今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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行く夏や別れを惜む百合の花

(ドナルド・キーン

Departing summer

How sad to leave behind me

A noon of lilies

 

 

この花を見ると、夏の終わりの季節に逝った人のことを想い出さずにはいられない。

 

この句は、ドナルド・キーン氏自身が作ったものだが、句の紹介に当たって、筆者の毬谷氏は、次のように書いている:

俳句は二重三重の意味を同心円のように重層的に詠むことをキーンは説いたが、この句にもそれが反映している。

百合の花は弔いの花でもあったのである。

キーン氏は、日本に生まれた日本人以上に日本の文化を愛し、日本文学の国際的評価を高めることにも貢献した人である。

 

紫式部日記が書かれた平安時代から、松尾芭蕉の「奥の細道」へとつながる日本の日記文学を考察した「百代の過客」をはじめ、たくさんの著書を残している。

 

そのかたわらで、自らも俳句を作り、残していたということ初めて知った。

 

この本では、キーン氏が残した俳句が集められ、紹介されているが、そのきっかけとなったのは、キーン氏のご子息から著者が受け取ったポストカードに添えられた、キーン氏自作のこの俳句だった。

 

このポストカードは、著者が、源氏物語の英訳版(アーサー・ウェイリー訳)を、日本語に再訳し、ドナルド・キーン特別賞を受賞したことを祝うために送られたそうだ。

 

ウェイリーが訳した源氏物語(The Tale of Genji)は、若き日のキーン氏にとって、日本文学との運命的な出会いとなった。

ときに、太平洋戦争前夜の1940年、キーン氏は当時18歳の少年であった。

 

キーン氏は、2019年2月、96歳で亡くなっている。

だが、氏と日本の間の不思議な縁は、さまざまな形で生き続け、この国の文化と言葉について、今もなお私たちに語りかけてくれている。

 

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パリでは今、「平和の祭典」・オリンピックが開催されているが、そんなことにはお構いなく、戦争が続く国や地域がある。

 

昨年10月7日、パレスチナ・ガザ地区に拠点を置くハマスが主導した攻撃により、多くの民間人が襲撃をされたイスラエルは、人質解放・ハマス掃討を掲げ、ガザ地区への苛烈な攻撃を続けている。

そして、ハマスの最高幹部(イスマイル・ハニヤ)が、親交のあるイランを訪問中に殺害された。

ハマスを支援するイランは、イスラエルへの報復を宣言し、中東情勢の危機はますます深まっている。

 

「イスラエル戦争の嘘」(佐藤優氏・手嶋龍一氏の対談)は、今年4月に出版された本だが、その中でもっとも懸念されていた状況 ― イランやレバノンのヒズボラなど、イスラエルと対立する勢力との紛争拡大 ― の可能性が高まっている。

 

 

この対談では、イスラエルのインテリジェンス機関であるモサドとも長年の関係を持つ佐藤優氏が、同国の内情についての知見を語っている。

過去には、モサド長官のエフライム・ハレヴィが奔走し、「インテリジェンス力を駆使」してヨルダンとの戦争回避に成功したこともあった。

だが、そのイスラエルのインテリジェンス機関も、今は有効に機能しているとは言い難い状況にある。

その原因には、現在のネタニヤフ政権の強硬路線もある。

 

こうしたイスラエルの現在の内情や、その建国の経緯などの歴史、欧米諸国がイスラエルを支持する理由など、イスラエル・パレスチナ問題の背景について知識を増やすには、この本は役立つかもしれない。

しかし、いったい何が「イスラエル戦争の嘘」なのか、最後まで結局はっきりしないままなのは残念である。

「イスラエルによるパレスチナへの「侵攻」という言葉はおかしい」と佐藤氏は批判する。

なぜなら、パレスチナは「国家」ではなく(「自治区」)、イスラエルとの間には「国境」がないからだ、と。

だが、たとえ「侵攻」という言葉を別の言葉に置き換えたとしても、イスラエルによるパレスチナ住民への非人道的な攻撃や、劣悪な環境下での封鎖政策の継続によって、昨年10月以来4万人近くの人が死亡したという事実は変わらない。

 

戦争には、嘘と欺瞞はつきものだ。

 

昨年10月のハマスによる奇襲攻撃を欧米諸国は一斉に批判したが、岡真理氏(早稲田大学教授)の「ガザとは何か」によれば、イスラエル治安部隊の一斉射撃で多くの人質が命を落としたという、都合の悪い情報は隠蔽されたという。

