いくら、ブログが、ウェブページ上のログ(記録、日誌、日記)だとしても、ブログは、自分しか読まない秘密の日記ではなく、関心を持っていただいた見ず知らずの方々に閲覧していただくものなので、抽象的で何を指し示しているのか分かりづらい言葉遣いは、なるべくしないように心掛けています。心掛けてはいますが、手持ちのすべての辞書と頭の中にある辞書を総動員しても、「その言葉しか思い付かない」ということも、やはりございます。
今、「親和性」という語で、当ブログ内を検索してみますと、3本の投稿が抽出されました(この稿をアップロードした後は、4本になりますが)。一番、最近のものは、先月、3月11日の投稿で、「森羅万象との親和性が高ければ、結果的に、自由度が高くなります。考え方は、『オッカムのかみそり(Occam's razor)』のそれと、全く同じです」と、書いております。
若い頃、特に、10代の頃に、落書き帳のような帳面、誰にも見せない帳面に、思いついたことを、ひたすら走り書きしたり、写経の如く、好きな文章の一節を書き写してみたり、また、好きな人の名を何度も書いてみたりしたことがある方は、おられると思いますが、僕も、紅顔の美少年、いや、蒼顔で、しかも既に若白髪混じりの少年だった頃、そういう帳面を持っていて、その帳面に、よく、「森羅万象と和解せよ」だとか、そのような類のことを沢山、なぐり書きしていたように思います。そのせいか、つい、「森羅万象との親和性」などという抽象的な表現を、補足説明などもないまま、しれっと使っていました。
「頭が多少大きいだけで、他に大した取り柄のない哺乳動物」であるに過ぎない人間のひとりひとりは、大いなる自然の前では無力であることを、改めて感じています。助けを待つ人のところに、それが少しでも速く届くことをお祈り申し上げることしかできず、申し訳ない限りです。
文明の利器に頼り過ぎず、さりとて、離れ過ぎず。大いなる自然のほんの一部分である者として、人間はどのように生きて死ぬべきなのでしょう。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則