【起稿2026年8月17日記事】
私は先日、東京霞が関の官庁街にあった旧「人事院ビル」の記事を書き、大東亜戦争前に、そのビルが庁舎だった内務省と特高警察の話も取り上げました👇
私は上記記事の中で、「特高による『国家神道』的な『国体(天皇陛下・皇統を中心とした世界観)を尊重する考え方』と相容れ無い教義・信仰・思想を拡散する宗教家も弾圧された。」と書きました。
その時、大東亜戦争の戦前・戦中の日本国内を揺るがした「大本事件」を思い出しました。
1大本について
○概要
大本(おほもと)は、出口なお(1837年-1918年)を開祖として1892年(明治25年)2月3日に開教した神道系の新宗教です。1899年(明治32年)に上田喜三郎(後の出口王仁三郎、1871年-1948年)が加わり、なおと共に教団の基礎を築きました。
一般には「大本教」と呼ばれる事が多いですが、現在の教団名は「大本」で、宗教法人としては「宗教法人大本」です。なお、歴史上は「皇道大本」などの名称も用いられました。
神紋は十曜紋です。
○祭神
「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」
大本は大天主太神を...
・根本の独一真神・主神(天御中主尊[天之御中主神])
・祖神(国常立尊)「厳霊」
・豊雲野尊(古事記、日本書紀では豊斟渟尊に相当)「瑞霊」
・その他正しい神々
...を総称した神格としています。
○教義等(「大本教旨」・「二大教典」・「三大学則」)
・神人一致・神人合一
人は神の御心を理解し、神の力を受け、神と人とが一体となって人類の理想世界を築いていく。
※出典:大本公式サイト掲載の「教え」から抜粋
「大本教旨」は上記「『神人一致・神人合一』を重要な理念とし、神の意志と人間の働きを結合して地上天国を建設することを目指す。」というもののようです。
・「大本神諭」
出口なおに国常立尊が懸かったとして書き記された「お筆先」(大本では神からの啓示が自動書記的に記されたものと説明している)をもとに、教主輔王仁三郎が編纂・清書※した教典です。
※(出典:出口和明「スサノオと出口王仁三郎」)
・「霊界物語」
王仁三郎が神から「内流」※を受けて口述し、信徒の筆録者が筆記した宗教的物語です。
※「内流」とは、大本の用語で、神から人間の内面に直接伝えられる霊的な啓示・神意のこと。
「みろくの世」という理想世界の実現を説く終末論的
・救済論的思想を含有する
一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし
※上記三大学則は王仁三郎によって示されたもので、大本では独一真神の存在・神性を天地万物の観察を通じて悟るための学則と説明しています。
大本は、独一真神(天御中主尊[天之御中主神])が無限絶対な存在であり、広大無辺であることを悟るために、上記三カ条の学則を示しているそうです。
1892年2月3日、京都府綾部に住む貧しい初老女性であった開祖出口なお(1837年-1918年)に、「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗る神が憑依しました。
大本では、この日をもって開教としています。
1899年に至り、同じ丹波国(京都府中北部)内の園部に本拠を置いて明治初期の神道家本田親徳の系譜となる「霊学会」(「自由に神霊と交感する技術としての『鎮魂帰神法』」と、「幽冥界に関する知識の体系化としての『審神者[さには]の法則』」の組み合わせを根幹とする国学系神道)の布教活動をしていた上田喜三郎(後の教主輔出口王仁三郎)をなおが招き審神※させると、その神は日本神話に神世七代の初代として現れる国常立尊(クニノトコタチのみこと)との事でした。(以上大本の見解より)
※審神とは本来、古代日本の祭祀において、「神託を受け、神意を解釈して伝える行為」を意味しましたが、近現代の新宗教教団においては、人についた神や霊の正体を明かしたり、その発言の正邪を判断したりする事を意味するようになりました。
また、1918年になおが死去すると、王仁三郎に国常立尊からの神示も加わりました。
そして大本では、「立替え・立直し」という終末主義的な宣伝が活発化し、知識人や日露戦争で活躍した秋山真之海軍中将(あの「坂の上の雲」の登場人物)をはじめとした海軍士官を含め急激に信徒を拡大していきました※が、これが当局の警戒を招き、1921年(大正10年)には王仁三郎らが不敬罪・新聞紙法で逮捕される「第一次大本事件」が発生しました。
※秋山真之海軍中将の大本入信は、海軍機関学校英語教官で、作家・心霊主義運動家の浅野和三郎(浅野正恭海軍中将の弟)の手引きと言われています。(出典:松本健一「神の罠」)
王仁三郎は「第一次大本事件」直後より「霊界物語」の口述を始めました。