 

ガザでの人道的危機の深刻化には、当初はイスラエル寄りだった欧米諸国の態度もさすがに変わり、国連安保理はガザでの即時停戦を求める決議を3月に採択している。

 

停戦の求めに応じないイスラエルに苛立ちを強める米国のバイデン大統領は、「ハマスとの停戦合意に向け交渉を進めている」と述べたネタニヤフ首相に対し、「でたらめを言うな」と反発したという。

 

何が真実で、何が嘘か。

見極めることは確かに難しい。

 

前述の「ガザとは何か」で、「ガザで起きていることはジェノサイドだ」と断言する岡真理氏は、ハマスが「ユダヤ人憎しで民間人を殺しまくるテロリストだというのは、事実とは全く異なる」とし主張している。

10月7日の軍事攻撃自体は、(民間人を巻き込んだという作戦の是非は議論されるべきとしても)祖国解放のために実行された、国際法上認められた「抵抗権の行使」だとする。

 

一方、佐藤優氏は「ハマスは、ユダヤ人をユダヤ人であるとの属性のみを理由に地上から摩擦するという思想を持つ」テロ組織だと断じている。

 

このように、まったく相反する見方があることが、この問題の解決の難しさを示している。

 

確かなことは、ハマスに対する完全勝利という目標から撤退すれば失脚せざるを得ない現在のイスラエル政権には、これからも暴力の連鎖を重ねる選択肢しかないということだろう。

「天井のない牢獄」と呼ばれるガザに封鎖されたパレスチナの人々の苦しみが続く一方で、イスラエル政府を支持しないユダヤ人までもが各地で反ユダヤ主義の迫害を受けている。

憎悪と分断 ― この悲痛な現実はいつまで続くのだろうか。

 

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実は「バカの壁」(2003年刊)を、つい最近まで読んだことがなかった。

あまりにも有名なベストセラーだが、世の中で流行っているものには逆に興味を持てないという、自分のアマノジャクな性格のせいに違いない。

 

本の売り上げは、題名によって左右されるとよく言われる。

一方で、題名が持つ力が強いために、いつの間にか独り歩きしてしまうこともある。

「バカの壁」というと、何か世間に「バカ」が大勢いて、事実を見ようとしない、正しい声を聞こうとしない、そういう人たちへの批判だというイメージが浮かぶのではないだろうか。

実際、この言葉がそんな風に使われている場面に出会ったりすることがある。

 

けれども、この本で養老先生自身が言っているのは、それとは少し違っているように思える。

題名の「バカの壁」は、私が最初に書いた本である「形を読む」からとったものです。

二十年も前に書いた本ですから、そのときはずいぶん極端な表現だと思われたようです。

 

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。

つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ、そういうつもりで述べたことです。

 

あるていど歳をとれば、人にはわからないことがあると思うのは、当然のことです。

 

そのときに「バカの壁」はだれにでもあるのだということを思い出してもらえれば、ひょっとすると気が楽になって、逆に分かるようになるかもしれません。

 

誰にでも、「バカの壁」がある」・・・

 

そう考えると、自分には理解できないことを頭から否定したり、自分と意見の違う人を敵と思ったりすることは、けっして正しい姿勢ではないとわかるようになる。

 

そして、一つの問題には正解が一つしかないという発想が本当に正しいのか、それは思い込みではないのかということを、考えられるようになるのではないだろうか。

もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。

そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。

 

人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。

とりあえずの答えがあるだけです。

私はそう思っています。

 

以上は「バカの壁」のまえがきにある言葉だが、心に一番響く言葉でもある。

 

問題は、「誰にでも「バカの壁」がある」ということではなく、むしろ、「誰にでも、わからないことがある」ということを忘れてしまうことなのではないか。

 

この時代、「自分には、わからないことはない」と思うことが簡単になってきている。

 

もし、その場で答を知っていなければ、ネットで検索するか、Chat GPTで質問すれば答を見つけられるという考えに支配されるようにようになってきた。

そうなると、人は自分にとってなじみのある、意識の内側の世界に安住し、自分とは関係がないように見える外側の世界にはますます無関心になる。

人が自分の周りに知らず知らずのうちに築き上げる、意識の壁である。

その壁の内側に閉じこもってしまった人間は、壁の存在にも気づかず、壁の外側の世界について考えることもやめてしまう。

それこそが、養老先生が本書で指摘する、「バカの壁」の本当の問題なのではないだろうか。

養老先生が使う言葉、特に現代社会の問題を指摘する言葉には、ちょっと独特な表現がある。

 

