【起稿2026年8月29日記事】
今日未明に、長女の想い出話を投稿しました👇
そうしたら、改めて亡き妻の想い出を書きたくなりました。
しかし、妻の話を赤裸々に話すのは、流石に恥ずかしいので随想風に書きます。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
8月も終わりに近づいている...
夕方になると、昼間の暑さが少しだけ解けて、開け放した窓から生ぬるい風が入ってくる。
蝉の声も、盛夏の頃に比べれば、どこか遠慮がちになっている。
私は居間の椅子に座り、何をするでもなく、妻の遺影を眺めていた。
※下の貼付画像は、妻の実際の遺影をイラスト化したものです。

ナノバナナ2作画
...命日が近い。
妻、K子が他界して、もうすぐ1年になる。
1年という時間は、長いようでもあり、短いようでもあった。
去年の今頃、妻はまだ生きていた...
それを思うと、時間というものが不思議でならない。
私は妻の写真に向かって、誰に聞かせるでもなく、ぽつりぽつりと話し始めた。
「K子、君と初めて会ったのは、ずいぶん昔になったな...」
妻は東濃で生まれ、南信で育った。
生まれも育ちも東京の私とは、私の妹と大学の同級生だった縁で、知り合った...
ある日、実家に同居していた妹を、妻が仕事帰りに訪ねて来た。
当時実家から最寄り駅までは、夜間暗くて若い女性の一人歩きは危険だった。
たまたま仕事が休みだった私が、最寄り駅まで妻を迎えに行った。
それまで女性と付き合った事など一度もなかった私が、妻と出会い一言二言言葉を交わしただけで、妻に惹かれた。
「どこに惹かれたのか?」
これは、一言では言えない...
理知的な目。
私を見上げる表情。
小さく控え目で、温か味のある声。
...雰囲気?フィーリング?
「一目惚れ」と言えるかもしれない。
妻は妹の部屋に一泊して翌日帰った。
私は、妻と同級生だった妹に「K子さんを気に入って、出来たら交際したい...」と告げたところ、妹はニヤリと笑って妻に電話を掛け、私と代わってくれた。
私のどこが気に入られたかは分からないのだが、妻から交際の了承を得る事が出来た。
二人共平日は仕事があったから、逢えるのは週末だけだったが、何回もデートを重ね、私としてはこの人しかいないと翌月には確信していた。
ところが、当時東京昭島市に居住し、赤坂の人材会社から虎ノ門の大手医療器メーカー東京支社へ派遣されていた妻は、派遣先都合により、一旦自宅待機となり、折から体調不良となった義母を助ける為に、実家の長野へ戻る事になった。
私は慌てたが、まだ婚前ではどうにもならず、2~3週間に1回は、遠い長野県飯田市の実家へ妻に逢いに行くという、遠距離恋愛となった。(当時携帯はまだ無く、電話は中々出来なかった。)
私は、事情があり自動車運転免許を取得せず、若い頃から車の運転は出来無い。
当時、私の居住する東京武蔵野地域から長野県飯田市まで公共交通機関を利用するならば、JR東日本特急「あずさ」からJR東海飯田線に乗り継ぐか、中央道高速路線バス「飯田特急」に乗るか二者択一だった。
しかし、いずれも4時間~5時間を要し、時に帰りは深夜になった。
だから、私もたまに東京へ来る妻も、快適に移動出来る高速路線バスを使う事が多かった。
※遠距離恋愛当時の妻のイメージイラスト(バス停は実際に当時実家の最寄りだったバス停です。)

ナノバナナ2作画
今思えば、ずいぶん無茶をしたと思う。
遠距離恋愛だったから、会うだけでも一苦労だった。
それでも私は、そんなことを苦労だと思わなかった...
「夢中」とは、あの頃の私の事だと思う。
そして私は、出会ってわずか4ヶ月でプロポーズをした。
プロポーズの場所は、今も散歩をしている近所の公園で、およそロマンチックでは無い場所だった。(婚約後のクリスマスに、横浜で「リベンジ・プロポーズ」はしましたが...)
