藍色の心地良い闇の中、橙色とも蜂蜜色ともつかぬ小さな光が点いている。ランプの光に群がる鬱陶しい蟲などおらず、この場には私一人しかいない。机に向かって一枚一枚書類に判子を押したり、サインをしているだけだ。ふと壁にかけられた振り子時計に目を遣ると、時計の針は深夜の二時を指している。私は机に万年筆を置き、小さな溜め息を一つついた。

 

 

 

椅子に凭れかかりながらティーカップの取手に手をかける。口にしたセイロンティーは渋いものではあるが、かといって砂糖やミルクを入れようとは思わない。それでも私にとっては温かいもので、無くてはならないモノの一つだった。この暗闇が恐ろしいのかというとそんなことはない。窓から覗く月は美しかったし、陽の光を気にして歩く必要もないので宵闇は好きだった。鍵を開けて部屋の外へ出ると、少し冷たい風が身に沁みる。誰かが窓を開けているのだろうか。それとも単に閉め忘れているだけなのか。どちらでも良い、心地良い風を浴びるのは嫌いじゃないから。長い廊下を歩き続けているが、灯りひとつなく淋しい宵闇は私の心をどこまでも癒してくれた。私自身が闇に棲まう者だからというのもあるが、元々、メタデータなどという複雑怪奇な代物がなくとも光と闇は同じような存在だった。それが正か負のどちらかにどれ程傾いているかの違いでしかない。世間では光が持て囃されているようだが、誰が幾度私を光の側に呼び戻そうと、私はこの中に居続けるのだろう。それが、陽の光に疎まれた者達の宿命なのだから。

 

 

 

金色の丸いドアノブを回し、寝室の扉を開けると物哀しいメロディが耳の中に飛び込んできた。聴いたところ楽器ではない優しい音色が聴こえてくる。オルゴールだろうか。

「誰かいるのか……?」

ソファーには一人と一匹の小さな動物がいた。少女は薄紫色のシンプルな寝間着(ネグリジェ)だけを着ている。スリッパは履いておらず、白い足が見えている。長袖とはいえ寒くはないのだろうか。短くも生糸のように輝いているその薄灰色の髪は、まるで仔犬か仔猫のように両サイドが跳ねている。前髪は右眼が隠れる程に長く、左眼はオリーブのような濁った黄緑色をしていた。彼女は私を見るなり、

「兄さま‼︎」

と叫び、私に駆け寄ってきた。手にしていたオルゴールの箱はクルモンがいる方向に投げられ、ソイツはソレを見事に受け止めた。バランスを崩しつつも、程なくして行儀良く座っているのを見るに怪我はしていないのだろう。

「兄さま、兄さま‼︎」

少女は私の腕にしがみつき、猫のように擦り寄ってきた。

「……何度も言うが、私はお前の兄ではない。それに、私は……」

「兄さま、私あなたのことが大好きです‼︎血の繋がりなんてどうでもいい、兄さまが私をここに連れてきてくれたから意味があるんです。大好きだから、一緒に添い寝してください‼︎勿論、ブランも一緒に!」

「ブランも、一緒でクル!」

私は苦笑いをしつつ、

「仕方ないな、ほら……」

電灯のスイッチを切り、二人を広々としたベッドへ連れて行った。普段は柩の中で眠るのだが、今回ばかりは仕方がない。二人ははしゃぎつつベッドにダイブをし、私はその後へ続く。私は布団の中に入り、目が冴えたまま二人のおしゃべりを聞く羽目になってしまったのだった。少しして、二人とも寝静まった頃、彼女が私の腕を掴んでいることに気づいた。暗がりの中でもよく分かる、細く白い腕。彼女の口元は嬉しそうに緩んでいる。

「こゆき……」

消え入りそうな、闇の中に溶けてしまいそうな小さな声で、彼女の名前を呟いた。

 

 

 

 

