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今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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この本が、フジテレビのアナウンサーだった筆者によって最初に書かれたのは、2011年3月の東日本大震災の発生から半年後。

 

笠井アナは、東日本大震災の前にも、阪神淡路大地震をはじめ、数々の災害や事件の現場からレポートをしている。

 

東日本大震災が起きた時は、東京の仕事先から背広姿のまま取材班の車に乗り込み、地震発生から21時間後には仙台で取材を始めている。

 

大地震の発生直後から現地取材に飛び出したまま、一週間以上も家に戻らない父親。

その後も、被災地で長期の取材に当たった彼は、ある日

「父さんって、僕たちより被災地の子供たちの方が大事なんだよね」

と家族から言われたという。

無理もないだろう。

東北の状況とは比較するべくもないが、首都圏にいた人々も、当時は震災の影響を受けて不安な日々を過ごしていた。

 

では、被災地の現場で、アナウンサーは何をしていたのか。

 

「しゃべるためにここ(被災地)へ来た」という本のタイトルは、報道人としてはごく当たり前に聞こえる。

だが、そこには、被災して苦しんでいる目の前の人を手助けできない苦悩と、報道人としての決意・信念が込められている。

 

被災者ひとりひとりに協力を始めてしまうと、もう報道はできなくなる。

目の前の人を助けることと、報道することのどちらを優先するのか。

テレビ局員として、答えは明らかだ。

だが、ひとりの人として、助けを求める切実な願いを断ることが正しいのか。

それは、筆者が現場で直面してきた自問自答でもある。

 

さまざまな理由から、カメラを回せないことや、映像を流せないことも多い。

テレビ報道の裏側では、放映することができなかった、悲惨な事実があったことも明かされている。

 

 

コンビニから粉ミルクや食料を無断で持ち出す人たち。

それは不法行為だ。

だが、理不尽な自然の暴力に生活を奪われた人が、やむにやまれずに取る行為を責められるのだろうか?

一方で、それを報道人が見て見ぬふりをするのはおかしいと、怒りの声をあげた人もいる。

 

報道への批判の目は、常にある。

プライバシーに踏み込み、被災者の不幸を見世物にしているのではないか。

被災地で起きている不都合な出来事には目をつぶり、視聴率が取れそうな映像を探しているのではないか。

 

報道する記者の側にも、ジレンマがある。

津波から逃れた人々が避難した小学校が、津波に襲われたことがある。

その付近をたまたま取材中に津波の避難命令が発令され、慌てて小学校まで走り、3階まで避難している。

その時、

<今、津波が来れば映像が撮れる>

津波の恐怖に襲われながら、そんな思いが一瞬頭をよぎったことを告白している。

 

被災者に対する申し訳なさや、ときに被災者の心を傷つけてしまう言葉や失敗への悔悟を胸に抱き、悩みながら、報道人は被災地に立っている。

そのことを、この本は率直な言葉で語っている。

 

筆者は、被災地を通じて知り合った、石川洋さんの次の言葉が一番心に残ったという。

 

「笠井さん、『何をしたか』ということではなく、『何を伝えることが出来たか』ということではないでしょうか?」

 

被災地の外でテレビの前にいる人には、被災者を直接助けることはできない。

だが、災害の現場の現実を目にすることがなければ、自分には何ができるのかを考えることも難しいだろう。

被災しなかった人びとが、災害を他人事としてではなく、 自分の身に引き寄せて考える。

 

被災地と、被災地の外をつなぐこと。

それが報道の意義であり、使命なのだろう。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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元日に石川県・能登半島を襲った大地震。

甚大な被害が起きた被災地では、雪の降りしきる中、今もなお懸命な捜索活動が続いている。

多くの世帯で断水が続き、食材の調理や水洗トイレの使用もできない状態だ。

被災地域の復旧と被災された方々が少しでも早く平穏な生活と日常を取り戻せることを願いつつ、離れた場所からも何かできることがないかを考えている。

 

被災地への支援も当然必要だが、日本のどこにいても災害のリスクはある。

それぞれの場所で、災害が発生した時に対して備えができているかを、こうした機会に見直しておくことが大切だと思う。

 