私は、妻の写真に呟いた。
「あの日も暑かったな...」
私のプロポーズに妻は頷いてくれた。
後年妻は、
「...だって、暑かったのよ、早く涼しい所へ行きたくて...」と娘達に、照れ臭そうに言い訳をしていた。
しかし、義父は頑なに反対した。
「K子はまだ若い!」
妻は25歳でした。
しかし妻は、高校卒業後親元を離れて東京の大学に進学し、そのまま東京で就職したので、私との交際後、実家へ戻ってはいたが、義父としては、もう少し手元に置きたかったのだろう。
それでも私は、若さに任せ気負って言った。
「必ず幸せにします!」
今考えると、なんと大それたことを言ったのだろう。
私は本当に、妻を幸せにできたのだろうか。
その答えを、今となっては誰にも聞けない...
妻は家事が得意な女性ではなかった。
結婚したばかりの頃は、失敗に二人で何度も笑ったものだ。
けれど、地元の市民オーケストラでフルートを演奏したり、着付けや歌舞伎に造詣が深かったり、私よりずっと文化的素養が高く、読書家であったし、大学の専攻は心理学で、物事を静かに考える人だった。
温厚で、落ち着いていて、感情に任せて人を傷つけるような場面を見た事は無かった。
生涯の伴侶として尊敬出来る人だった。
後年私は、妻の人柄を人から尋ねられると、「菩薩のような人」と答えていた。
私達は不思議なくらい、夫婦喧嘩をしなかった。
別に何もかも同じ考えだったわけでは無い。
違うところはあった。
けれど、互いに相手の考えを尊重していた。
それが、私たちの夫婦生活だったのだ。
やがて、娘が二人出来た。
長女のR。
次女のS。
妻は二人を大切に育てた。
私は仕事が忙しく、育児らしい育児をほとんどしなかった。
今になって思えば、妻にはずいぶん苦労をかけた。
「悪かったな...」
遺影に向かって、私は言った。
もちろん返事はない。
2019年、妻が乳がんになった。
しかもステージ4だった。
同じ頃、子宮がんも見つかった。
子宮がんは手術で全摘し、その後の経過は良かった。
しかし、乳がんは抗がん剤治療を続けながら、なんとか小康状態を保っている状態だった。
それでも妻は、病人らしく振る舞うことを嫌った。
パートに出て、家事をして、いつもと変わらない生活を続けた。
私は、そのままの生活を続けられると思っていた。
いや。
将来の黒い影を見たく無かったのかもしれない...
そして2024年3月に今度は、それまで入院はおろか、病気らしい病気などしたことも無かった私が脳卒中になった。
前触れ無く突然の発病。
死亡率の高い「脳動脈瘤破裂」だった。
発病から3週間後には再発し、再び命の危険があった。
それでも私は、生き残った。
家には、私が護るべき妻と娘達がいる。
死ぬ訳にはいかなかった...
生き残ったものの私は、左半身に麻痺が残り、感覚も大きく失われた。
同年9月、私は退院したが、
以前のようには動けない身体になっていた。
私は障害者になった。
その私を、妻は支えてくれた。
25.4.7検査入院
自分だってがん患者だったのに。
今思い出しても、胸が痛む。
「お前も大変だったのにな」
私はまた写真に話しかけた。
妻は何も言わない。
2025年になって、少しずつ歯車が狂い始めた。
5月。
抗がん剤の副作用もあって、妻は大腿骨を骨折した。
7月になると、がんの転移が増えていることが分かった。
そして9月。
肝臓に転移したがんが大きくなり始めた。
妻の身体は、目に見えて弱っていった。
それまで普通にしていた人が、日に日に動けなくなっていく。
9月の下旬には、娘達も仕事を休んで妻の世話をするようになった。
私も障害のある身体で、出来る事をした。
介護される側だった人間が
、今度は妻を介護する。
妙な話だと思った。
けれど、あの頃は妙だと思う余裕さえなかった。
家族みんなで、妻の病気と闘っていた。
自宅で緩和ケアを始めた。
ようやく家に帰ってこられた、と妻は思っていたのだろうか...
それとも、自分の身体がもう長くないことを分かっていたのだろうか。
始めてから、わずか1週間だった。
病状は急に悪くなった。
そして10月5日の夜。
妻は救急車で日赤病院へ運ばれた。
私の代わりに長女が付き添った。
私は次女とタクシーで救急車の後を追いかけた。
病院玄関から病床へ急いだが、身体が思うように動かない。
病床の妻はもう虫の息だった。
私は、自らの手で妻の手を包み込んだ。
小さな手の妻は、大きな私の手が好きだった。
隣の県から長女が駆けつけた。
家族が必死に呼びかける中
翌2025年10月6日未明。
妻は病院で静かに息を引き取った...