フリルの襟から覗く白い頸に舌を這わせ、牙を立てる。彼女は少しだけ痛がる様子を見せながら尚も眠っていた。

「……ご馳走様」

少女の腕は昔のことを嫌でも思い出させてくれる。生まれて間もない彼女を抱きしめ、小さな指が私の指を掴んだあの時のこと。

「怖くないか……?痛くないか……?」

私の口は今のこゆきに向かって、異国の唄を口遊み出した。口から出たものは私の願いでもある。ソレが叶ってしまえば彼女はそう遠くないうちに私のことを忘れてしまうだろう。だが、それでいい。

 

 

 

 

今日は彼女の枕元に羊のぬいぐるみがない。ある意味当たり前と言えば当たり前ではあるのだが。彼女はこのぬいぐるみをとても気に入っているようだった。何故だろうか、リボンで閉じられた袋に入ったソレを、彼女は喜んで受け取り、中身を知るなりとても嬉しそうにしていた。無くさないようにとぎゅっと抱きしめ、部屋にいる時はいつも一緒。尤も、このぬいぐるみを与えた理由はとても褒められたものではないのだが。単純な褒美ならばもう少し豪華なものを与えるし、別に一人の少女を喜ばせる為に買った訳ではない。羊という生き物が持つ意味を知らぬ程、こゆきは莫迦ではない。寧ろ、ああいうところに嫌でもいれば自然と意味を知るだろうに。いつでもその気になれば捨てられるのに、彼女はまるで友達のようにソイツを大事にしている。彼女は表向きメイドとして雇われている筈なのに、恨み言は愚か嫌な顔一つしない。即座に離れることも出来るだろうに、彼女は私に着いていく道を選んだ。何故知らないフリをしている?お前の母親を殺したのは私だというのに。何故お前は私の腕を掴む?

 

 

 

 

アイツは、私の部下であるアッシュは莫迦な男だと思った。まだ若い新兵で、娘であるこゆきと同じオリーブ色の眼に、銀色の髪をしている。お調子者で女好きという絵に描いたような下品な男だった。何不自由なく育ち、明るい笑顔を振りまくような齢十九歳の、まだ幼さが抜け切っていないやつだった。私自身、その時は人間に紛れて暮らしていたのだが、どうも人間の世界には割と下品なことが多いらしい。裸の女が描かれた雑誌を、部下から見せられたことが何度もあるし、人間の女を抱いたことも一度や二度ではない。そしてそこから抜け出すことは意外と難しいようだった。だからこそお前が産み落とされたのだろう。望まれぬ忌み子として。他にもそうした子は沢山いたらしいが、母親自身の貧困と差別で、物心つく前に捨てられるケースが殆どだった。まだアメリカ側が敗戦国である日本を支配していた時代のこと。あの世界大戦が終わって五年。夕闇に包まれつつ、赤羽の街は柔らかな光で満たされようとしていた。吊るされた朱色の提灯の群れ、駆け回り、ランドセルを空き地に置き、ゴム毬で遊びまわる半ズボンの幼い少年たち。車道にいる母親は乳母車のなかで泣きじゃくる赤ん坊をあやしている。まだ車は少ないようで、面倒な白線の羅列もない。朱色の空には鴉が鳴いている。駄菓子屋の老婆はにこにこと幼いおかっぱで吊りスカートの少女達からなけなしの金を受け取り、商品の小さな飴を渡していた。別の店では、雑誌らしきものを手に取る中年の男がいる。その店にはブラウン管のテレビがあり、数人の子ども達が群がっていた。映される映像はモノクロでも、小さな目には目新しく映ったのだろう。彼らの目は一様に輝いている。私はその光景に嫌な懐かしさと吐き気を覚え、溝鼠が這い回る路地裏へ足を運んだ。

 

 

 

 

