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今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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前回、「数学的話し方」をすすめる深沢真太郎氏の本を紹介した。

 

客観的な数字を用いた比較や、モデルを使いながら、「数学的」に話すことで、説得力のある説明ができるようになる。

 

筆者の深沢氏はそう言いながら、一方でこうも言っている:

「結局のところ、説得力のある話とは正しそうな話のことです」

 

正しいことを証明する「数学」に対して、「数学的」とは、「正しそうに説明する」こと。

「正しそうな説明をする」ことと、「正しいことを証明する」ことは別物だ。

 

「正しそうな説明をする」ために、著者は「比較して話すことが大事」とも言っているが、その大原則として、「自分がしたい意味づけができる比較を選ぶ」ことが必要と言っている。

 

裏返せば、うまい話し方をする人は、自分に都合がよい比較ができる対象を選んでいるということであり、都合が悪い比較は避けている可能性もあるということでもある。

 

話を聞かされる立場からすると、「正しそうな説明」をうかうか信じてはいけない、ということにもなる。

 

 

前置きが長くなってしまったが、今回取り上げる本:「客観性の落とし穴」は、数字と客観性が支配する世界に警鐘を鳴らす本だ。

 

だが、「客観的で、いかにも正しそうな話に騙されないよう気をつけよう」という単純な内容ではなく、もっと深く、根源的な問題を扱っている。

 

筆者(村上先生)が大学で行っている授業で、ある日

「先生の言っていることには客観的な妥当性はあるのですか?」

という質問を学生から受けた。

それが、本書を書いたきっかけにもなっているという。

 

学生の質問の背景には、客観性や数値化されたエビデンスのない議論は、世の中で価値が認められないのではないか、そして、そんな授業や学問は役に立たないのではないかという疑問があるのではないだろうか。

 

その質問をした学生は、きっと真面目な性格の持ち主なのだろう。

だからこそ、筆者も深く考えさせられずにはいられなかった。

 

著者が長年にわたって取り組んできている仕事は、家庭に困難を抱えていたり、不登校になっている子どもたち、また子育て支援の援助職の人たち、看護師たちへのインタビュー、そして心のケアの実践活動である。

 

心の問題を客観的に捉え、数値化しようとすると、その過程でこぼれ落ちてしまうものがある。

それは、一人ひとりの心の中の経験であり、それは「数学的」に表現することが難しいとしても、確かに存在する、無視できない事実なのだ。

 

数値によって測定されたことや、客観的な事実しか信じないという価値観にとらわれてしまっていると、個人の心の中の経験がかえりみられなくなってしまう。

本書の主旨は、世の中を支配する、客観性への信仰に対する問題提起である。

 

 

確かに、数字にもとづく客観的なエビデンスはさまざまな意味で有効だし、むしろ、客観的な根拠のない主張がまかり通ることの方がよほど危険だ。

 

だが、客観的なエビデンスを重視する姿勢は、実は近代以降の傾向であって、人間が古来そうした考え方をしてきたのではない。

 

なぜ近代人が客観性を重視する価値観に行きついたのか。

 

18世紀後半の西欧社会で起こった啓蒙思想では、もはや真理を保証してくれる存在は神ではなく、人間自身が自然の中に真理を見出す必要があった。

真理を自然の中に見出そうとする自然科学は、機械を用いた測定や法則性・構造の存在の追求を重視する。

自然科学が進展する中で、自然が客観化されていく歴史に続いて、次には人間とは切り離せない社会を客観的に分析しようとする社会学が19世紀に生まれ、さらに20世紀になると、人間の心を客観的なデータとして研究する、行動主義心理学が登場する。

 

このように、あらゆるものを客観的に捉えようとする動きが、自然科学だけでなく、人文学や心理学の世界にまで広がってきたという歴史がある。

 

19世紀の初め頃には新語であったらしい「客観性」という言葉が、その後どのように日常生活にまで広がってきたかについての筆者の解説は興味深い。

 

