7月7日今夜晴れるかな
一番不在の二番目。
名は体を現す。その存在感、私の名まえどおり。定位置って感じでいいかも♪誰かが言ってたように愛人体質なんだろうし。
一番出現なら名実ともに二番手。折り合い、つけられるかな。友だちでいられるかな。
私ね、友だちでいるつもり、ほんとは、いまのところ、ない。
折り合いをつけるつもりも、あまり、いまのところ、ない。
このままで、いいの。このままが、いいの。
初めから、「二番目」、決まった席を与えられたから、ずっとこの席がいいの。
三番目への降格はちょっといやな感じだけど、首席になりたいとは思わないの。
二番目で、気楽に、無責任に、いなくなっても誰も困らない場所で、きままにノラ猫のままで過ごしていたいの。そして飽きたら、勝手に出て行きたいの。そのうちに、いつのまにかいなくなっちゃったな、って気づいてくれたら、気づいてくれなくても、いいの。
それって友だちでいるってことじゃないよね。
折り合いをつけてるってことにもならないよね。
ただの、身勝手、って思ってる。
行くところもない。帰るところもない。
だからどこにも行くつもりはないし、誰のところへも帰らない。
ただ、ノラクラと暮らしています。暮らしていくの。
今夜は会えるといいね、ベガとアルタイル。一年に一度でも必ず決まった相手がいるのが一番の権利と義務と約束なら、私はやっぱり、横恋慕の二番手のままでかまわない。悪くない。私らしくない?
でも、ベガが私好みじゃなかったら、アルタイルまで嫌いになっちゃいそう。
だから、七夕の短冊にお願い事を書こうか。
織姫が素敵でかわいい女性でありますように。
七月、七日、七番目の年回り、七の数字が絡み合ってほどくのが楽しみ。嫌いじゃない、細かい作業§^。^§
車で行き帰り、結構聴いたっけ。
今日生まれなかったアタシ
今日はアタシの誕生予定日だった。今日生まれていたら、アタシの名前は「礼子(れいこ)」になるはずだった。
けれど、今日は生まれなかったので、アタシはアタシになった。何日かの前後で、人生って変わるかな。
変わることもあるかもね。遭遇しなくていい事故にあったり、たとえば竣工したての橋を渡るか渡らないかなんてことがあったり。
くだらない。
表現者でもないくせに、毎日書きなさんな、アタシ。って、しつこい。というか、なんだか気になって、つい使いたくなる。このことば。ごめん、なさい。
今日は雨降り。
少し肌寒い。
朝電車の中でたっぷり冷やされて、身体が冷たい。
毎日いろんなことがあるなあ。
思いもよらないこと、考えてもみなかったこと、急に言われたりしてびっくりする。ひとつひとつ、向き合うんだけど、次から次へと、跡を絶たない。
少し前、っていっても数ヶ月くらい前から感じてること。
今日は、午後から忙しくする予定だから、今のうちに飛び切りダレておく。
好意って、何?
アタシに好意を持ってくれている(いた?)らしい何人かの人たち、特に男、ちょっとしたつまらない愚痴とか、気分が沈んだりしたとき、話を聴いてくれて、やさしいこと言ったりしてくれて、アタシは悪くないんだ、みたいなこと言って励ましてだか慰めてだかしてくれる。
ありがとう、やさしいね、などと言えば、「友だちだから」と応える。
友だちって、何?
これはさ、アタシの個人的な関係の話で、一般論じゃないからね。
友だちだから、と言ってくれた人たち、特に男、アタシに別な好きな男がいると知ると、態度を変える。
音信が滞り、疎遠になる。
身を引いてくれって頼んだ覚えないのに。友だちだったんじゃなかったっけ?
俺様という友だちがいるくせにカレシつくりやがって、この女、って意味(どんな意味やねん)?
アタシはアンタの女か?お前の持ち物か?
好きな人いたっていいじゃん。急にさめたような態度しないでよ。こっちこそ興醒めだわ。
だったらさ、初めから「友だちだから」なんていわないでさ、「お前のこと女として関心があるから」って言ってくれたらよかったじゃん。そしたら、そういうつもりなんだ、ってアタシだって認識したかもしれないじゃん。
って、あとからは何とでもいえるね。
アタシは男の前では女でいなけりゃいけないのかな、やっぱり。
女として好きなわけじゃないって言われた人からですら、好きな人できちゃった、って言えば、じゃあもう一緒にいられない、みたいなこと言われたし。
なんだよ、どうすればいいんだよ。
アタシは人でいて友だち付き合いしちゃいけないの?
アタシはいつでもどこでも女でいて、女の役目を果たさないといけないわけ(なによ、女の役目って)?
アタシは誰かを好きになっちゃいけないのか?
