きっと、その場にいる誰もが思っただろう。目の前にある刀に関わる記憶が抜け落ちたのなら、『潮凪』の意味はあるのか、と。本来なら、黒い魔王も悪態をつくのだろうが、我の予想に反してルナは小さな少女の躰を強く抱きしめた。スピネルのように紅い眼からは涙が流れ出ている。獲物を狩る鷹のような無慈悲で鋭い眼光が弱まり、古い電球のような温かみを見せていた。理由こそ違えど元から二人は独りだったから、もしも銃殺のトラウマさえ無ければ互いに支え合えただろう。レナータの頭脳と、ルナの強さは何ものにも変え難いモノだ。人間の大人よりも大きなその手は、彼女を溢れんばかりの愛で包み込み、優しく髪を撫でる。今は胸の痛みを訴える少女でさえ、大きな躰を抱きしめ返している。澄んだ涙は二人の両眼から、朝露のように零れ落ちていった。
目の前の大蛇は怨嗟の籠もった眼差しで我々を見つめている。弾痕からは真っ赤な血が、鉄パイプから細々と流れる濁り水のように滴り落ち、苦しそうに呻いている。それが黒蜥蜴の耳に入るや否や、彼は痛みを訴えるレナータを我に護るよう命じ、自身は眼前の白蛇に立ち向かっていった。その大きな背中に冷酷な魔王としての面影はない。今は我の眼から見ても、たった一人への愛の為に戦う気高い騎士、とさえ映ってしまう。
「……っ‼︎許ざねぇっ‼︎よぐもっ……‼︎俺の、俺だけのレナータをっ……‼︎」
涙交じりの声で、彼は鋭い鉤爪を生やした。禍々しい紫色の光を纏ったソレは、一つ一つが赤黒い血さえこびりついていても可笑しくないだろう。それでも妖しく輝いている。彼が掲げる愛は、決して正しいものではない。それは悪夢を通して何度も二人を見ていたから、というのもある。だが、それだけではないのだろう。まるで彼女は人形のように扱われているのだ。何も知らない連中から見れば厚遇されているとも云えるし、ある種の寵姫として彼の愛を一身に受け止めざるを得ない状況に追い込まれている、とも云える。朧げではあるが、我の幼い眼から見ても、それくらい歪な愛であることは理解出来ていた。いずれ、あの爪は黒影を纏い、見境なく切り裂く狂愛の刃と化すだろう。我を優しく抱きしめる少女は理解していないようだが。
目の前の蛇が憎い、憎い‼︎憎々しい‼︎本来なら愛銃(ベレンヘーナ)で片をつけた方がいいのだろう。だが、今俺がコイツを射殺したとしても小さな少女がまた泣き出すだけだ。下手をすればトラウマを刺激された余波でアマリリスが出て来る可能性だってある。発狂し、極限まで死を望んでいる彼女が出て来てしまえばどうなるのかは分からないが、慰め続けて解決するならどれ程良かったことだろう。だからこそ俺は闇色に染め上げられた爪で戦うことにした。目の前のアイツは心底恨めしそうに俺のことを睨みつけているが、そんなことで俺の決意が揺らぐ筈もない。息を切らしながらこちらに鉾を向けてくるも、俺の敵ではない。ソイツを吹き矢のように投げても、即座に俺の腕に受け止められへし折られる。まるでガラス管を折られた時のように乾いた音が洞窟の中に小さく響く。これでは敵わないと思ったのか、今度は太い尻尾で鰐のように薙ぎ払ってきたとしても、そこに長くて尖った爪が食い込むからか、奴は痛みのあまり叫ぶことしか出来ない。自然と笑みが零れてくるが、歓喜からという訳ではない。狂気とも云えるだろうソレを目にして、無事ではいられないと感じた蛇は後ずさろうとするが、俺がソレを許さない。爪を振り下ろし、攻める隙を一度も与えぬ程に切り裂いていく。一撃は爪で引っ掻いてやり、二撃は心臓辺りまで貫通させていく。三撃目を終えると、隙間から内臓が見えそうになっていた。大量の血が吹き出し、紅く染まろうと攻撃の手を緩めることはない。喉笛を切り裂いて漸く奴の息の根を止めたとしても、俺はその身を抉り続けていた。
白かった蛇の身は血で朱に染まり、深く酷く抉られたその身からは筋肉はおろか、骨や裂けた肝臓や腸といったモノが見える。紅い眼は見開かれたまま、俺はソイツの骸を蹴り飛ばした。そんな大きな身が光り出し、粒となって空へと昇っていく筈が、俺の躰の中に流れ込んでくる。昔、まだ根無草だった頃には数え切れないくらいに味わっていた感覚。久々だった。だが、もう今の俺はあの時とは違う。力を求めて獲物を屠ってばかりいた頃とさ違い、目頭がいつの間にか熱くなっているのだ。折角レナータを一度は殺めた敵を殺せたというのに。俺は怯えながら兎を胸に抱く少女に駆け寄り、