ビッグデータをAIが分析し、統計の結果によって評価が決定される社会。

その流れは変えられないし、数字と客観的な根拠を見極め、それをうまく使っていかなければいけない。

けれども、そうした社会の中で、いつの間にか、数字と客観性を絶対視してしまい、数値化できないものの価値を忘れてしまっていないか。

知らず知らず、目に見えないバイアスに閉じ込められてしまってはいないだろうか。

 

そうした自省を促してくれる一冊であると思う。

 

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世の中には、たくさんの数字を使いながら説明をする人がいる。

確かに、数字を使うと、話は具体的になる。

だが、数字で話されれば話の内容がわかりやすいかというと、必ずしもそうでもない。

単に数字が羅列されても、その数字が持つ意味がわからなければ、話し手が結局何を言いたいのかも理解できなくなってしまう。

 

書店に置かれたこの本のタイトルを見ながら、

「『数学的』話し方・・・数字を使って効果的な話し方をすることだろうか?」

と考えながら手に取ってみたが、実のところ、そうではなかった。

 

確かに、数字を入れて話す(数字で話す)ことも重要だとは本書でも書かれている。

けれども、「数字で話す」ことは、「数学的に話す」ことと同じではない。

 

効果的な話し方の一つに、AとBの比較をした結果をもとに、自らの主張を裏付けるという方法がある。

だが、その比較は数字で表せる場合もあれば、数字では表せない場合もある。

 

 

物事を比較し、対比して話すことで、聞き手には、話し手が言おうとしていることのポイントが伝わりやすくなる。

「比較」は、筆者が言う「数学的」思考の一つだが、それ以外にも、「数学的」思考には「定義」、「分解」、「構造化」、「モデル化」などの方法があるという。

 

人が話をする時に、冒頭でどのような前提を「定義」するのか。

主張を裏付けるためにどのように物事の「分解」や「比較」を行い、また、どのような「構造」や「モデル」を使って説明するのか。

そうした意識を持ち、準備をしたうえで話すことで、自分の言いたいことが相手にうまく伝わる説明ができるようになるという。

 

それは単なる話し方の変化ではなく、考え方にも変化をもたらす。

というよりも、話し方の変化は、考え方の変化によってもたらされると、筆者は言う。

もしあなたが自分の話し方を変えたいとするなら、「話し方」そのものを変えようとするのではなく、結果的に話し方が自動的に変わる何かを変えようということです。

本書ではそれを「思考」とします。

 

思考、つまり考え方が変われば、話し方も変わる、そう思っています。

そして、「数学的に考えること」がその正解だというのが、本書の主張になっている。

 

確かに、分かりやすい話し方のことを、私たちは「理路整然」と表現する。

だが、なぜその話し方から「理路整然」という印象を受けるのかは、あまりわかっていないことが多いのではないだろうか。

 

知らず知らず無意識のうちにしているかもしれない工夫を、意識的に行っていくことが、思考力や話す力を強めるトレーニングになる。

 

著書の最後に筆者はこうも言っている:

私は本書において、思考(つまり考え方)を変えると話し方も変わると説明しました。しかしそこにひとつだけ加えることがあるとするなら、生き方で話し方は決まるということでしょうか。

「生き方で話し方は決まる」とまでくると、話す力をテクニックや訓練で強めるには限界があるということになる。

話し方をコーチする筆者の立場としては、技術では変えられないことがあることに触れるのは、本来なら微妙な面があるのではないだろうか。

だが、話し方の達人たちを観察し続けてきた筆者としては、それが偽りのない本音なのに違いなく、きっとそれが正しいのだろう。

 

生き方そのものを変えるのは勿論だが、思考方法を変えるのも、けっして簡単ではない。

だが、自分自身の話し方で、自分の言葉が相手にどう伝わるだろうかと、考えることはできる。

自分の説明のしかた、話し方が聞き手にとって伝わりやすいものなのか。

それを見直してみるきっかけとして、参考になる一冊だった。

 

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ウクライナ戦争が始まったのは、北京の冬期オリンピックが閉幕した2022年2月。

もう2年以上が経つという時に、開戦後「200日」、約半年後に刊行された本を読もうとする私は、(いつもながら)ズレている。

しかし、なにごとも、「遅すぎる」とすぐに諦めてしまうのもよくない。

 