アタシはみんなを好きでいてみんなにいい顔してるようにがんばらないといけないのか?
アタシはいつでもどこでも誰とでもどうにでもならなきゃいけないのか?
ひとりのひと、好きになっちゃいけないのか?
なんかめんどくさ。
くだらない。
そんな「友だち」なら、いらないや。
それか、そんな友だちなら、全員秘密で「カレシ」になってよ。
友だち同士の振りしてそれぞれ付き合えばいいんじゃん。
だったらいいんでしょ。それなら、付き合えるんでしょ、「友だち」として。
ばっかみたい。こんなこと書いて、ますますもって自縄自縛。
まあ、いいや。
どうせアタシは極悪非道略して極道。
こわいものなんて、虫以外ないもん。
殺されたって死なないもん♪
今日生まれてれば、もう少し、違う、アタシだったのかな。
そのほうが、よかったのかな・・・・・・。今更どうにもならない。
ぜ~んぶ、うそ。今はね。今は素敵な人たちに包まれてるもの♪
昔はほんとだったかも(^_^)v
デザインスキン
昨日からヘン。
これに変えたの?
前のデザインの方が好きだなあ、六本木。
昨日はタイトル文字がかぶってたけど今は重なってない。昨夜一度もとのデザインにもどったけど、今日はまたこれ。
もとのに戻して~お願い、お願い、お願いします~<m(__)m>
夏目漱石展(鎌倉文学館)
最終日、これで3度目の夏目漱石展at鎌倉文学館 へ行ってまいりました。
ポスターを駅で見た。4月の半ば。
千円札の図案にもなり、慣れ親しんだはずの夏目漱石のその写真なのに、ポスターというサイズのせいなのか、真っ直ぐな視線にとてもひきつけられた。
少し悲しそうで、でも、恐ろしいくらいの知性に満ち溢れているような、そのまなざし。
今まで、漱石を真剣に読んだことはなかったと思う。
いや、真剣には読んだのだろうけど、おそらく、真剣な理解をしなかったのだろうと思う。私はこれまで漱石のその知性に及ぶことができなかったのだろうと思う。
だからといって、今更その足元に僅かでも近づけたなどとおこがましい事を申し上げるつもりは毛頭ございません。
ただ、とても、ひきつけられた、ということ。今、ひきつけられてる、ということ。
原稿、手紙、愛用品、写真、さまざまなものが展示されていて、私の一般教養範囲内での漱石関連知識が、余りに矮小であったことを改めて少しく恥じてみる。
最初に訪れたときは全体をひととおり、平均な気持ちで見た。何故なら、二度三度来ようとそのとき決めていたから。その理由は、漱石への関心だけでなく、その建物自体にもとても魅力を感じていたから。そして、薔薇の咲く季節だったから。
またまた脱線as usual。
二度目では、主に書画関連と年譜に重点を置いてみた。漱石は本当に、文章のみならず、絵も字も素晴らしく魅力がある。写真でなく、実物のそれらの作品は圧倒的な魅力で迫ってくる。
三度目。この日は、原稿と手紙を熟読玩味した。最初に訪れたときにはなかった、活字に写したものが展示品のガラスケースの上に置かれていた。ありがたかった。原稿はともかく、手紙の原文は毛筆の達者な草書であるからして、ところどころしか判読できないというのが無知無学な者の悲しい現実。
この手紙の文章のまた、流麗なこと!
先輩へ、後輩へ、知人へ、友人へ、恩人へ、弟子へ、読者へと、相手により、調子はそれぞれ異なるものの、最初から最後まで読んでいてまったく飽きない。手紙好きで筆まめだったというから、それぞれの手紙に、それぞれに相応しい配慮をこめて、丁寧に自分の気持ちや思いをそこに綴ったのだろうと思われた。
時には激しく、時には熱く、時には落胆し、時には皮肉をこめ、様々な相手に送られたそれらの手紙は、読み物としても絶品だった。
原稿の数々。小説については加筆修正が少ない、きれいな原稿が多かった。脳内で次々繰り出される文章が手と指と筆を伝わって紙に移動しただけ、というような印象を受け、驚愕。一方、『文学論』の原稿は、ほとんど全ての行になにかしらの文字の書き込みがあり、後半は全て赤で書き直し。ここにまた、漱石の真摯な責任感と学者魂を見た気がして、驚嘆。
これでは、胃壁も「薄紙のように」なってしまうわけだわ・・・・・・。愛用してたという文机にも傷ひとつなかったし。煙草の焼け跡もなかった。すごい!まあいっか、主義の私には到底真似できない。
堪能しました。私はね。とてもよかった。素晴らしかった。
しかしながら、世の中には興味を持ってやってきても、それぞれの受け止め方、反応があって、おもしろいものでございます。
「ねぇ、ねぇ、これなんか、お笑い芸人みたい~。『あとからあとからでてきます』、だって~」
と音読した女子。お笑い芸人みたいか?どこが?今の日本語って、そういうものなの?