「俺がお前を殺した奴を殺ってきた。もうお前を殺そうと思う奴は誰もいねぇから、な……?」
「……ん、ありがと、ルナ」
「潮凪はどうすんだ?その為に来たんじゃねぇのか?」
「…………?わかんないよぅ……」
「ほら、もうこの洞窟には俺達以外誰もいねぇんだ。潮凪はお前のモンだぜ?」
「………コレ、ボクの?」
小さな手が鞘に収められた刀に伸び、掴む。よく見ると、それ自体は普通の刀だが、柄の方にある小さな穴には紫色の組紐が括り付けられている。その先には、クロの首に付いているような混じり気のない銀の鈴玉と、楕円形の紅い宝石がくっついていた。血の紅とはまた違うが、限りなくよく似たもので、レナータの眼とよく似た色合いをしている。人を惑わせ、狂わせる紅い色だ。ただ、彼女の眼とは違いぼんやりとはしていない。静かに淡い光を放っていた。それは少女を選んだかのように眩しい光を放ち、数秒程すると消えてしまった。俺が力ずくで鎖を引きちぎり、彼女はまるでぬいぐるみのようにして大事に刀を抱えている。変わらず頭には茶色の兎を乗せたままだ。小さな少女はその虚ろな眼に相応しい、不気味な笑みを浮かべながら、嬉しそうに洞窟の外まで駆けていった。靴が泥で汚れることなど構うことなく。俺にはこの時見えていなかったが、小さな兎は怪訝な顔を浮かべていた。何も知らない少女とは対照的に、何かを知っているのだろうか。
外に出ると、既に空は茜色に染まり、少しだけ冷たい風が吹いていた。落ち葉が舞い、細い草や羊歯がまるで芒のように靡いている。草も木も、全ての生きとし生けるもの達が、優しい光で包まれていく。紺色の帽子を被った小さな少女は眩しそうに眼を手で覆っている。
「帰ろうぜ?」
「………うん!」
俺は小さな少女を乗せて、行きと同じくバイクを走らせた。道中は木が疎らに生えた街道や、蒲公英の綿毛が飛ぶ草原を通るが、飛ばしてはいない。空に青がかかり、一番星が見えてくる頃にはあの丘に着いているだろう。
小さな少女が掴んだ刀は、ある意味で世界を動かし得るモノだった。掴んだその瞬間、確かに我の眼は何かを捉えていたからだ。アレは暗闇に浮かぶ、紅と白の数字で形作られた数式の一部。そして、彼女は我の予想に反してソレに動じることがなかった。コレが意味するモノの中身を、我は少しばかり知っている。だが、彼女は膨大な量の数式を目にしてもぼんやりと見つめるだけ。少なくとも僅かに理解してはいるようだったが。
「………」
「どうした、レナータ?」
「クロ……、見えた?数字、いっぱい……」
「……見えてしまったのか。ソイツに触れてはならぬぞ!そなたはいつでも世界を動かし得る、過ぎたる力を得てしまったのだからな。それこそ、そなたが望めば如何様にも。数式の意味や中身が全て解せた時、我々がどうなるかは分からぬが、少なくともいい方向にはいかないだろうな」
「……少しだけ、ボクには分かった。数字が並んでる、だけじゃないことが。紅いの、何か伝えようとして……」
「それ以上はいけない……‼︎」
「でも、コレ以上は分かんない……」
ルナの腰を掴みながら、少女はしょんぼりしている。それでいい。今は何も考えない方が吉だろうから。彼女はいずれ、例え己が望まずとも過ぎたる力を手にするからだ。それが救いを齎すかどうかは分からない。『闇よりの救い手』と同じく、手に入れたところで己の身を蝕むしかないという線もあり得る。不幸中の幸いは、彼女が力のない少女であり、ルナに護られ続けていることだろうか。我でさえ護り切れない小さな彼女の盾となり剣となってくれる魔王は頼もしい存在だ。が、彼女の心は完全には溶けていない。それでも、僅かばかり溶けた小さな少女の心を埋めようとするルナは、哀しそうな眼で今日も我々を見つめている。
同じ日常など二度と始まる筈もない。深く刺さった胸の傷は、記憶が抜け落ちた後であっても残り続けているし、いずれ我々のことも忘れるだろうことは想像に難くない。だが、このまま可愛らしく優しい少女のままで在って欲しいと願ったとして、彼女の中の歯車は止まるだろうか。過ぎたる力を手に入れてしまっているから既に手遅れだとも云える。その小さく柔らかな手が、妖しく美しく見えるくらいの紅に染まるのを止めることさえ、我々には出来ない。ルナでさえ止めることは出来ない。それでも、彼女は優しく我の角を、耳を撫でるのだ。もし、レナータの記憶が抜け落ち、ルナのことさえ忘れてしまったならば。儚く小さな躰に爪痕を残そうとするのだろうか。それがどれ程残酷な形だとしても。泣き叫ぶだけでは終わらない、本当の死をどれだけ繰り返したとして、彼はレナータの傍に居続けられるだろうか。