そう思いながら読んでみたこの本だが、けっして賞味期限切れの書物ではなかった。

最初の半年の時点では予想されなかったような出来事が、その後にはもちろん多く起きてきているが、一貫して変わらないことがあることもわかる。

 

想定を上回るほど圧倒的な火力(そして核兵器も)を保有し、「本気を出せば勝てるが、あえてそうしない」というポーズを見せながら、執拗な攻撃をやめないロシア。

 

一方、火力ではロシアに大きく劣るが、西側からの軍事援助、ドローンやジャベリン(携帯型ミサイル)やなどの新型兵器、そして地の利を生かしながら、必死に反撃を続けるウクライナ。

 

緒戦でのロシアの作戦失敗がその後の戦況に大きく響いたという側面もあるが、ウクライナ戦争は膠着状態に入りこみ、終結の出口の光は見えない。

 

それにしても、この大きく戦争がこれほど長期化するという予想が、当初どれだけあっただろうか。

(もともと、これほど悲惨で野蛮な戦争が、この時代に起きること自体が予想外だったということもあるが)

 

初期には、ロシアの政権が早期に倒れるなどという予想が語られたこともあったが、そうした異変も起ってはいない。

そして昨年秋から続くイスラエルのガザ侵攻も加わり、世界はますます混迷し、危機は深まっている。

 

本書のあとがき(「おわりに」)で、小林氏は言う:

「本書に収められた対談は、開戦後のかなり初期段階でなされたものを含んでおり、それゆえに情報が誤っていたり、見通しを外したりしています。

そうした間違いも、本書では基本的に当時のままを再録しました」

「戦争が始まってから一カ月時点、あるいは三カ月時点で我々が何を考えていたのか。何を恐れていたのか、これもまた本書が伝えたい「空気感」であるからです。その上で、収められた七本の対談がホログラムのようにして何らかの立体像を読者の中に結ぶなら、本書の目論見は成功ということになるでしょう」

この本は、ロシアの軍事・安全保障の専門家である小林氏と、様々なジャンルの識者との対談形式になっていて、前回に取り上げた「訂正する力」の著者・東浩紀氏も対談者の一人として冒頭に登場する。

 

東氏が「訂正する力」で語られている通り、対談は語り手の本音を表出させる。

「テルマエ・ロマエ」の漫画家・ヤマザキマリ氏、アニメ「この世界の片隅に」の監督・片渕須直氏など、様々な人物が対談相手になっているが、対話を通して対談者の中からプリズムの光のように引き出されてくる言葉は、これまで抱いていたこの戦争への見方が、無自覚に偏りがちだったことを教えてくれる。

 

確かに、このひどい戦争を始めたのはプーチン大統領であり、ロシア国内にもこの戦争に反対する人々も少なからずいる。また、憲法に書き込まれた民主主義の実現を求める声もある。

一方で、現政権がメディア統制や情報操作、政敵の排除などの権謀術数だけで、国民の強い支持を維持することもまた難しいだろう。

 

けっして、ロシアのウクライナ侵攻に正義があると考えることはできない。

どんな理不尽な戦争にも、正義があると主張することはできるだろうし、その土地に住む罪のない人たちの生活を踏みにじる戦争に、「正義」という言葉を当てることは空しい。

 

しかし、同時に知っておかなければいけないことは、ロシアにウクライナ侵攻を踏み切らせた背景には、東西冷戦への勝利の成果を過信した西側世界の誤算があるということだ。

かつて冷戦を終わらせ、生前はウクライナ戦争の停止をよびかけていたゴルバチョフ元大統領(2022年8月死去)も、NATOの東方拡大を批判していた。

たとえプーチンが一人倒れたとしても、根本的には変わらない問題、対立構造がある。

 

 

中国情勢に詳しいルポライターの安田峰敏氏や、ドイツ人通訳・翻訳者のマライ・メントライン氏との対談でも示されているように、日本も含め西側諸国の多くの人は、これまでロシアの人たちの考え方を理解してきていなかったし、今もその無理解が大きく変わったとは言い難い。

 