普段なら不快に感ずるところだったけど、なんだか、そんな気も凌駕するほど、私は満足していた。
よかったね。女子たち。私に一喝されないでさ。
あれ?一緒にきたはずの人がいない。私は集中して手紙やら原稿を読み込んでいたので、ついうっかりしてしまった。
特設展の出口に向かうと、連れはベンチに座って待っていた。
ひとりで勝手にみていて待たせたことに謝辞を述べ外に出ようとしたとき、これだけでおわり?もっと大々的なのかと思った、との感想を承った。そして、さらに、今度は遊びに行こうよ。夏目漱石もいいけどさ、なんか勉強してるみたいでさ・・・・・・。しばし絶句。
お笑い芸人。
勉強。
私には今日この場においてのそれらの感覚がわからない。
後進を励ます手紙のくだりに胸がジンとしても、お笑いとは感じない。
遊びに行くことが楽しむことだとしたら、私は今日も充分遊んだのだ。
「余のような変人」と自分を評していた漱石を今この年になって興味の対象とする私は矢張り変人か?
だから、お笑いや遊びと勉強の区別もつかないのか?でも、もし、そうならそれは、不肖わたくし、夏目漱石と同種の人間ということになり、類まれな栄誉であろう。とひとり快哉でも叫んでみるか。
件の同伴者は、その日以来音信を絶った(と思われる)。それまでのひと月くらい、毎日連絡をくれていたから。こちらからの呼びかけにも無反応。ふふ。なんだか、おかしい。でも、当然の帰結だしそれがその方のしかるべく、これが私にとってありがたいことなので、この希望的観測が外れていないことを祈念します。
話が逸れてきたので、ここで一句。
このあたりでやめておこうよ、文句垂れ。
字余り。
最後に、「漱石」の名を譲った朋友正岡子規の絶賛をお借りして、漱石先生の知性を勝手に称えます。
「如吾兄者千万年一人焉耳(吾兄の如きは千万年にして一人のみ)」
ルーブル美術館展
フランスかぶれで気紛れの私は急に思い立って横浜美術館 のルーブル美術館展に行ってまいりました。18日までやっているので、興味のある方は行くべし。
今回のお気に入りを1点挙げるとするなら、
「プシュケとアモル」
フランソワ・ジェラール
です。
おでこにキスしてるとこが素敵。
そういえば永ちゃんのアルバムジャケットもおでこにキッスだ。
私っておでこにチュッが好きってこと?まずい・・・・・・いい年して・・・・・・。
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泣かせてロジュマン?
ほんとうは、ここへは書きたくなかった(んじゃ書かなきゃええやん)んだけど、そうすると、ほかへはもっと書けないわけでして、迷走した挙句の果てに戻ってきたのはカタセテロジュマンin六本木。
カタセテロジュマン。って名まえ、気に入ってるんだ。
そもそもは「片瀬」、なんだけど、「勝たせて」、って、がんばってるみたいで。
がんばるのは、苦手だけど・・・・・・。
がんばれっていわれると、全然がんばれなくなる。
なんだか、泣きたい気分。
怒ったり、泣いたり、文句垂れたり、ほんと好き勝手してるよね、アタシって。
「あなたは共同生活のできない人だから」なあ~んて言われちゃうわけよね。お説ご尤も。
そうじゃなくて、そんなことはどうでもいいんだけど、
というか、どうでもいいか。
書かなきゃいけないことなんてないんだし、書きたいことも今日は今のところないみたいだし。
ひっかかってること、だけ、ここのゴミ捨て場に捨てて行くよ。
なんといっても、アタシの本質は文句垂れですから。
「君は表現者じゃないからわからないんだよ」
久々に衝撃だったわ、その言葉。
別に、何かを表現することを生業としたいなんて思ってない。
それなのにどうしてそういう例を引き合いに出すのかしら。
表現者じゃないから、わからない、か・・・・・・。
それじゃ誰をもってして表現者だって言ってるの?
ああ、そうか! それがわからないから、その他諸々のこともわからないってことね。
国民総作家時代だってのに、アタシはやっぱりそこからも排除されるってことか。
やっぱ、だめじゃん。人間失格じゃん。つまんないの。
なんかさ、喧嘩売ってんのかって言われたらどうしよ。
そういうつもりはないけど、思ったから、思ったこと書いただけ。
そういうつもりのないことが、人の心や思考を傷つけるんだよね。
どう、思われてもいいの。
アタシはアタシの言いたいこと言って、したいことして、笑われて、怒られて、バカにされて、
そして、いつ死んでも「しまった、あれ、まだやってなかった」なんてことのない日々を過ごすの。
生まれたときから目的地は死に決まってる。
生きてる間にしたいことしないで何のための人生。
というわけで、アタシとかかわる人は、迷惑なんかもね。
そして、アタシはとっても幸せにしてもらってる。
オアイニクサマでしたヽ(^。^)ノ
だから、あなたのお墓の前で泣くわ、絶対!!泣かせて!
