由良川の源流を歩いてきた。

源流といってもずっと穏やかな流れ。

急峻にそびえる山や激しい流れの谷を掻き分けて歩くという感覚はない。


              

新緑が目に鮮やかで、川のせせらぎに河鹿の鳴き声が心地よい。

トチの大木、ブナの林、かつて林業が栄えた名残りのトロッコのレールが、森の奥へと続く。

雪深い冬に、崖から落ちて息絶えたのだろうイノシシが骨と皮になって道をふさぐ。

10トントレーラーでないと運べないような巨木が、嵐で流されて川の真ん中に横たわっている。


静かに静かに、森の世代交代がおこなわれている。

              

釣り人が渓流釣りをしている。淵を動くアマゴの魚影は大きい。

清流は氷水のように冷たい。


川岸に下りて、持ってきたストーブで湯を沸かし

おむすびをほおばり、コーヒーをおとして、川のせせらぎに溶け込む。


空高く、猛禽がゆっくり円を描きながら風をつかまえている。

あのタカの望遠レンズの目には、自分たちの姿もケモノのひとつとして映るのだろうか。


疲れて重い足を引き摺って、西日の差す森の小道をたどりながら、自分がただのケモノになっていくのを心地よく感じる。
              

              
雨に塗れる飛び石と苔むした裏庭の風景。

雨の土曜日の午後を、こういう風景の中で過ごす。

日本人に生まれてよかったなあ…としみじみ感じたりする。


自分が何者なのか、時々自分のアイデンティティを見失いそうになる。

自分のアイデンティティを見失うことの危機を感じるということは、逆に言えばそれだけ、自分は何者かでありたいという囚われに縛られているからかもしれない。


人として、人に向き合うとき、自分が何者であるかを人にも自分にも知らしめることで、互いに安心したりする。

普段、いかにそういうことによって自分を規範していることか。


それは時に優越感であり。時に劣等感であり。


そういうものが一切ないところで、自分が何者かであるという役割を捨て去ったところで、ただ一人の存在として

こういう風景の中に身を置いてみたときに、カラダの深いところから湧いてくるメッセージに身を任せてみる。


頭で考えようとせず、カラダが発してくるメッセージをそのままカラダで受け止めて、それ自体を味わってみる。


すると自分が太古から綿々と受け繋がれてきた

 やまとのくにのひと 

であることが分かる。



ときには

それだけで十分だと思えるような一日を過ごしてみるとよい。


かつて、みなそうであったように。

              


初夏を思わせる日差し。紫外線の強さは真夏より5月の方が強烈なんだとか。それでも湿度が低くてカラッとしているから、この季節はそとにいるのが気持ちよくて、ついつい庭に出てしまう。

              


たしか、使わずにとっておいた材木の残りがあったはずだ。そいつを使って、デッキを作ることにきめた。

休みをつないでの作業だからいつまでかかるかわからないけど、まあ急ぐ仕事でもないし。

梅雨がくる頃までにはたぶんできる…んじゃないかと(^o^;)


作業に入る前に、あとのお楽しみに小夏ちゃんを冷蔵庫に入れておこう。


              
僕がかんきつ類に目がないことをよく知っている友人が、高知県の小夏ちゃんをおすそ分けしてくれた。

小夏ちゃんはりんごみたいにナイフで皮を薄く剥いて、白い部分も一緒にスライスして、冷蔵庫でよく冷やすと美味しいんだとその友人は丁寧に教えてくれた。


デッキ作りで日が暮れたあと、教わったとおり冷蔵庫で冷やしておいた小夏ちゃんを、窓を開けた部屋でいただいた。初夏の日差しが嘘みたいに、ひんやりした森の空気が窓から入り込んでくる。

甘酸っぱくてみずみずしい小夏ちゃんが、作業で疲れたカラダにしみこんで感じる、ひと時のしあわせ。