また、米国との対立が深まる中国が、ロシアとの連携を強めているが、中国の人たちが西側世界に対して抱いている心情についても、十分に理解できているとは思えない。

 

対立する相手を、ただ憎んだり、恐れているだけでは、次の道を思い描くこともできない。

 

その意味で、この戦争について考えることは、ロシアとウクライナの関係だけでなく、現代世界のありかたについて理解を深めるためにも重要なのだと思う。

 

一日も早く戦争が終結して欲しいという願いも空しく時が流れてきているが、今も続く戦争から目をそらしてはいけないだろう。

 

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この本の「はじめに」に書かれた冒頭の言葉は:

「日本にいま必要なのは、「訂正する力」です」

いきなり大上段からの結論で始められると、読み手としては少したじろいでしまう。

 

「訂正する力」が必要なのは、何も日本だけではないはずだし、自らの過ちや失敗を認めようとしない人たちは、他の国にもいくらでもいると思う。

(もちろん、『「訂正する力」が今もっとも必要な国は日本です』と書かれているわけではないのだが)

 

それにしても、昨年末から続く政治資金問題を巡って、あくまで非を認めない与党幹部の態度にも呆れてしまうが、戦後80年近く経った今もまだ、憲法改正議論が硬直し、停滞したままの日本の状況。

 

環境や人々の価値観の変化に合わせて軌道修正が必要な時代に、なぜ正しい方向に変化するための議論ができないのか。

それを考えることには意味があるはずだと思いながら読んでみた。

 

本書には、確かにもっともと思える指摘は多い。

 

たとえば、ツイッター(「X」という名前がなかなか定着しない)では、なぜ陰謀論やヘイトスピーチがはびこりやすいのか。

ツイッターで投稿できる文字数の少なさが、情報共有には有利である反面、付加できる情報の少なさが弊害になり、一方的な主張が飛び交う世界になっているという。

(筆者の言葉では、「訂正する力を阻んでしまう」)

 

そして、(日本人に特に強いと言われる)同調圧力が、ツイッターなどSNSでもさらに一方的な主張への偏りに拍車をかけている。

人間は弱い生き物です。感情で動かされ、判断をまちがう。

エビデンスを積み上げ、理性的に議論すれば「正しい」結論に到達できるというのは幻想にすぎません。

人間は信じたいものを信じる。動画とSNSの時代にはその傾向がますます強くなります。

だからこそ訂正する力が必要なのです。人間は弱い。まちがえる。

できるのはそのまちがいを正すことだけです。

 

「訂正する力」を肯定することで、人は、自らの頭でものを考え、自分の意見を臆せず発信することができるようにもなる。

 

 

筆者は、「訂正する力」を、さまざまな意味で使っている。

例えば、ある言葉が使用される背景や文脈を説明することも、「訂正する」行為となる。

 

「自分は、本当はこういう意味でその言葉を使っている」

そう言いたくても、(訂正を許さない)「論破力」がもてはやされ、またタイムパフォーマンス(いわゆる、「タイパ」)が優先される世界では、人は耳を傾けてくれない。

その意味で、個人の「訂正する力」が発揮されるためには、周囲の「聞く力」が求められる。

そのため、有意義な言論を展開するには、「訂正する人たちの集まり」が必要になるというのが、筆者の考えであるようだ。

 

本書の主張は興味深い。

政治や時事問題への切り口は鋭く、西欧哲学から日本の思想史、また司馬遼太郎の歴史観への評価など、縦横無尽な語りにも惹きつけられる。

(ときどき論理がやや飛躍していると感じることもあるが)

 

ただ気になったのは、筆者の主張にそのまま従うと、「書かれた言葉」が重みを失っていき、筆者が重視する「人文学的な知」への評価も低下してしまわないかという点である。

 

言葉以外の付加的な情報=「余剰な情報」が大事だと考える筆者は、伝達手段として(対話を伴った)動画配信や、トークイベントの有効性を説いている。

だが、言論が日常的な会話に近くなればなるほど、発話された言葉は次々に「訂正」され、重みを失っていく。

言葉が常に訂正され、消費され続けていく存在となったとき、ひとつひとつの言葉の信用性は低下せざるを得ない。

そして人は、他の人が書き残した文字を読むことにも、ますます興味を失ってしまう。

その結果、基本的に言葉の世界である「人文学的な知」は、今以上に力を失ってしまうのではないだろうか・・・

 