穏やかな最期だったのは救いだった。
享年54歳。
あまりにも早く、呆気なかった。
昨年妻の葬儀の後、妻の遺品を整理していた長女が不意に声を挙げた。
「お父さん!この箱のアクセサリー、お父さんからお母さんへのプレゼントなんじゃない?」
宝石箱の中身を見ると、私が若い頃から妻に贈っていた懐かしいアクセサリーだった。
私は、生前妻が宝石箱を2階のタンス奥にしまっているのを知っていた。
「それ、何処にあった?」
私が急き込んで長女に尋ねると、長女はにっこり微笑み「お母さんが寝ていたベッドの直ぐ脇にあったよ。」と教えてくれた。
妻は緩和ケアの1週間は、2階へ上がれ無いので、1階の私のベッドの隣に置いた介護ベッドで寝ていた。
私の心に感動の波が押し寄せた。
「妻は最後の瞬間まで私の心と共にありたいと願っていた...」
娘の前だったが、私はこみ上げてきた熱い想いを抑え切れずに忍び泣きした。
妻の旅立ちから間もなく一年。
長女のRは、もう28歳だ。
妻が亡くなる少し前、2025年6月に結婚した。
今は別に暮らしている。
Rの顔を見ると、ときどき妻を思い出す。
顔立ちのどこかに、妻の面影がある。
次女のSは26歳になった。
妻と性格がよく似ている。
今も私と一緒に暮らし、妻が亡くなってからは、私の介護をしてくれている。
二人の娘を見ていると、妻が残してくれたものの大きさに気づく。
妻は、私より十歳も若かった。
私が先に死ぬものだと、どこかで勝手に思っていた。
だから、老後のことを考えるときも、妻がそばにいるのが当たり前だと思っていた。
一緒に年を取っていくものだと思っていた。
七十になっても、八十になっても、くだらない話をして笑っているのだと思っていた...
それが、無くなった。
家の中に妻のものが残っている。
いつもの場所。
いつもの食器。
写真。
思い出そうとしなくても、思い出す。
むしろ、思い出さないようにするほうが難しい。
そして、ふと思う。
「海外旅行、行きたかったな...」
妻は海外旅行に行きたがっていた。
行きたい場所の話もしていた。
私は「そのうち行こう」と言った。
そのうち。
その言葉は便利だった。
忙しいから。
まだ時間があるから。
いつでも行けるから。
そうやって、先へ先へと延ばしてしまった。
妻がこんなに早く逝くとは思わなかった。
そんな事を知っていたなら
、何を差し置いてでも連れて行った。
一緒に飛行機に乗って、知らない街を歩いて、ホテルで疲れて眠って。
そんな何でもない時間を過ごしたかった。
いや...
妻が望んでいたのは、きっと旅行そのものだけではなかったのだろう。
私と一緒に行きたかったのだ。
そのことに、私は今になって気づく。
「ごめんな」
小さく呟いた。
窓の外では、夏の終わりの風が木の葉を揺らしていた...
私は初秋の花では、コスモスが好みだ。楚々として、清潔感があり、秋風に揺れる様が何とも清々しい...
妻も育った長野県の里山でよく見られるコスモスが好きだった。
私達夫婦は昨年の今頃、「秋になったらいつもの公園に一緒にコスモスを見に行こう。」とささやかな約束をしていた...
残念ながら、公園のコスモスが咲き始めた頃、もう妻は出掛ける元気は無く、公園でコスモス祭りのある10月下旬まで、妻の命の灯火は持たなかった...
長野県佐久市内山牧場のコスモス畑

※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。
「コスモス街道」(1977年、作詞:竜真知子、作曲:都倉俊一、歌:狩人)
狩人YouTubeトピック👇
私はこれからも生きていかなければならない。
娘達と暮らしながら、障害のある身体で、一日一日を過ごしていく...
妻のいない時間を。
それでも時々、妻に話しかけることにしようと思う。
今日あった事。
昔の事。
娘たちの事。
そして、言えなかった事も。
遺影の中の妻は、結婚した頃と同じように、静かに笑っている。
私はその顔を見ながら、もう一度だけ言った。
「K子。
ありがとう。
俺と結婚してくれて。
そして……長い間、俺のそばにいてくれて、本当にありがとう」
返事はなかった。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
8月の終わりの風が、部屋の中を静かに通り抜けていった...
それはほんの一瞬、妻がそこにいるような、そんな気がした。
私の想い出に、お付き合い頂き、ありがとうございました🙇