あ、ナカセテロジュマンもええなあ!?
ふざけんなっつーの♪
あなたと夜と音楽とそして映画、夏!?
『YO-YO MA Plays Piazzolla』より『Libertango』
多少レジデンス化してきたようなきらいも否めず・・・・・・・。
ま、そもそも、とりとめもなく気ままなのが私の真骨頂であるからして、どうぞご寛容なお取り計らいのほどを・・・・・・。
にわとりが先か、たまごが先か。
と問われましたなら、いえ、映画が先か音楽が先かとお尋ねになられるのでしたら、間髪入れずお答えいたしましょう。
映画、です。
この映画は、好きな俳優、好きなロケーション、そして好きな音楽、と三拍子揃った一番好きとは言えないけれどかなり気に入っている映画です。三拍子揃っているのにベストでないその心は?
う~ん、ロケ地アルバム、みたいな感覚なのかなあ。ストーリーがいまいち私の性に合わないのかもしれまへん。一番好きな映画の話は、また改めてどこかで(忘れなければね。誰も期待してないだろうけど)。
映画の中で、『リベルタンゴ』が流れたとき、タンゴ→アルゼンチンタンゴ→バンドネオン→ミュゼット→パリ・・・と連想し、なんとなく好きだと感じた。
それから、数年経って、Parisへ行ったとき。
1区の小さなビストロ。テーブルに置かれた蝋燭の小さな赤い火でぼんやりうす暗い店内。私はチーズとピクルスを食べてワインを飲んでいた。何をするでもなく、ただ、ぼーっとしてた。
そのとき、繰り返し繰り返し、なぜだか何度もかかっていたのが、その曲。『リベルタンゴ』
しまいには、曲の初まりから終わりまでハミングで合わせてしまうくらい、しつこいほど、流れた。どこかで聴いたことある曲だなあ、と、ゆっくりと思い出すと、そう、あの映画、『フランティック』だった。
あの映画と同じようにパリの街でこの曲を聴くなんて、偶然あるいは必然か?
映画が公開された年は疾うの昔に過ぎてしまっていたし、たとえそのときが公開中であったとしても、あの場面であの程度使われただけの曲が、いくらあのAstor Piazzollaの名曲『Libertango』であろうとも今更流行する必要も理由もないように感じられて、矢張り、偶然だと思った。
けれど、慣れるということは楽であること、或いは好きという気持ちと似ている。事ほど左様にその曲はタンゴであったことも手伝ってすっかり私のお気に入りになった。
月日は流れて・・・
サントリーのウィスキー、「ローヤル12年」のCMで、その曲は日本中に流れた。
ヨーヨー・マは、クラシック以外の曲をよく演奏する。そのうちのタンゴとのかかわりのひとつがこのアルバム。
いやはやなんとも、これまた、慣れというものはものすごい効果で、毎日のように聴かされると、しかも部分的に断続的に聴かされていると、否応なしに全曲、他の曲も聴きたくなるのが人の心理というものだ(私の心理、の言い間違いですね)。
本来、バンドネオンで作られるべき世界が、ヨーヨー・マのあのしなやかな指裁きでチェロから繰り出される。これはこれで、すばらしいと思った。ほんとうに。他の人ではちょっと真似できないような、一種、配合禁忌のはずが、思わぬ効を奏して新薬発見、みたいな感じすらしたのは、ヨー・ヨー・マがパリ生まれ、パリ育ち(少年になるまでね)の、フレンチシノワだったからかしらと、勝手に思っている。
それにしても、こうして日々繰言を重ねて明日はもう、夏です。
連綿と続く時間に、便宜的に区切りをつけただけの「つごもり」であり「つきたち」だけど、いいの。
明日から7月だから、明日から夏、ということに私は決めた。
あなたと一緒に音楽を聴いたり、一緒に映画をみたり、一緒に夜を過ごしたり、そういうことが楽しい、夏に、明日からなるの。もちろん、ひとりでも充分音楽も映画も夜も楽しめるから、ほっといてくれてもそれはそれでご親切に感謝します♪
Les dames et messieurs!
今月もお世話になりました。来月もまた、よろしくお願いしま~す<m(__)m>
相変わらず、長い(*^▽^*)!
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/SR/RyotaKomatsu/sound/list1.html
リンク、2007.9.28改






