【起稿2026年5月27日記事】

いやいや、いくら趣味とは言え、とんでもねー長大な記事を起稿してしまいました😵
あまりにも長いので、全編を3分割して、連続投稿しますので、ご了承下さい🙇

さて、私は趣味の一環として、昨年5月からこの「歴史的解釈」という本人は「歴史ロマン」と思っている「歴史の話(妄想😅)」シリーズを起稿し、投稿を重ねてきましたが、今回はいよいよ、日本史の「歴史ロマン」を物語る上で、どうしても避けて通れない「邪馬臺國」について、私の「解釈」を披露したいと思います😓

尚、暫く「物語調」の記事でしたが、今回はシリーズ初回「本能寺の変」同様の、「エッセイ風」となります😊


まずは大前提の漢字表記についてです。
私の「解釈」に関係する「邪馬臺國」及び「臺與」という表記の「臺」を、現存原書(三国志写本)のまま「壹」とする説もありますが、私は「漢文での文字汎用性」(AI意見)と「ヤマト言葉音韻の自然さ」(個人的感想)、及び現存原書より古い、類書「太平御覧」(北宋代の百科事典的書物)の原書引用を尊重して「臺」を使用します。(現存原書[写本]文字を、原書から筆写する際に誤ったとみる。)

邪馬臺國論争イメージ
チャッピー作画

※書籍表紙の一部表記が誤っていますが、チャッピーの能力限界なので、ご寛恕願います。

前に投稿したチャッピーの能力に関する記事👇


そもそも邪馬臺國論争(主に所在地比定)の始まりは、720年に成立した「日本書紀」の編纂時にさかのぼるという説があります(渡邉義浩早稲田大学教授)

私は先日、「真面目な官僚」という新しい藤原不比等像を描いた歴史ロマン的記事
を投稿しました👇


日本書紀を始め、日本史の編纂に深く関与したとされる不比等が私の描いたような人物なら、「国策に整合性のある国史編纂」と「中国史書の尊重」という命題の狭間で、色々な意味で悩んだ事でしょう😵

邪馬臺國論争は、よく知られているところでは、江戸時代の新井白石※1(畿内説→北九州説)や本居宣長※2(北九州説)等から始まり、明治以降はいずれも日本を代表する東洋史学者の東京帝国大学教授白鳥庫吉博士※3(北九州説)と京都帝国大学教授内藤湖南博士※4(畿内説)を筆頭に、一流学者から市井の研究者まで巻き込み、長い間論争が続けられ、纒向遺跡※5(奈良県桜井市)の都市遺構発掘以来は、畿内説有利となった感がありますが、未だどちらも「親魏倭王印発見」や「下賜(確定的記銘入り等)銅鏡発見」等の決定打を欠いていてます。
また、畿内説の邪馬臺國比定地(卑弥呼居所)は纒向遺跡にほぼ集約されていますが、北九州説は様々な場所を比定する説が乱立していて、どの説も一長一短あり、集約されていません。
従って、まだまだ「謎解き」が出来たと言い難い状況です😥...

纒向と箸墓古墳

吉野ヶ里遺跡

※画像はphotoAC(www.photo-ac.com)より引用しました。

※1新井白石
(1657年-1725年)
白石は号で諱は君美といい、江戸時代中期の政治家・朱子学者です。
上総久留里藩の中級武士から、6代将軍徳川家宣に仕官抜擢され、徳川家旗本となり、無役でありながら侍講として、御側御用人の間部詮房と共に幕政を実質的に主導しました。
※2本居宣長
(1730年-1801年)
宣長は号で諱は栄貞といいます。

江戸時代の国学者(文献学・~-、言語学)、医師です。

「国学の四大人」の一人とされ、「古事記」の研究に取り組み、約35年を費やして当時の「古事記」研究の集大成である注釈書「古事記伝」を著しました。


※3白鳥庫吉博士
(1865年-1942年)
東大史学派の祖と言えます。
※4内藤湖南博士
(1866年-1934年)
湖南は号で本名は虎次郎。
京大史学派の祖と言えます。
※5纒向遺跡
奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期~古墳時代前期の国内最大規模集落遺跡・複合遺跡で、国の史跡に指定されています。
名称は、垂仁朝「纒向珠城宮」、景行朝「纒向日代宮」に由来しています。

...では何故、「謎解き」が困難で、邪馬臺國論争は続くのでしょう。
それは、多くの研究者が指摘している通り、邪馬臺國や卑弥呼の話の出所である中国晋朝代成立の歴史書「三国志」※6の第30巻「魏書」・「烏丸鮮卑東夷伝」・「倭人条」(以下一般的名称の「倭人伝」と呼びます。)の記述が、地理、考古学的知見、他の史料(記紀、半島史料等)との不整合があまりにも多いからです😞...