更に1927年(昭和2年)に大赦(大正天皇大葬)された王仁三郎らは布教活動も再開、1934年には外郭的な政治運動団体「昭和神聖会」を結成し、王仁三郎が統管、右翼活動家の内田良平と王仁三郎の三女八重野の夫、出口宇知麿が副統管となり政治家・軍人・右翼人士なども参加・協力し、国体革新・農村救済・国防など多方面の国家主義的運動を展開しました。
ところが、1935年(昭和10年)に再び王仁三郎らは投獄されます(第二次大本事件)。
このように、大本の宗教活動は、かなり革新的なもので、2回に渡り国家権力の大きな統制・弾圧を受けました。
特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、治安維持法が宗教団体・宗教者に適用された代表的かつ最大規模の事件で、大本は壊滅的大打撃を受けました。
大本側では、検束や出頭を命令された信徒は3000人に及び、最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴されたとしています。(出口和明「出口なお王仁三郎の予言・確言」)
また、神殿を含む大本の主要施設が、全国各地で強制的に破却されたという事もありました。
これは、国が戦争へ向かう中、日本国内の治安維持(戦時秩序維持)を担った特高警察当局に、大本の主張・活動を危険視された事に他ならないのですが、
大本は新宗教の中でも社会改革への指向が強く、時に大日本帝国の滅亡さえ予言※1し、それが当局の不安を呼び、更に「昭和神聖会」発足等に見られる政界・軍部への教勢拡大により、当局がクーデターを警戒していたと考える研究者※2もいます。
※1出典:小滝透「神々の目覚め」
※2出典:ナンシー・K・ストーカー「帝国の時代のカリスマ」
しかし一方で「国家神道と新宗教の神話体系・歴史観の対立」という側面も見逃せません。
キリスト教の宗教改革やイスラム教のスンニ派・シーア派の対立等を考えても、私は、「国家神道」と呼ばれる神道の制度化による事実上の「国教化」とも言うべき明治政府の政策が、神道に「正統・異端」の問題を、持ち込んだのではないかと考えています。
さて、容疑を「不敬罪」、「治安維持法違反」とする検察起訴による裁判は、1938年(昭和13年)8月10日に、京都地方裁判所(第一審)で開廷して以来激しく争われ、1940年(昭和15年)2月29日に一旦は検察側全面勝訴となりましたが、同年10月16日から開廷された控訴審では1942年(昭和17年)7月31日、治安維持法違反について全員無罪の判決が出ました。一方、不敬罪については有罪判決が残り双方が上告しました。
1945年(昭和20年)、大審院で治安維持法違反の無罪が確定し、一方で、不敬罪については有罪が確定しました。
しかし、GHQによる法令撤廃指令と1945年10月17日の大赦により、不敬罪についての刑事責任は赦免されました。
前に記事へ書いた通り、大本事件をはじめ、戦前・戦中の国家権力による宗教弾圧は、国家の非常時における「国家・国民全体の利益」を考えると、私はやむを得無い面があったと考えています。
更に私は、「WGIP」という言葉で一括りにされるような、戦後GHQによる日本人の洗脳があったとは思いませんが、日本人の価値観、とりわけ、「日本の国体認識」や信教感についてに介入があった事は否めず、米国思想の流入は、戦後日本でリベラリズムや自虐史観が広まるファクターとなり、その土台の上で、信教、思想、言論をはじめ各種自由権が日本社会に広く定着したと私は考えています。
私は先日、東京霞が関の官庁街にあった旧「人事院ビル」の記事を書き、大東亜戦争前に、そのビルが庁舎だった内務省と特高警察の話も取り上げました👇
私は上記記事の中で、「特高による『国家神道』的な『国体(天皇陛下・皇統を中心とした世界観)を尊重する考え方』と相容れ無い教義・信仰・思想を拡散する宗教家も弾圧された。」と書きました。
その時、大東亜戦争の戦前・戦中の日本国内を揺るがした「大本事件」を思い出しました。
「大本事件」は神道系新宗教とされる「大本」に対する特高等国家権力の統制、弾圧が見られた事件です。
宗教団体弾圧イメージ
ナノバナナ2作画
この記事では、極力信教や思想的な立場は排除して、努めて公平な立場から大本事件を調べ、それを基に、私なりに「信じる心」と「国家秩序」について、考えてみたいと存じます。
1大本について
○概要
大本(おほもと)は、出口なお(1837年-1918年)を開祖として1892年(明治25年)2月3日に開教した神道系の新宗教です。1899年(明治32年)に上田喜三郎(後の出口王仁三郎、1871年-1948年)が加わり、なおと共に教団の基礎を築きました。
一般には「大本教」と呼ばれる事が多いですが、現在の教団名は「大本」で、宗教法人としては「宗教法人大本」です。なお、歴史上は「皇道大本」などの名称も用いられました。
神紋は十曜紋です。
○祭神
「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」
大本は大天主太神を...