相変わらず広々とした部屋の中、澄んだ紅玉の瞳の少女に話しかけた私は彼女の隣に座る。天蓋付きの、それこそ王が座る玉座とさえ錯覚しそうなソファーの上には、中に具など入っていそうにないおにぎりやエビフライのぬいぐるみが寛ぐ私達を迎えてくれた。
「おかえり……、レナータ。結局のところ、潮凪とやらは見つかったのかな?」
「………ん」
小さな少女は少しだけ頷いた。桜色の、触り心地が良さそうな、可愛らしい顔がついたマカロンのぬいぐるみを抱きしめながら。気のせいか、蛇神の洞窟に赴く前よりも元気がない。いつも以上にぼんやりしているようにさえ見える。あの洞窟で何かあったのだろうか。
「どうした?赴く前よりも元気がないぞ?」
「………」
少女は何も答えようとしない。よく見るとぬいぐるみで胸の方を強く押さえている。子兎は心配そうな顔をしながらおにぎりのぬいぐるみの上に乗っている。
「……そなたにも友の心配をする心があったのか。血も涙もない外道だと思っておった」
「失礼だな。私のかわいい妹の親友だから気にかけてやってるだけだ」
「……結果から申すと、潮凪こそ手に入ったが、レナータは一度死んでいる。我が禁術を用いて蘇らせた也」
「小さなお前が一つとはいえ禁術を扱えるとはな。恐れ入るよ。私でさえ一つも扱えぬというのに。何度繰り返しても、いい結果を生み出すことは出来なかった」
「……そなたに褒められると素直に喜べぬし、貶されているようにさえ感じるのだが」
茶色い兎は小さくとも円らな瞳を、気に入らないといった風に細めている。だが、私が言ったことは全て本音だ。仮死状態の者を蘇生させる術こそ数あれど、本物の死者を蘇らせる術は封じられて久しいのか、見たことも聞いたこともなかった。
「……古の昔に封じられた筈の術を、何故我が使えるのかは分からぬ。少なくとも、レナータは無理矢理死の淵から呼び戻すことが出来た。少し前の、己の記憶と引き換えにな」
「それ以外にもあるだろう。私の目から見たレナータは僅かだが血色が悪く見える。『こちら側』の仲間入りをする日も近いかもしれんな」
「黙れ‼︎貴様に何が分かる⁈」
「仲間が増えるかもしれない、ということが嬉しいんだよ。私は」
私はにんまりと、目を細めて返した。兎は敵う筈もないのに威嚇をしている。だが、
「喧嘩は駄目クル!」
「………」
小さな少女は何も言わずにこちらを見ている。言葉こそないが、心の底から嫌そうな顔をしていた。苦虫を噛み潰したような二つの顔に対して、私達は何も返すことが出来なかった。
静かな部屋に、ピアノの調べが聴こえてくる。淹れたての紅茶に一口手を付けながら、私はそれにうっとりと聴き入っていた。ブランも小さな躰をゆらゆらさせながらにこにこと笑っていた。弾むような鍵盤捌きの中に悍ましい低音が響いてくるものの、それさえ忘れてしまえるくらいの美しさ。小さな指は触れるだけで壊れてしまいそうだというのに、それでも懸命に弾き続けている。少女の髪は高い位置で二つに纏められたままだ。紺色のドレスには黒い糸で縫われた跡があるものの、よく見なければ見えない。私の藍色の眼が、一瞬だがそれを捉えていた。彼女は本当の意味で死から蘇ったのだろうか。そうとは思えぬ位、ピアノの腕は衰えていない。躰が覚えているのだろうか、それとも心から弾きたいと思ったからなのか。私には分からない。
一分半程過ぎたところで、レナータが私に話しかけてきた。
「こゆき、歌わないの?」
「歌おうにも歌詞が分からなくてな。教えて貰えれば歌えるのだが」
「……じゃあ、ボク達と一緒に歌おうよ」
「……輪唱か、出来るかな」
私達はレナータのピアノに合わせて歌う。初めて聴いたが、彼女の谷間の妖精(ナパイア)のように美しい。性差がまるで感じられない妹(こゆき)の声とは違う。明るいピアノの旋律が、陽の沈みゆく部屋の中を柔らかく包み込んでいき、ある意味では昼間より明るくなった。タンバリンでもブランかクロに持たせたら更に楽しくなりそうなものだが、一瞬にしてそれが要らなくなりそうだとも思ってしまった。弾むような旋律でさえ、ルナには爪痕を残せているだろうか。