鎌倉古寺探訪 材木座方面
その3 補陀洛寺~光明寺~和賀江島
九品寺(くほんじ)を出て、海岸に向かって南下、
材木座バス停辺りを左折・・・補陀洛寺へ向かいます。
ここまで来ると真正面の遠方に海が見えます。 左折して(道なり)その先をすぐに左折、細い路地に入ると奥に「補陀洛寺(ふだらくじ)」があります。
<光明寺周辺地図>
門の前に「源頼朝公御祈願所」の石碑が立っています。
◉補陀洛寺・・・大きくはありませんが古刹らしい静かな佇まい。
■南向山補陀洛寺 =真言宗 大覚寺(だいかくじ)派=
門を入るとひっそりと本堂があります。鎌倉三十三観音17番札所のお寺です。
大覚寺派は古義真言宗に属します。
<本堂> 夏には本堂前の百日紅が見事・・・とか。
補陀洛寺は源頼朝が鎌倉に入った翌年の養和元年(1181)、頼朝の祈願所として建立されたと伝わります。開山は文覚上人。 ご本尊の十一面観音菩薩像の他、文覚上人裸形像や不動明王、薬師如来などがずらりと並んでいるのだとか。
今回は本堂に上がりませんでしたので、確認はできませんでしたが・・・
平宗盛が所持していたという「平家の赤旗」があることでも知られています。(4月末~5月末公開)
創建当初は七堂伽藍をもった壮大なお寺だったのですが、たびたび竜巻にあったため「竜巻寺」とも呼ばれているとか。
<開山の文覚上人裸形像>ネットよりお借りしました。
こちらは鎌倉成就院にある「文覚上人裸形像のレプリカ」。
成就院は江ノ電「極楽寺駅」にある紫陽花で著名なお寺で、補陀洛寺と同じく真言宗大覚寺派の寺院です。文覚上人裸形像は境内の庭に置かれています。
(紫陽花は、今は株数が減らされてしまっているとか)
◉文覚上人:
元々は京都の御所を護る渡辺党の北面の武士でしたが、絶世の美女といわれた従兄弟の渡辺渡の妻「袈裟御前」に横恋慕、誤って袈裟御前を殺害してしまい逃亡して出家、僧侶になりました。
その後那智で荒行を行い、何度も滝に打たれて、一度は「はかなくなりぬ」つまり死んでしまうのですが、不動明王の使い、矜迦羅童子(こんがらどうじ)、制叱迦童子(せいたかどうじ)に救われます。 (平家物語:文覚(学)荒行)
<文覚 矜迦羅童子・制叱迦童子>
また、京都高雄の神護寺再建を後白河法皇に願い出て伊豆配流になります。この件も平家物語に詳しい。
伊豆では、源義朝の髑髏(どくろ)を持ち出し頼朝に挙兵を促し、躊躇する頼朝のため京都御所に行き後白河法皇に直訴、頼朝の赦免と挙兵の院宣を入手して頼朝に渡しました。これで頼朝は挙兵を決意したといいます。
<近代美術館 文覚上人像> 荻原守衛作
◉補陀落(ふだらく)とは:観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山。インドの南端の海岸にあるとされ、補陀落山(ふだらくせん)とも称する。サンスクリット語(梵語)のポータラカ(Potalaka) の音訳です。
「補陀洛」のつく寺院は全国で26~27寺ほどもあるそうで、寺号だけではなく、山号・院号に補陀落のつくお寺も多い。
印象深いお寺としては、和歌山県那智に「補陀落山寺」というお寺があって、ここは多くの渡海上人たちが南海の海の果てにあるという浄土を目指し、「釘づけされた補陀落船」に乗って出発したところといういわれがあります。
<和歌山県那智 補陀落山寺>
<補陀落船>
平清盛の孫で、平家の貴公子・美貌の武士と言われた「平維盛(これもり)」は高野山で出家、熊野を参詣、那智の山に籠られ、その後小舟で那智の海に漕ぎ出て入水しました。那智の山は観音様のおられる補陀落山のように見えたとか。
補陀落・・・という言葉からはこの哀話と補陀落船を思い浮かべてしまいます。
和歌山の補陀落山寺はここから多くの僧が補陀落船で海へ出た・・・鎌倉補陀洛寺もここから多くの僧が海へ出たのかもしれませんね。
補陀洛寺からバス通りに戻り、光明寺へ・・・
■天照山蓮華院光明寺 =浄土宗=