防災について書かれている本や情報は多いが、いざ読もうとすると、なかなか億劫な気がしてしまう。

そういう中で、「おかあさんと子どものための防災&非常時ごはんブック」は、著者の女性目線ならではの細やかさ、発想の柔軟さに学べる本として、おすすめできる一冊だと思う。

 

イラストレーターである著者(この方は防災士でもある)が、東日本大震災での被災の経験から得た、災害時を生き抜くためのヒントが、4コマのイラスト付きの防災メモにまとめられていて、読みやすい。

 

タイトルには「おかあさんと子ども」とあるが、大人の男性や高齢者が読んでももちろん良い。

戸建住宅に住む人、マンションに住む人、それぞれの事情に合わせ、自分にとって役立つ情報、生きるための知恵を探してみてはどうだろうか。

 

 

たとえば、非常時のトイレ問題。

水洗トイレが使えなくなってしまうことに備えて、ポリ袋や凝固剤(または吸水シート)、防臭袋などを用意しておかなかればいけない。

それでも、準備が出来ていなかった場合や、数が足りなくなってしまった場合にはどうするか?

新聞紙はコピー用紙等に比べ、吸湿性・防臭性が高い。

ポリ袋がなければ、レジ袋(破れやすいので二重にする)に丸めた新聞紙を入れて、非常用トイレを作ることもできる(もちろん、これはあくまで簡易な代用品だが)。

 

この本には、「とりあえずその場にあるもの」を使ったさまざまなサバイバル方法が紹介されているが、それでも、最低限持っていなければ困るものもある。

そうした「必需品」を日頃から備えていなければ、知識や情報だけでは生き延びることはできない。

(先ほどの簡易式の非常トイレですら、新聞紙がなくては作れない。

新聞紙のように以前はありきたりだったものが、デジタル化が進んでいる時代には、使えなくなっていることもある。)

 

本に書かれているサバイバル方法を実践するために、家の中に今あるモノで足りるだろうか・・・

そうした想像力を働かせることだけで、防災への備えを見直すきっかけにできると思う。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 

※当ブログ記事には、なのなのなさんのイラスト素材が イラストACを通じて提供されています。

 


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コロナ禍が明けて、いま日本では忘年会のシーズン。

以前の平常を取り戻すどころか、「コロナ前超え」などという言葉が飛び交いだしているこの頃。

 

それで本当にいいのだろうか?

従来通りのやり方で 社会のさまざまな問題に対処していけるのか?

我々は コロナ禍の中で何を学んだろうか?

そんな疑問を感じてしまう。

 

 

今回読んだ本、「ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた」は、経済哲学者である斎藤幸平氏が、さまざまな社会問題 の「現場」で取材した記事の連載をまとめたもの。

 

ちょうどコロナ禍の中の執筆だったこともあって、いろいろな困難があったことがうかがえる。

 

「人新世の資本論」では SDGsを「まやかし」と批判していた筆者が、実際に脱プラスティック生活に挑戦して、その不便さに悪戦苦闘したり、Uber Eatsのドライバーになって、孤独な働き方を体験したり。

 

学問の世界の人である筆者による、体当たりの取材の記録だが、生身の人間としての筆者の考え方、感じ方が良く伝わってくる。

 

筆者は、さらに踏み込んで、取材を通じて感じた矛盾や自分自身への疑問を、「研究者の暴力」、「自身が無意識に抱いている偏見」、「想像力欠乏症」など、厳しい言葉で表現している。

 

そこには、真摯に問題に向き合う筆者の良心がうかがえる。

 

大都市への集中、経済発展優先政策の陰で、忘れ去られてしまう地域や人々の存在がある。

あるいは、当事者ではない人たちによる、無責任で身勝手な誹謗中傷が、当事者の人たちを苦しめていることもある。

社会の分断は、けっして海の向こう側だけで起きている問題ではない。

 

もともとの記事が新聞への連載だったこともあり、筆者の他の著書に比べて読みやすい。

 

それでいて、読んでみると、著者がそれまでの本で言おうとしていたことの、本当の意味が見えてくるところも少なくない。

 