とはいえ、私は著者の活動や思想をよく知るわけではないし、こうした疑問も的外れなものかもしれない。

私の疑問が見当違いだと気づいたときは、まさに筆者の言葉のように、「訂正する力」を使って、認識をあらためたいと思うのである。

 

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著者である中井久夫は、精神科医としてだけではなく、エッセイストやフランスの詩人ポール・ヴァレリーの翻訳家としても知られている。

 

29年前の1995年1月に神戸淡路大震災が発生した時は、神戸大学の精神神経科の教授で、大学病院の精神科医だった。

 

この本に収められた文章は、震災発生から数週間が経った日の夜、一気に書かれたものだという。

 

感情を抑え、つとめて客観的な記述に徹しているが、緊迫した状況が伝わってくる。

 

新設間もなかった精神科病棟はさいわい大きな被害を受けずに済んだが、災害発生直後の病棟は救急医療の修羅場だったという。

 

著者自身は、最初の2日間は自宅から出られず、スタッフの安否や、勤務が可能かどうかの確認など、電話連絡に追われた。

 

ようやく病院で同僚たちと会うことができたあとも、緊急事態の中での病院運営維持や、他大学の医師への来援要請に追われ続けている。

 

震災発生から3週間後、精神科医で作家の加賀乙彦氏も、医療ボランティアとして東京から駆けつけていた。

知人である筆者の要請を受けて、たくさんの花を背負った姿で現れている。

黄色いチューリップの花は、働き詰めで疲れ切っていたナースたちの心を癒したという。

 

もちろん、生活必需品以外のものを被災地に持ち込むことには慎重でなければいけない。

それでも、心のケアもまた必要だ。

 

 

被災者だけでなく、被災者を支援する人もまた、大きなストレスを抱えていることを忘れてはいけない。

精神科医の筆者は、そのことに誰よりも気づいていたのだろう。

 

筆者は加賀氏に避難所の校長先生たちを訪ねて回ることを依頼している。

避難所の運営を急遽任された小学校の校長たちも、大きなストレスを抱えていた。

弱音を吐くことが出来ない立場の人ほど、後で心の障害が出るリスクが高いという。

 

筆者自身は、被災が最も激しかった場所や避難所を見ていない。

緊急事態の病院運営に手一杯で、自分の持ち場以外を見ている余裕もない状態だった。

また、現場の指揮に当たる者として、情緒的になることを避けたいという意識も働いていた。

そんな筆者もまた、やはり後日、悪夢や不眠に苦しめられる夜を過ごしている。

 

阪神淡路大震災は、「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)という言葉が広く知られるきっかけにもなった。

 

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筆者によると、阪神大震災は、日本最初の「テレヴァイズド・カタストロフ」(現場映像がテレビ放送された災害)だという。

 

テレビ画面の映像が、全国的規模で救護物資と多数のボランティアを動員する原動力になった。

 

また、群衆による暴動が起きなかったことが、当時海外から驚きをもって賞賛された。

 

なぜこれほどの災害を受けて、コミュニティが崩壊しなかったのか。

筆者は、災害後の神戸の人たちの反応に目を凝らしている。

神戸人が持っている、ある種の寛容さが幸いしたせいだろうか。

「神戸人から震災が神戸でよかったとひそかにささやきを聞く。他都市ではこうはゆくまいというのである。それが当たっているかどうかは、この次の災害によって決まるだろう」

人口の集中が進む首都圏で大地震が起きた時、われわれは心を壊されずに、助け合いながら災害を乗り越えていけるだろうか。

 

中井久夫のこの本は、阪神淡路大震災から16年後に起きた東日本大震災を機に、再び日のめを見て出版されている。

そして、東日本大震災から13年後に起きた能登半島地震。

 

災害は忘れた頃にやって来るというが、忘れられるほど悠長には来てくれるものではないようだ。

 

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