昭和十一年二月二十六日 二・二六事件当日の活動屋伊藤大輔 | 俺の命はウルトラ・アイ
2025-02-25 23:55:00

昭和十一年二月二十六日 二・二六事件当日の活動屋伊藤大輔

テーマ:伊藤大輔(伊藤葭 呉路也)

 

 

 昭和十一年(一九三六年)二月二十六日、

「昭和維新」の具現を希望する陸軍皇道派

青年将校のグループが蹶起し、総理大臣岡

田啓介・内大臣斎藤実らの元老・重臣を襲撃

した。

 

 栗原康秀中尉・林八郎少尉・池田俊彦少尉

・対馬勝雄中尉らが率いる約三六七名は首相

官邸を襲い、岡田首相の義弟松尾伝蔵予備役

大佐を射殺した。岡田首相は難を逃れて脱出

する。

 

 坂井直中尉が率いる兵二一〇名は内大臣

斎藤実を襲撃・射殺、中橋基明中尉らが率いる

兵一二二名は大蔵大臣高橋是清を襲撃・射殺、

安藤輝三大尉が率いる兵二四〇名は鈴木貫太

郎侍従長を襲撃、鈴木に重傷を負わせ、高橋

太郎少尉率いる兵三十名は教育総監渡辺錠

太郎を射殺、河野寿大尉率いる八名は前内大

臣牧野伸顕を襲撃した。

 

 同日野中四郎大尉率いる約四九〇名は警視

庁、磯部浅一元一等主計・香田清貞大尉・村中

孝次元大尉は陸軍大臣邸を占拠する。

 

 彼らは何故重臣・元老を襲撃し、クーデター

を計画した理由を「蹶起趣意書」において発表

した。

  

 

 将校達は「万世一神」の存在として天皇を崇拝し

ていた。この天皇の統帥の下「挙国一体生々化育」

していくこと、即ち天皇親政を具現するという「昭

和維新」を課題としていた。「元老重臣軍閥官僚政

党等」が「国体破壊の元凶」でありその元老・重臣・

軍閥を「君側の奸」として見なして除き「国体の擁

護開顕」を目指すという意見を将校達は宣言したの

である。

 

 事件の背景には不況による民衆の生活苦が激し

くなったことや陸軍内の統制派の独断専横に対す

る青年将校の不満の拡大がある。

 将校達が「万世一神」と仰ぎ至尊の存在として

崇拝していた裕仁は事件を聞いて激怒した。

 

 事件の翌日二十七日に石原莞爾大佐の主張もあり

戒厳令が施行され二十八日に「叛乱軍は原隊に帰れ」

と命ずる奉勅命令が出された。二十九日磯部・村中

は涙を飲んで帰順し、野中四郎大尉は二十九日、河

野寿大尉三月六日に自殺した。

 

 三月四日緊急命令において陸軍軍法会議が設置さ

れ、四月二十八日「叛乱軍将校」の裁判が行われた。

「一審制・上告無し・非公開・弁護人無し」という

被告達にとって厳しいものだった。

 

 七月五日磯部・村中ら十七名の将校に死刑が求刑

され、十二日香田清貞・安藤輝三・対馬勝雄・栗原安

秀・中橋甚明・丹生誠忠・坂井直・田中勝・中島莞爾・

安田優・高橋太郎・林八郎・渋川善助・水上源一の十

五名が銃殺刑で処刑された。

 

 

 

 磯部浅一は明治三十八年(1905年)四月一日に誕生

した。昭和十一年八月二十八日「獄中日記」において

裕仁を厳しく叱責した。

 

 

   今の私は怒髪天をつくの怒りが

   もえています。

   私は今は陛下をお叱り申上げる

   ところ迄精神が高まりました。

   だから毎日朝から晩迄陛下をお

   叱り申しております。

   天皇陛下

   何と云ふ御失政でありますか。

   何と云ふザマです。

   皇祖皇宗に御あやまり

   なされませ

 

 

 昭和十二年(1937年)八月十九日、磯部・北一輝

(国家改造を主張した国家社会主義者で事件に連座

して捕らえられた)・西田税・村中孝次が事件の首魁

として「叛乱罪」によって処刑された。

 

 青年将校や思想家達は天皇親政実現を望んで維

新を起こしたが、天皇・裁判官に「叛乱軍」とし

て断定され罪人として裁かれた。

 

 将校達は激しく天皇・大日本帝國国愛した。恋闕

の情が行動の根幹にあった。

 しかし、この激しく切ない気持ちが愛する天皇・国

家・政府・軍部重鎮に届かない。

 

 

 二・二六事件が、軍部の圧力を国民に強めたと

いう意見に自分は疑問を持っている。

 

 昭和元年からこの十一年まで時代は軍部の力は

常に強かったと思うが、二・二六事件で蜂起した

皇道派の青年将校は、軍部では反体制・反主流

であり、統制派の軍人こそ、中華民国侵略や太平

洋戦争を進める存在であった。

 日中戦争・太平洋戦争の最大の責任者は、天皇裕

仁後の昭和天皇である。「天皇陛下の為に死ぬ」こ

とを国民の美徳・義務である道を推し進めたのは統

制派の軍人である。

 

