訂正する力(東 浩紀・著) | 今日は何を読むのやら?(雨彦の読み散らかしの記)

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この本の「はじめに」に書かれた冒頭の言葉は:

「日本にいま必要なのは、「訂正する力」です」

いきなり大上段からの結論で始められると、読み手としては少したじろいでしまう。

 

「訂正する力」が必要なのは、何も日本だけではないはずだし、自らの過ちや失敗を認めようとしない人たちは、他の国にもいくらでもいると思う。

(もちろん、『「訂正する力」が今もっとも必要な国は日本です』と書かれているわけではないのだが)

 

それにしても、昨年末から続く政治資金問題を巡って、あくまで非を認めない与党幹部の態度にも呆れてしまうが、戦後80年近く経った今もまだ、憲法改正議論が硬直し、停滞したままの日本の状況。

 

環境や人々の価値観の変化に合わせて軌道修正が必要な時代に、なぜ正しい方向に変化するための議論ができないのか。

それを考えることには意味があるはずだと思いながら読んでみた。

 

本書には、確かにもっともと思える指摘は多い。

 

たとえば、ツイッター(「X」という名前がなかなか定着しない)では、なぜ陰謀論やヘイトスピーチがはびこりやすいのか。

ツイッターで投稿できる文字数の少なさが、情報共有には有利である反面、付加できる情報の少なさが弊害になり、一方的な主張が飛び交う世界になっているという。

(筆者の言葉では、「訂正する力を阻んでしまう」)

 

そして、(日本人に特に強いと言われる)同調圧力が、ツイッターなどSNSでもさらに一方的な主張への偏りに拍車をかけている。

人間は弱い生き物です。感情で動かされ、判断をまちがう。

エビデンスを積み上げ、理性的に議論すれば「正しい」結論に到達できるというのは幻想にすぎません。

人間は信じたいものを信じる。動画とSNSの時代にはその傾向がますます強くなります。

だからこそ訂正する力が必要なのです。人間は弱い。まちがえる。

できるのはそのまちがいを正すことだけです。

 

「訂正する力」を肯定することで、人は、自らの頭でものを考え、自分の意見を臆せず発信することができるようにもなる。

 

 

筆者は、「訂正する力」を、さまざまな意味で使っている。

例えば、ある言葉が使用される背景や文脈を説明することも、「訂正する」行為となる。

 

「自分は、本当はこういう意味でその言葉を使っている」

そう言いたくても、(訂正を許さない)「論破力」がもてはやされ、またタイムパフォーマンス(いわゆる、「タイパ」)が優先される世界では、人は耳を傾けてくれない。

その意味で、個人の「訂正する力」が発揮されるためには、周囲の「聞く力」が求められる。

そのため、有意義な言論を展開するには、「訂正する人たちの集まり」が必要になるというのが、筆者の考えであるようだ。

 

本書の主張は興味深い。

政治や時事問題への切り口は鋭く、西欧哲学から日本の思想史、また司馬遼太郎の歴史観への評価など、縦横無尽な語りにも惹きつけられる。

(ときどき論理がやや飛躍していると感じることもあるが)

 

ただ気になったのは、筆者の主張にそのまま従うと、「書かれた言葉」が重みを失っていき、筆者が重視する「人文学的な知」への評価も低下してしまわないかという点である。

 

言葉以外の付加的な情報=「余剰な情報」が大事だと考える筆者は、伝達手段として(対話を伴った)動画配信や、トークイベントの有効性を説いている。

だが、言論が日常的な会話に近くなればなるほど、発話された言葉は次々に「訂正」され、重みを失っていく。

言葉が常に訂正され、消費され続けていく存在となったとき、ひとつひとつの言葉の信用性は低下せざるを得ない。

そして人は、他の人が書き残した文字を読むことにも、ますます興味を失ってしまう。

その結果、基本的に言葉の世界である「人文学的な知」は、今以上に力を失ってしまうのではないだろうか・・・

 

とはいえ、私は著者の活動や思想をよく知るわけではないし、こうした疑問も的外れなものかもしれない。

私の疑問が見当違いだと気づいたときは、まさに筆者の言葉のように、「訂正する力」を使って、認識をあらためたいと思うのである。

 

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今日もお読みいただき、ありがとうございました。

 

※当ブログ記事には、なのなのなさんのイラスト素材がイラストACを通じて提供されています。

 


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