薄暗い路地裏は騒がしい声も忌々しい光も届かない。だが、如何わしいポスターが軒先に何枚も貼られた店(パブ)が一軒二軒と立ち並び、見るだけでも気まずいそれらを素通りした後に、私は見覚えのある顔を見つけた。しかし、どこか様子がおかしい。何かを抱いているように見えるのだ。そして若い女性がこちらを向いた途端、その正体が理解できてしまった。流れるような黒髪を短く切り、先端を柔らかくカールさせているが、顔には真っ赤な口紅を塗り、派手な色の涼しげなワンピースを着ている。黒いハイヒールを履きながら、その実、細い腕の中には生まれたばかりの赤ん坊が、粗末なおくるみに包まれていた。よく見ると、母親には似ていない。寧ろ、彼アッシュのような銀色の髪が見える。つまり彼女は彼と一夜を共にしたのだ。私も彼女と過ごしたことはあるが、あの新兵の子を身籠るとは。近々結婚する、と言いふらしてはいたが、あの調子だと真に愛しているかは怪しいところがある。

 

 

 

 

それよりも、私は彼女の首筋の方が気になり始めていた。白い首筋はなぞるだけではいけない。噛み付かなければならないのだ。他に誰もいない今だからこそ、する価値がある。私は女の首筋に牙を立て、そこから流れ出る紅を貪るように味わった。舌先を駆け巡る甘美な味は私の喉を潤していき、その奥に苦々しい毒が潜んでいることを忘れさせてしまう。終わりがあることさえ、気づいていなかった。女は赤ん坊を抱いたまま倒れてしまったのだ。寸でのところで取り上げたので、嬰児は助かったものの、彼女自身は既に事切れていた。もう、ただの骸に用はない。私は泣き始めた赤ん坊を抱いたまま路地裏を後にした。

 

 

 

 

耳を劈くような泣き声で元気に泣きじゃくる赤ん坊をあやす為に、私は子守唄には程遠い歌を歌った。遠い、遠い昔に妖精の住まう地で謳われたバラッドを。長い長い時を超えて、忘れ去られてしまったその詩に、私は呪いにも近い意味を込めた。私と幼子を引き裂く呪いだ。もう空は藍色の闇で染まろうとしている。私はこの哀れな幼子を、拾って貰えるようにと住宅街の近くにある教会のような建物の裏口に、そっと捨て置いた。静かになったとはいえ、よく見ると小さな手で私の指を握っている。この時に、彼によく似たオリーブ色の目が見えた。懐いているのだろうか、いや懐かれては困るのだが。私が手を離した瞬間、赤ん坊は再び泣いてしまった。その場から離れようとしても未だに泣いている。裏口の扉を勢いよく開けた若いシスターが泣き声に驚き、見つけるまで、煩く泣いていた。

 

 

 

 

 

ソレを見届けてから数週間後、あんなに明るくてうるさかったアッシュが死んだという知らせが私の耳に届いた。あの赤ん坊を抱いた女、紗代子が死んだことを知り、後を追うようにして断崖絶壁に身投げをしたらしい。残された遺書にはこう書いてあったという。

『残された俺の子をどうか頼みます、先輩』

そのすぐ後には、滑らかな筆記体の、お世辞にも綺麗とは言えないアルファベットで『アッシュ』と署名があった。

「………最後まで真相を知らぬとは、な。お前は莫迦な奴だったよ、アッシュ」

読み終えたあと、不思議なことに私の胸が少しだけきゅぅっと締め付けられた。たったの数ヶ月過ごしただけの部下だというのに。何故だろう、私の目からはいつの間にか涙が一筋こぼれていた。いつもはこんな風にはならないのに。使い物にならない部下は容赦なく切り捨てていたのに。思い返せば、あの煩わしい明るさが私の中で少しだけ心地よいものになっていたのだろう。いつの間にか私も自然と笑顔になっていた。だが、私が殺めてしまった。

昭和二十五年、八月も中頃のことだった。そして、十四年の月日が経ち……。