 嘉仁の四人の息子たち。左端が裕仁。


 秩父宮雍仁親王は決起した青年将校と親しかった。
事件当時の新聞を見てみると秩父宮の名前は大きく
報じられている。

 笠原和夫は『昭和の劇』において、二・二六事件は
昭和の壬申の乱で、皇族雍仁が天皇弟の身で天皇制廃
止に立ち上がったのではないかという説を深く確かめ
ている。

 事件を聞いた裕仁は激怒した。老獪で強かで冷酷な
彼にしては珍しい出来事だ。皇弟・軍人の天皇制廃止
行動に対する逆上だったという事ならば様々な線が繋
がる。

  青年将校への裁判が弁護士皆無とは冷厳だ。


 統治者裕仁の冷酷非情は凄まじい。


 天皇制廃止の決起に対する圧迫が、弁護士皆無裁判

による青年将校銃殺刑だったのかもしれない。



 二・二六事件が起こった昭和十一年(1936年)二月

二十六日当日、映画監督伊藤大輔は、赤坂の旅館におい

て畳に右肘を付ける自身の姿を撮影させている。

 

    私はやりたいものがやれていないというこ

    とを、いま思い出しましたよ。第一映画で、

    いちばん最初に「同志の人々」をやることに

    なっていたんです。それで山本(有三)先生

    の許可を得て、逆に先生が"女が一人も

    出ていないけど、大丈夫かね、かまわない

    かね〟と。ただ「同志の人々」という舞台

    脚本だけではやれないから、題へ「寺田

    屋騒動」をつけて首尾を整えた。とたんに

    二・二六事件が起きて、集団蜂起の事件

    などまかりならん、と。それでこの多年渇望

    の名篇の映画化は泡沫に帰した。

    (『時代劇映画の詩と真実』112頁)

 

 山本有三の『同志の人々』の映画化作品を『寺田屋

騒動』として準備していた伊藤大輔はこの企画に熱意

を燃やしたが、二・二六事件が起こったことを受けて

集団蜂起の事件を描くことは罷りならんと、中止指示

を受ける。

 

 この企画が崩れたことは、大輔にとって無念であった

ようだ。

 

 歴史的事件は、映画の世界にも大きな影響を与えてい

る。

 

 『寺田屋騒動』映画化への夢は伊藤大輔にとって熱い

ものでし昭和戦後も抱き続けていた。

 シナリオを読んだ深作欣二が映画化の許可を希望する

と「私も引退したわけではないので、自分で撮りたい」

と大輔は語った。

 しかし、深作欣二が読んで熱心に映像化を望んでくれた

ことに深謝した。

 

 伊藤大輔にとって長年の夢の企画がかなわった。

 

 『寺田屋騒動』脚本は『シナリオ集』に収録されて

いる。

 

 

 

 ◎

 ロシア・ウクライナ戦争開戦から三年二日が経

った。

 

 

 ウラジーミル・プーチン大頭領・ウォロディミル

・ゼレンスキー大統領共に主張はあると思う。


 両国の軍人・民・関係者を戦火に巻き込むを止め

て完全停戦に向かって欲しい。

 

 中華人民共和国と日本国を争わせ戦争商売で

儲けようとする人々がいる。

 mRNA猛毒政策・コオロギ猛毒食政策・レプリコン

猛毒を禁止にしよう。

 

 日本国憲法は天皇制廃止・皇室廃止・君が代

廃止・日の丸廃止・日米安保廃棄・沖縄米軍基

地廃止・沖縄米軍兵士全員帰国明記・原発廃止・

自衛隊の災害救助隊への改称明記・靖国神社廃

止・戦争放棄改変禁止明記・mRNA薬物接種完

全禁止・猛毒入りコオロギ食禁止・レプリコン

毒薬禁止・マイナンバーカード銀行口座紐付け

禁止・カジノ全廃・インボイス制度禁止・パン

デミック条約参加禁止・放射能汚染水海洋投棄

禁止・文楽誹謗禁止・ウィリアム・シェイクス

ピア劇破壊改竄禁止の憲法に改正すべきである。 

 

 令和四年(2022年)七月八日、山上徹也が安倍晋

三を撃った。数々の腐敗を犯し日本国憲法平和主義

を蹂躙した凶悪犯罪者安倍晋三に対して山上徹也が

統一教会との癒着に怒りを込めて鉄槌を下した。


 暴力に悲しみを覚える。だが、統一教会に家族を

苦しめられた徹也の怒りは察するに余りある。

 

 2・26事件青年将校に通底する悲憤の心を確かめ、

世の苦を抜き革命を起こし政治腐敗と統一教会横暴

を糺すという試みではなかったか?

 

 テロ禁止の課題を確かめつつ山上徹也の死刑求刑

に反対し更生の機会を与える無期懲役等の求刑を希

望する。

  

 

 

 二・二六事件から八十九年が経った。

 

 その日伊藤大輔は畳に手をつく写真を撮影させた。

 

 戦争時代の苦悩が画像からも察せられる。

 将校達や山中徹也の怒りを察しつつ、非暴力非服

従で理不尽な力に抵抗し「殺すな」のメッセージを

確かめ命の尊さを学びたい。

 



 満年齢三十七歳の伊藤大輔にとって苦闘煩悶時代

であったと想像している。

 

 この年の七月三十日に封切られた監督作品『四十八

人目』は討ち入りに遅れた毛利小平太の再起の物語で

ある。

 

 テロリスト達が様々な課題を抱き蜂起した。

 

 取り残された者は生きる事を選ぶ。

 

 小平太の苦悩に大輔は1936年を歩む力を学んだの

であろうか。

 

 『四十八人目』は重く渋い名画である。

 

                      合掌