著者である中井久夫は、精神科医としてだけではなく、エッセイストやフランスの詩人ポール・ヴァレリーの翻訳家としても知られている。
29年前の1995年1月に神戸淡路大震災が発生した時は、神戸大学の精神神経科の教授で、大学病院の精神科医だった。
この本に収められた文章は、震災発生から数週間が経った日の夜、一気に書かれたものだという。
感情を抑え、つとめて客観的な記述に徹しているが、緊迫した状況が伝わってくる。
新設間もなかった精神科病棟はさいわい大きな被害を受けずに済んだが、災害発生直後の病棟は救急医療の修羅場だったという。
著者自身は、最初の2日間は自宅から出られず、スタッフの安否や、勤務が可能かどうかの確認など、電話連絡に追われた。
ようやく病院で同僚たちと会うことができたあとも、緊急事態の中での病院運営維持や、他大学の医師への来援要請に追われ続けている。
震災発生から3週間後、精神科医で作家の加賀乙彦氏も、医療ボランティアとして東京から駆けつけていた。
知人である筆者の要請を受けて、たくさんの花を背負った姿で現れている。
黄色いチューリップの花は、働き詰めで疲れ切っていたナースたちの心を癒したという。
もちろん、生活必需品以外のものを被災地に持ち込むことには慎重でなければいけない。
それでも、心のケアもまた必要だ。
被災者だけでなく、被災者を支援する人もまた、大きなストレスを抱えていることを忘れてはいけない。
精神科医の筆者は、そのことに誰よりも気づいていたのだろう。
筆者は加賀氏に避難所の校長先生たちを訪ねて回ることを依頼している。
避難所の運営を急遽任された小学校の校長たちも、大きなストレスを抱えていた。
弱音を吐くことが出来ない立場の人ほど、後で心の障害が出るリスクが高いという。
筆者自身は、被災が最も激しかった場所や避難所を見ていない。
緊急事態の病院運営に手一杯で、自分の持ち場以外を見ている余裕もない状態だった。
また、現場の指揮に当たる者として、情緒的になることを避けたいという意識も働いていた。
そんな筆者もまた、やはり後日、悪夢や不眠に苦しめられる夜を過ごしている。
阪神淡路大震災は、「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)という言葉が広く知られるきっかけにもなった。
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筆者によると、阪神大震災は、日本最初の「テレヴァイズド・カタストロフ」(現場映像がテレビ放送された災害)だという。
テレビ画面の映像が、全国的規模で救護物資と多数のボランティアを動員する原動力になった。
また、群衆による暴動が起きなかったことが、当時海外から驚きをもって賞賛された。
なぜこれほどの災害を受けて、コミュニティが崩壊しなかったのか。
筆者は、災害後の神戸の人たちの反応に目を凝らしている。
神戸人が持っている、ある種の寛容さが幸いしたせいだろうか。
「神戸人から震災が神戸でよかったとひそかにささやきを聞く。他都市ではこうはゆくまいというのである。それが当たっているかどうかは、この次の災害によって決まるだろう」
人口の集中が進む首都圏で大地震が起きた時、われわれは心を壊されずに、助け合いながら災害を乗り越えていけるだろうか。
中井久夫のこの本は、阪神淡路大震災から16年後に起きた東日本大震災を機に、再び日のめを見て出版されている。
そして、東日本大震災から13年後に起きた能登半島地震。
災害は忘れた頃にやって来るというが、忘れられるほど悠長には来てくれるものではないようだ。
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