「脳化社会」という表現もその一つだろう。

現代社会は「情報化社会」だと言われています。これは言い換えれば意識中心社会、脳化社会ということです。

 

意識中心とはどういうことか。

実際には日々刻々と変化している生き物である自分自身が、「情報」と化してしまっている状態を指します。

 

本当は常に変化=流転していて生老病死を抱えているのに、「私は私」と同一性を主張したとたんに自分自身が不変の情報と化してしまう.。

「バカの壁」が書かれた20年前に比べて、世の中はますます「脳化社会」になってきているようだ。

中国の生成AI大手企業の年次総会では亡くなった創業者が、生成AI技術で「復活」し、約8分間スピーチを行ったという。故人のデジタル復元である。

 

そもそも人間は常に新しいことを知り、それによって変わり続けている存在であるはずなのに、過去に話した言葉(情報)を生成AIに学習させれば、その人間を復元できるといった考え方を強めているならば、それは危険なことだろう。

 

情報は、どこまで集積しても、あくまで情報でしかない。

情報をもとに生成できるのは新たな情報であって、意識や心ではない。

生成AIの拡大は、現代人の知性にとっては確かに役立つものかもしれない。

一方で、AIに対する依存によって、人間自身が考えることをやめてしまう、思考停止のリスクは高まらざるをえない。

 

20年以上前に「バカの壁」という言葉で提起された問題は、古びてしまうどころか、むしろ今の時代にこそ問い直されるべきなのだろう。

 

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前回、釈徹宗氏( 相愛大学学長。人文学部教授)の監修による「お経と仏像で分かる仏教入門」と、著書の「維摩経 空と慈悲の物語」について書いた。

 

今回は、著書「バカの壁」(2003年)がベストセラーになった(平成で一番売れた新書と言われている)養老先生と、スリランカのテーラワーダ仏教を日本で伝道するスマナサーラ長老の間の公開対談で、進行役と聞き手を釈先生が務めている。

 

養老先生の著書には「バカの壁」をはじめとして、「○○の壁」というタイトルの本が多い。

「無知の壁」というこのタイトルも、養老先生のそうした著作のシリーズを意識したものだろう。

 

本のタイトル:「無知の壁」の「無知」は、仏教の中ではどのような意味を持つのか、また養老先生が「バカ」と表現しているものと共通する部分があるのかというのが、この対談のテーマである。

 

その意味では、もしかすると「バカと無知」でもよかったのかもしれないが、ちょっと攻撃的な響きがする。まさしくこのタイトル名の本も出版されているが、書いているのは別の人(橘玲氏)で、もちろん内容もまったく別物である。

 

話をこの対談に戻すと、スマナサーラ長老と養老先生の間で、話があまり嚙み合わない部分が多い。

そもそもの発想や用語が異なる二人の「対談」を成立させるために、釈先生が、単に聞き手としてだけではなく、自らポジションをとって話をし、架け橋役となっているところもある。

それはこの場合にはどうしても必要で、欠かせないものであったとも思える。

 

養老先生の「バカの壁」を釈先生は次のように要約する:

釈 「つまり脳にある枠組みががっちりできてしまうと、脳はその枠の外のことをそもそも認識しようとしない、それをバカの壁と表現されたわけですね」

 

養老 「そうですね、自分で書いておいてなんですけど、「バカの壁」とは何か、一言で言うのは難しいですが、そういう「枠」ですよね」

 

釈 「どうでしょう、スマナサーラ長老。

仏道を「我々がついもってしまっている自分の枠組みを通してしか物事を認識していないことに、まず気づく。そしてその枠組みをはずすトレーニングを実践する」

というふうにとらえるならば、養老先生のお話をスマナサーラ長老が説いておられる領域はかなり共通しているんじゃないでしょうか」

 

スマナサーラ 「まったく共通していますね。

だから「バカの壁」っていうのはいい言葉ですよ。

先生は真理をすごくおもしろい単語を用いて世の中に広めたんですよね。

対談の中では話を合わせているけれども、養老先生自身の言葉では、「バカ」に込められた意味は、次のように説明されている。

細かく言えばいろいろあるのですが、まとめて言えば、結局は、「意識には限界がある」ということです

また、実際の「バカの壁」のまえがきでは、養老先生はこう言っている:

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。

つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ、そういうつもりで述べた。

釈先生は、「バカの壁」の意味を、自身の言葉で表現し、定義し直すことで、仏教の思想との接点を広げようという試みを行っていたのではないだろうか。

 

一方で、スマナサーラ長老が考えている「無知」とは何か。

スマナサーラ「無知の状態とは、どんな生命も本能的に持っている生存欲(存在欲)の状態です。

長老は、「本能・感情の衝動で生きること」を「無知」の状態と呼んでおり、知識・理性・智慧の働きで、「無知」の状態から脱していくことが、人間の正しい生き方であると説く。

順番で言えば、本能・感情の衝動で生きることは無知で、物事を学んで生きる能力を上げることが知識で、人格的によりよい人間になることは理性で、人格を向上して本能に打ち勝って、心の汚れをなくすことが智慧ということになります。

結論として、養老先生がもともと考えていた「バカ」と、スマナサーラ長老の言う「無知」は、同じ概念ではなかったと考えるべきだろう。

 

それでも、三人の間の対談の中には、示唆に富む話が多い。

 

そして、養老先生とスマナサーラ長老の考えが交錯し、共鳴していると思える言葉もある。

 

たとえば、スマナサーラ長老は、

「自我が実在しないとわかる人は、死を恐れません」

という。

 

一方、養老先生の対談での言葉:

死というものは、生きていないとないわけでしょう。

だいたい、(自分自身の)「死」について考えたって本当にダメなんです。

は、「バカの壁」の続編として書かれた「死の壁」では、もう少しわかりやすく、次のように説明されている:

そこで悩むのは、そもそも「一人称の死体」が存在していると思っているからでしょう。

死ぬのが怖いというのは、どこかでそれが存在していると思っている、一人称の死体を見ることが出来るのではという誤解に近いものがあります。

 

極端に言えば、自分にとって死は無いという言い方が出来るのです。

そうすると、「(自分の)死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題、悩みと言えるかもしれません。

 

こんなふうに、自分の死というものには実体がない。

それが極端だというのならば、少なくとも今の自分が考えても意味が無いと言ってもよい。

 

死んだらどうなるかは、死んでいないからわかりません。誰もがそうでしょう。

しかし意識が無くなる状態というのは毎晩経験しているはずです。

眠るようなものだと思うしかない。

 

そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。

死への恐怖というものも感じない。

養老先生にとって、「意識」や「心」は、脳の働きが生み出しているもの、脳という臓器の機能であって、それ自体に実体があるものではないという立場であり、それが「唯脳論」という本のテーマでもあった。

 

お二人が言おうとされていることは、表現方法やアプローチは違っていても、深い部分で相通じているように思える。

 

 

ところで、スマナサーラ長老は、先ほどの続きの語りの部分で、「理性」と「信仰」について、意外なことを言っている。

仏教は信仰を推薦していないのです

 

信仰と理性というものはお互い相反するもので、信仰が強くなってくると理性が死んでしまいます

 

信仰ではなく、理性で物事を考えて人生を歩むことが、お釈迦様の推薦なのです

 

生きる上で、ちょっとした安心感を得るために何かを信じてもいいのだけれど、お釈迦様が言うのは

「それだったら、ましなものを信じなさい」

ということですね

長老は、信仰をすべて否定するという立場ではないと最後に言っているのだが、ひとくくりに同じ仏教と言っても、例えばひたすら念仏を唱えることがが大事だとする日本のの阿弥陀仏信仰とはずいぶんと異なった思想である。

 

日本国内の仏教でも、さまざまな宗派が分かれて共存しているが、こうした多様性を許容できること自体が、仏教という宗教の一つの特徴なのだろう。

 

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このところ、仏教のお経や、坐禅に興味が惹かれている。

 

以前、博物館で開催された寺宝展で購入したものの、そのまま「積読」になっていたこの本を開くと、本書の冒頭の章の結びに、次の言葉が出てくる。

仏教は、「仏教の知見を生かして生活するのに、仏教徒である必要はない」という稀有な面を持つ「宗教」です。

信仰心が薄い自分が、仏教の世界に首を突っ込んでいいものだろうかと思っていた時に、この言葉を見つけ、何よりの励ましを得た気持ちになった。

 

