断する道路

大阪歴史博物館から見える難波宮跡

難波宮にある案内図

大阪城の生國魂神社の御旅所跡案内