※6三国志は、中国三国時代(184年-280年)について書かれた私撰史書で、著者は初め蜀、後に西晋に仕えた陳寿(233年-297年、前に時節記事[竹笋生2026]に取り上げた呉の孟宗と同時代人)です。


三国志は後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う史書で、二十四史の一つですが、日本では同時代の「乱世の英雄達」の活躍ぶりを描いていて、史書「三国志」以降、南宋朝代の都市で語られていた講談(逸話群)を元朝代にまとめ成立した通俗小説「三国志演義」の方が広く広まり、中国史に興味の無い層にも人気が高くなっています。(「三国志演義」ファンの間では、史書「三国志」を「正史」と呼ぶ風潮が認められます。)
三国志は私撰である事から史観・地誌に偏りが認められ、中国・日本の研究者の間で、著者陳寿の仕官事情から、魏~西晋を「正統」とした「配慮」、出身の蜀への「故国顕彰」、一方で呉に対する扱いの「希薄」を認める見方が一般的です。

また、三国志 では、魏に朝貢した異民族記事は比較的体系的に記される一方、呉や蜀と関係した異民族勢力の記事は限定的という指摘があります(例:南ベトナムの「林邑[後のチャンパ王国に連なる国]」の扱い)。
そのため私は、「倭人伝 」の倭国像についても、単なる地理記録ではなく、「魏を中心とした冊封秩序や対外戦略を反映した記述になっている可能性が高い」と、考えています。

...という事で私も「倭人伝」の帯方郡~邪馬臺國の行程と実際の地理との不整合や、「倭人伝」と記紀記述等との不整合については、若い頃から考えてきましたが、10年位前に現在の仮説を思い付くまでは五里霧中の状態でした🙍

私は、昨年この「歴史の話(妄想😅)」シリーズで、無謀にも神代を取り上げる事を決めた時点で、邪馬臺國や卑弥呼の比定は終わっており、一部記事内容に匂わせて書きましたが、記紀記述をベースにした内容に
、「倭人伝」の情報を逐一比較すると煩雑となるので、敢えて無視しました🙎

さて注釈が長くなりましたが、いよいよ私の「邪馬臺國の謎解き」を始めましょう...

ここまで書いた通り、話の出所である「倭人伝」の記述からのみで邪馬臺國、卑弥呼の居所を比定する事は事実上不可能で、どの研究者・説も、「考古学的知見や記紀記述、地方伝承(風土記、社伝)、地名等から『ありそうな』場所を探し、後付けで「倭人伝」の行程を解釈する」という、手法を採っています📚

私もそうするしか無かった訳ですが、私は既に、この「歴史の話(妄想😅)」シリーズで、神代(日本書紀等日本国内史料が語る日本神話)の時代、舞台の比定をしています※7
なので、私の「邪馬臺國の時代、舞台」と「卑弥呼を始めとする登場人物」の比定は、既に構築済みの「日本神話像」との「すり合わせ」となりました🤔

※7神代の解明については、私のような「無学で型破りな人間」を除き、数多の歴史研究者のほとんどが「記紀記述の一部に史実の反映を推測しながらも、記紀記述の大半を『神話(信仰的説話、おとぎ話)』として捉えていて、その研究姿勢が私には、人物像・時代・舞台等の比定という分析作業を放棄しているように思えてなりません。
私は若い頃から、ギリシャ文明「トロイ伝説」に関する発掘調査で有名なハインリヒ・シュリーマンの伝説解明への熱意(ただし現在では、業績の大半に対する科学的評価は低くなっています。)に憧れ、「日本神話を史実として再構築」しようと、趣味として取り組んできました。

関連記事はこちら...
神話の時代比定👇


神話の舞台比定👇