書籍化に当たって書き下ろされた「あとがきに代えて」の中で、筆者の思想に出てくるキーワードが解説されている。

 

例えば「コミュニズム」という言葉。

「民主的で、公正な富の管理を行うこと、それが<コモン>型社会としての「コミュニズム」が目指すものである。

したがって、ここで言う「コミュニズム」は、ソ連や中国でイメージされる社会主義・共産主義とはまったく関係がない。

「私たちは、貨幣や商品のやりとりをベースに金儲けやコスパだけを重視して生きているわけではなく、家族や友人間ではもちろん、大企業の中でさえ、お互いに必要とするものを無償で提供して、助け合っている。

そのような助け合いがなければ、資本主義さえも成り立たない。

その限りで、コミュニズムは資本主義社会の基礎でさえある・・・」

「コミュニティ」(共同体)、そして人とのつながりについて考えることの大切さを見直し、考え直すべきなのだ。

そう思うと、社会の問題に対しての、自分の認識が本当に不足していることを痛感する。

 

コロナ禍を経た今、これまで積み重なってきた社会の矛盾(経済格差、環境危機)がはっきりと目に見える形になってきている。

 

コロナ禍があったからこそ、得られた気づきもあったはずだ。

 

それを忘れてしまうのは、あまりにもったいない。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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ベストセラーになったこの本が発行されたのは2020年10月。

タイトルからして、いかにも難しそうな本、という印象があったが、読み始めてみると引き込まれ、一気に読んでしまっていた。

 

そもそも、「人新世(ひとしんせい、または、じんしんせい)」とは何か。

 

本書での解説によれば、

人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世(Anthropocene)」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。

また、2023年7月12日の朝日新聞には、以下のような記事が出ている:

人類の爪痕残る「人新世」 

新たな地質年代 提案へ

 

46億年の地球の歴史の上で、人類の痕跡が残る時代を区分する--

こんな提案を地質学の専門家たちが国際学会の提案することを決めた。

12日未明に発表する。

現代は、新生代第四期の「完新世」(Holocene)と呼ばれ、1万1700年前から今に続いているとされているが、1950年頃からの時期以降は、人類が地球の地層に与える影響が急増している(世界中の地層でプルトニウムが見つかり、プラスティックやコンクリートなどの人工物が爆発的に増えている)ことから、「人新世」と呼ぶというのが、地質学者たちの提案らしい。

 

新たな地質時代として「人新世」が認められるかどうかはともかく、人類の活動が地球の環境に大きな影響を与えていることは間違いない。

 

「地球温暖化」という言葉を聞かない日はないが、人々はこの問題にずっと前から気づいていながらも、目も背け、真剣に向き合ってこなかった。

(民主党の元アメリカ副大統領アル・ゴアが出演する、地球温暖化についてのドキュメンタリー映画、「不都合な真実」が公開されたのは2006年。もう17年以上も前だ)。

 

解決方法・出口がない問題について話をするのは気分が暗くなるし、話題にもしたくない。

それでもやはり気になって、レジ袋の代わりにマイバッグを使ったり、プラスティックのストローを使うのをやめたりしてみるが、そんな小さな変化だけで地球の温暖化が止められるはずもない。

 

筆者は言う。

政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。

SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

さらに踏み込んで、「SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である」とさえ言っている。

厳しい指摘だが、おそらくは真実をついているだろう。

 

社会に対して責任ある立場の大人たちは、重い問題を先送りし、負担を若い世代に負わせることへの後ろめたさを覚えつつ、もっともらしい「SDGs」という気休めで、現実から逃避している。

 

日頃うすうす感じていて、自分では口に出せなかったことを代わりにズバリと言ってくれている。

歯に衣着せないラディカルな物言いはむしろ小気味良いが、それにも増して、難しい問題から目を背けない率直さ、真摯に向き合う姿勢が、若い世代の共感を呼んだのではないだろうか。

 

では、問題解決のために、どうすればよいのか、

筆者の示す解決方法は、資本主義というシステムが求める経済成長至上主義からの脱却、「脱成長コミュニズム」というものだ。

そんなことが果たして可能なのだろうか。

 