・根本の独一真神・主神(天御中主尊[天之御中主神])
・祖神(国常立尊)「厳霊」
・豊雲野尊(古事記、日本書紀では豊斟渟尊に相当)「瑞霊」
・その他正しい神々
...を総称した神格としています。
○教義等(「大本教旨」・「二大教典」・「三大学則」)
・神人一致・神人合一
人は神の御心を理解し、神の力を受け、神と人とが一体となって人類の理想世界を築いていく。
※出典:大本公式サイト掲載の「教え」から抜粋
「大本教旨」は上記「『神人一致・神人合一』を重要な理念とし、神の意志と人間の働きを結合して地上天国を建設することを目指す。」というもののようです。
・「大本神諭」
出口なおに国常立尊が懸かったとして書き記された「お筆先」(大本では神からの啓示が自動書記的に記されたものと説明している)をもとに、教主輔王仁三郎が編纂・清書※した教典です。
※(出典:出口和明「スサノオと出口王仁三郎」)
・「霊界物語」
王仁三郎が神から「内流」※を受けて口述し、信徒の筆録者が筆記した宗教的物語です。
※「内流」とは、大本の用語で、神から人間の内面に直接伝えられる霊的な啓示・神意のこと。
「みろくの世」という理想世界の実現を説く終末論的
・救済論的思想を含有する
(宗教学的には「千年王国運動(millenarianism)」的な性格を指摘することができます。)全81巻83冊に及ぶ大長編で、日本神話(主に古事記)を素材としながらも、聖書、キリスト教、仏教、儒教、孟子、エマヌエル・スヴェーデンボリ、九鬼文書など、あらゆる思想と宗教観を取り込んでいて、舞台は神界・霊界・現界と全世界に及び、それを王仁三郎独自の神統譜
・宇宙論として再構成した世界観を展開していて、内容を通常の物語として読むと、奇想天外に思えます。
・「三大学則」一、天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを視て、真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし
※上記三大学則は王仁三郎によって示されたもので、大本では独一真神の存在・神性を天地万物の観察を通じて悟るための学則と説明しています。
大本は、独一真神(天御中主尊[天之御中主神])が無限絶対な存在であり、広大無辺であることを悟るために、上記三カ条の学則を示しているそうです。
2大本と国家権力の対立経緯(概史)
1892年2月3日、京都府綾部に住む貧しい初老女性であった開祖出口なお(1837年-1918年)に、「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗る神が憑依しました。
大本では、この日をもって開教としています。
1899年に至り、同じ丹波国(京都府中北部)内の園部に本拠を置いて明治初期の神道家本田親徳の系譜となる「霊学会」(「自由に神霊と交感する技術としての『鎮魂帰神法』」と、「幽冥界に関する知識の体系化としての『審神者[さには]の法則』」の組み合わせを根幹とする国学系神道)の布教活動をしていた上田喜三郎(後の教主輔出口王仁三郎)をなおが招き審神※させると、その神は日本神話に神世七代の初代として現れる国常立尊(クニノトコタチのみこと)との事でした。(以上大本の見解より)
※審神とは本来、古代日本の祭祀において、「神託を受け、神意を解釈して伝える行為」を意味しましたが、近現代の新宗教教団においては、人についた神や霊の正体を明かしたり、その発言の正邪を判断したりする事を意味するようになりました。
同年、王仁三郎は「金明霊学会」を組織し
、これが後の大本の教団組織の基礎となりました。
また王仁三郎は、1900年になおの五女すみの婿となり、なおの養子となっています。
また、1918年になおが死去すると、王仁三郎に国常立尊からの神示も加わりました。
そして大本では、「立替え・立直し」という終末主義的な宣伝が活発化し、知識人や日露戦争で活躍した秋山真之海軍中将(あの「坂の上の雲」の登場人物)をはじめとした海軍士官を含め急激に信徒を拡大していきました※が、これが当局の警戒を招き、1921年(大正10年)には王仁三郎らが不敬罪・新聞紙法で逮捕される「第一次大本事件」が発生しました。