この本は、「仏教入門」というタイトル通り、各宗派で用いられている重要な経典が紹介され、それぞれの経典の特徴が、分かりやすく説明されている。

 

ひとくちに「お経」と言っても、長い年月の中で発展してきたその内容は多種多様だが、その中でも異彩を放つと言われるのが、維摩経。

あの聖徳太子が、特に重要とされたお経の一つとして伝わっている。

 

このお経の主役である維摩居士は、出家して修行をしているわけではない「在家者」なのだが、仏陀の有名な弟子たちを議論で打ち負かしてしまうという、ただものではない人物。

 

その維摩がある日、病気にかかってしまったという。

自分の代わりに見舞い行ってくれないかという仏陀の願いを受けて、菩薩たちの中でも、特に智慧にすぐれていることで名高い文殊菩薩が、面会に向かう。

 

二人の議論は、まさに賢者の頂上対決。

それまでは維摩を煙たがり、尻込みしていた菩薩たちも、文殊菩薩に付き従い、維摩のところへ向かう。

 

実は、この維摩居士という人の正体は、現実世界とは別の世界(仏国土)からやってきた人で、それが彼の超人ぶりの秘密でもあるらしいが、それはさておき。

 

「不二の法門に入るとはどのようなことか」と、維摩は文殊菩薩たち一行に問いかける。

 

「不二」とは、対立するように見える二つのものは、実は二つではなく、根本的には一つであるということ。

 

そして、「不二の法門に入る」とは、「対立して見えるものを一つのものだと発見することから仏法の門に入ること」だという。

 

 (台湾・台南開元寺の不二法門。Wikimedia Commonsより)

 

維摩から投げかけられた問いかけに対して、

同行した菩薩たちは、「生と死」、「善と悪」、「我と無我」、「智と無智」などなど、さまざまな相反されるとされるものが実は一つのものに過ぎないと答えます。

それを受けた文殊菩薩は

「あらゆる現象は言葉では説明できません。諸々の問答を離れるところにあります。

それを不二法門に入ると言います」

という自らの見解を述べます。

 

(仏教入門・維摩経)

では、維摩自身は、この問いへの答えをどう考えているのか。

文殊菩薩が逆に維摩に尋ねると、いつもであれば菩薩たちをあっと驚かせるような言葉を発する維摩が、ただ押し黙ったまま答えない。

 

この部分の解説を、現代語訳 大乗仏教3「維摩経」(中村元)から引用すると;

他の人は、対立を離れたことが不二の法門であるとか、ことばで言い表せないことが不二の法門であるとか言って、じつはことばに出してしまったわけです。

ところが維摩はことばを発しないで、その身のうちにこの不二の法門を具現している。

ああ、これはすばらしいと思って、みんなが感嘆した、というところで、この章が終わっているのです。

釈徹宗氏の「維摩経 空と慈悲の物語」では:

この場面は、「維摩の一黙、雷の如し」などと呼ばれ、「維摩一黙」という熟語にもなっている、維摩経で最も有名なクライマックスのシーンです。

 

文殊菩薩は、言葉や思考や認識、問いや答え、そのすべてから離れてこそ不二の法門に入ることができると説きました。

つまり不二の法門とは煩悩即菩提のことであり、分別を越えた世界であり、維摩のあり方そのものとイコールなのです。

だから、維摩は自分自身の姿、存在を見せることで表現したのです。

 

このやりとりを見ていた五千人の菩薩たちは、維摩の姿に感銘を受け、全員が不二の法門に入って悟りの安らぎ(無生法忍)(※)を得たと、この章の最後には書かれています。

 

(※)

「無生」:生じることも滅することもない

「無生法忍」:一切のものは空であり、なにごとも生じたり、滅したりしないという真理を受け入れること (注釈より)

 

二つのものが対立するように見えるのは、人の心の働きにすぎない、そうした区別から離れることが大事なのだという思想は、「色即是空」・「空即是色」で有名な般若心経にもあらわされた、大乗仏教の根本思想の一つだという。

 

なにごとも区別し、対立させて考えることに慣れてしまった現代人にとって、理解するのはけっして容易なことではない。

 

そして、言葉によって言い表したり、理解したりできることにも、限界があるに違いない。

 

そうであっても、初めから言葉が無くしては、人は手がかりを得るすべもない。

 

超越した賢者ではない人間が、物事を正しく理解していくためには、やはり言葉を聞き、読み、考えることが必要なのだろう。

 

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