筆者は「コミュニズム」という言葉を使っているが、伝統的な日本語に訳せば、共産主義。

暴力的な革命というイメージとは切り離せない、共産主義に対する人々の不信感やアレルギーは強い。

共産党政権下の中国でさえ、実際には「国家資本主義」の国である。

 

そして、資本主義というシステムはあまりにも強大だ。

資本主義はこれまでしぶとく崩壊の危機を生き延びてきた。

「資本主義が崩壊する前に、地球が人類の住めない場所になっているかもしれない」と筆者は言う。

 

人間社会のほぼ全体に広がっている資本主義の世界にまともに立ち向かって、勝ち目があるのか。

筆者が主張するような、成長を目標としない「コミュニズム」で、地球を救うことが実現できるのだろうか。

当然に、疑問や批判もあるだろう。

 

それでも、筆者は希望を語る。

ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、3.5%の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。

まず3.5%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である。その動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。

 

 

子どもたち、そして将来の世代にとって、この世界が持続可能な、希望のあるものであって欲しい。

ひょっとすると、将来の科学技術の発展によって地球温暖化を止められるかもしれない。

だが、他の誰かがやってくれるかもという期待にただすがっているより、少しでも状況を改善するために、自分たちが現実に何ができるかを考え、実行する方がいい。

 

簡単ではないが、まず知ること、そして考えること。

きっと、すべてはそこからしか始まらない。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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著者は辺境ノンフィクションライター。

アフリカや東南アジアのローカルな言語も含め、25もの言語を学んできた経歴の持ち主だが、本人によれば、「語学の天才」とは遠くかけ離れているという。それが、「一億光年」の意味。

次々に新しい言語(マイナーな現地語も多い)の学習に飛び込んでいくというスタイルのせいで、一つの言語を極められなくなってしまったという。もともと、アフリカ・コンゴに、ムベンベという怪獣を探しに行くという冒険が、筆者の異国語学遍歴の始まりにあるが、未知の言語を学ぶ楽しさに魅せられてしまったというスタイルは、それ自体が冒険だ。

 

 

プロの先生がいないローカル言語の学習は、まさしく悪戦苦闘の連続。

ある意味はちゃめちゃだが、そうした体当たりの経験の中で、著者は言葉だけではなく、異文化で暮らす人々とのつながり方を理解していく。

 

ミャンマーの辺境の村では、人々は「こんにちは」「ありがとう」という言葉さえ使わない。

相手の名前を呼ぶ、相手に何かを贈ることで、事が足りるからだ。

大連で中国語を教えてくれていた先生は、筆者との仲が深まるにつれ、「謝謝」という言葉を筆者が使うと不機嫌になっていく。

親しい間柄では、感謝の言葉を使うこと自体を水臭いと思うからだ。

 

教科書にあっても、現地の人に使われない言葉がある。

また、教科書にはないけれど、現地の人によって使われる言葉がある。

それは、言葉とともに生きている人との直接の交流がなければ得られなかったもの。

AIの機械翻訳がいかに発達しようと まず到達はできない領域だろう。

 

知らない言語を学び、知る楽しさがある。

その一方で、外国語をヒアリングできない、理解できない苦しさもある。

 

それでも、自分が知らない言語を学ぼうとする理由は何か。

自分の国の言語では知ることのできない世界を知りたい、理解したい、そして、自分の世界を広げたいという願いがあるからだろう。

この本は、そうした言語への素朴な欲求と、言語を学ぶ愉しさを、あらためて教えてくれる一冊だった。

 

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この本には、筆者の比較言語学的な考察や、自らが編み出し、体得した外国語の学習法など、興味深いトピックが満載されています。

例えば、フランス語を教えた経験のないフランス人女性が話す、とりとめのない素のお喋りをテープに録音し、その文章をまるごと書き起こして本人にチェックしてもらう。

ネイティブが話す自然な言葉を学ぶには実に良い方法で、なるほどと思わされますが、そうした様々なアイデアが詰め込まれていて、外国語の学習方法を考えるヒントを与えてくれます。

 

また、若き時代の筆者が、自分の進むべき道に悩み、もがく姿には、共感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。語学の冒険だけでなく、青春の書、でもあります。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 


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