※秋山真之海軍中将の大本入信は、海軍機関学校英語教官で、作家・心霊主義運動家の浅野和三郎(浅野正恭海軍中将の弟)の手引きと言われています。(出典:松本健一「神の罠」)
王仁三郎は「第一次大本事件」直後より「霊界物語」の口述を始めました。
更に1927年(昭和2年)に大赦(大正天皇大葬)された王仁三郎らは布教活動も再開、1934年には外郭的な政治運動団体「昭和神聖会」を結成し、王仁三郎が統管、右翼活動家の内田良平と王仁三郎の三女八重野の夫、出口宇知麿が副統管となり政治家・軍人・右翼人士なども参加・協力し、国体革新・農村救済・国防など多方面の国家主義的運動を展開しました。
ところが、1935年(昭和10年)に再び王仁三郎らは投獄されます(第二次大本事件)。
このように、大本の宗教活動は、かなり革新的なもので、2回に渡り国家権力の大きな統制・弾圧を受けました。
特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、治安維持法が宗教団体・宗教者に適用された代表的かつ最大規模の事件で、大本は壊滅的大打撃を受けました。
大本側では、検束や出頭を命令された信徒は3000人に及び、最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴されたとしています。(出口和明「出口なお王仁三郎の予言・確言」)
更に大本側は「特高の激しい拷問で起訴61人中、岩田鳴球ら16人が死亡した。」と主張していて、「異端審問」とも、比喩しています。
また、神殿を含む大本の主要施設が、全国各地で強制的に破却されたという事もありました。
これは、国が戦争へ向かう中、日本国内の治安維持(戦時秩序維持)を担った特高警察当局に、大本の主張・活動を危険視された事に他ならないのですが、
大本は新宗教の中でも社会改革への指向が強く、時に大日本帝国の滅亡さえ予言※1し、それが当局の不安を呼び、更に「昭和神聖会」発足等に見られる政界・軍部への教勢拡大により、当局がクーデターを警戒していたと考える研究者※2もいます。
※1出典:小滝透「神々の目覚め」
※2出典:ナンシー・K・ストーカー「帝国の時代のカリスマ」
しかし一方で「国家神道と新宗教の神話体系・歴史観の対立」という側面も見逃せません。
キリスト教の宗教改革やイスラム教のスンニ派・シーア派の対立等を考えても、私は、「国家神道」と呼ばれる神道の制度化による事実上の「国教化」とも言うべき明治政府の政策が、神道に「正統・異端」の問題を、持ち込んだのではないかと考えています。
さて、容疑を「不敬罪」、「治安維持法違反」とする検察起訴による裁判は、1938年(昭和13年)8月10日に、京都地方裁判所(第一審)で開廷して以来激しく争われ、1940年(昭和15年)2月29日に一旦は検察側全面勝訴となりましたが、同年10月16日から開廷された控訴審では1942年(昭和17年)7月31日、治安維持法違反について全員無罪の判決が出ました。一方、不敬罪については有罪判決が残り双方が上告しました。
1945年(昭和20年)、大審院で治安維持法違反の無罪が確定し、一方で、不敬罪については有罪が確定しました。
しかし、GHQによる法令撤廃指令と1945年10月17日の大赦により、不敬罪についての刑事責任は赦免されました。
前に記事へ書いた通り、大本事件をはじめ、戦前・戦中の国家権力による宗教弾圧は、国家の非常時における「国家・国民全体の利益」を考えると、私はやむを得無い面があったと考えています。
更に私は、「WGIP」という言葉で一括りにされるような、戦後GHQによる日本人の洗脳があったとは思いませんが、日本人の価値観、とりわけ、「日本の国体認識」や信教感についてに介入があった事は否めず、米国思想の流入は、戦後日本でリベラリズムや自虐史観が広まるファクターとなり、その土台の上で、信教、思想、言論をはじめ各種自由権が日本社会に広く定着したと私は考えています。

