コロナ禍が明けて、いま日本では忘年会のシーズン。
以前の平常を取り戻すどころか、「コロナ前超え」などという言葉が飛び交いだしているこの頃。
それで本当にいいのだろうか?
従来通りのやり方で 社会のさまざまな問題に対処していけるのか?
我々は コロナ禍の中で何を学んだろうか?
そんな疑問を感じてしまう。
今回読んだ本、「ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた」は、経済哲学者である斎藤幸平氏が、さまざまな社会問題 の「現場」で取材した記事の連載をまとめたもの。
ちょうどコロナ禍の中の執筆だったこともあって、いろいろな困難があったことがうかがえる。
「人新世の資本論」では SDGsを「まやかし」と批判していた筆者が、実際に脱プラスティック生活に挑戦して、その不便さに悪戦苦闘したり、Uber Eatsのドライバーになって、孤独な働き方を体験したり。
学問の世界の人である筆者による、体当たりの取材の記録だが、生身の人間としての筆者の考え方、感じ方が良く伝わってくる。
筆者は、さらに踏み込んで、取材を通じて感じた矛盾や自分自身への疑問を、「研究者の暴力」、「自身が無意識に抱いている偏見」、「想像力欠乏症」など、厳しい言葉で表現している。
そこには、真摯に問題に向き合う筆者の良心がうかがえる。
大都市への集中、経済発展優先政策の陰で、忘れ去られてしまう地域や人々の存在がある。
あるいは、当事者ではない人たちによる、無責任で身勝手な誹謗中傷が、当事者の人たちを苦しめていることもある。
社会の分断は、けっして海の向こう側だけで起きている問題ではない。
もともとの記事が新聞への連載だったこともあり、筆者の他の著書に比べて読みやすい。
それでいて、読んでみると、著者がそれまでの本で言おうとしていたことの、本当の意味が見えてくるところも少なくない。
書籍化に当たって書き下ろされた「あとがきに代えて」の中で、筆者の思想に出てくるキーワードが解説されている。
例えば「コミュニズム」という言葉。
「民主的で、公正な富の管理を行うこと、それが<コモン>型社会としての「コミュニズム」が目指すものである。
したがって、ここで言う「コミュニズム」は、ソ連や中国でイメージされる社会主義・共産主義とはまったく関係がない。
「私たちは、貨幣や商品のやりとりをベースに金儲けやコスパだけを重視して生きているわけではなく、家族や友人間ではもちろん、大企業の中でさえ、お互いに必要とするものを無償で提供して、助け合っている。
そのような助け合いがなければ、資本主義さえも成り立たない。
その限りで、コミュニズムは資本主義社会の基礎でさえある・・・」
「コミュニティ」(共同体)、そして人とのつながりについて考えることの大切さを見直し、考え直すべきなのだ。
そう思うと、社会の問題に対しての、自分の認識が本当に不足していることを痛感する。
コロナ禍を経た今、これまで積み重なってきた社会の矛盾(経済格差、環境危機)がはっきりと目に見える形になってきている。
コロナ禍があったからこそ、得られた気づきもあったはずだ。
それを忘れてしまうのは、あまりにもったいない。
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今日もお読みいただき、ありがとうございました。