●開創:寛元元年(1243)、北条執権第4代北条経時の帰依を受けた浄土宗三祖然阿良忠上人が開山したと伝わります。
その後も北条時頼をはじめ歴代執権の帰依を受け、七堂伽藍をもち関東における念仏道場の中心となりました。室町時代には祐祟上人が中興、明応4年(1495)には土御門天皇より「関東総本山」の称号を得、「勅願所」となっています。
江戸時代には徳川家康が当山を関東18壇林の筆頭に位置付けています。
鎌倉三十三観音霊場18番札所。
◉山門
雄大な山門です。
弘化4年(1847)に造営されました。
鎌倉の寺院の門としては最大の格式を供えた山門だそうです。
◉本堂(大殿)
当山五十一世詮譽白玄上人の代、元禄11年(1698)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏を祀っています。かつては開山上人像を安置して祖師堂と称していました。
ですが…現在は改修中・・・本堂には入れませんでした。
負け惜しみでいえば、こんな姿もなかなかみれるものではない。
これは以前撮った本堂(大殿)。国の重要文化財に指定されています。
<ご本尊> ご本尊は定印上生の阿弥陀如来(阿弥陀三尊)
●阿弥陀如来立像
来迎印上生の阿弥陀如来立像も奉安されていました。
●如意輪観世音
鎌倉三十三観音霊場18番札所の観音様です。
以前は(本堂では)、如意輪観音様の隣に宗祖法然上人像が並んで安置されていました。
ここまでの諸尊像は以前撮った写真(改修前の本堂での写真)です。
現在は本堂改修中のため、開山堂が仮本堂になっており、ご本尊や如意輪観音尊像は開山堂に安置されています。(拝観は開山堂へ)
◉開山堂
現在の開山堂内陣
ご本尊阿弥陀如来(阿弥陀三尊)をはじめ如意輪観音像など諸仏が移されていました。
●光明寺開山・良忠上人像
●弁財天
光明寺のホームページには
「弁財天はもと江ノ島弁天と伝えられています」とありますので以前は江ノ島にあったのでしょうか?
優雅に穏やかに琴を弾いている弁財天様とは違い、八臂で手に剣を持っています。
ご本尊阿弥陀三尊の観音菩薩の横に「善導大師像」が奉安されていました。
「中国念仏開祖」と書かれた札が立てられていました。
◉記主庭園
開山堂の裏手に「記主庭園」と言う庭園があります。
夏になると蓮池の蓮が開花、七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます・・・とのことです。
庭園の奥の優雅な建物は「大聖閣(たいしょうかく)」という建物です。
宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられたとのこと。
お堂の二階には阿弥陀三尊が安置されているとか。
開山堂の横、回廊の前に「善導大師像」があります。
◉善導大師:中国浄土教の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した。「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれる。
浄土宗では「浄土五祖」の第三祖とされ、浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ「善導大師」・「善導和尚」と尊称される。681年に逝去しているが、法然・親鸞に多大な影響を与えた僧とされます。
法然上人が「専修念仏」を提唱したのは、善導大師の「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からなのだそうです。
◉高倉健さんの墓碑
山門の手前に高倉健さんの墓碑があります。
高倉健さんは鎌倉北条氏最後の執権北条高時の末裔なのだそうで、北条義時以来北条氏の館があった地に建てられたという「宝戒寺」に毎年塔婆を寄進されていたとか。
東勝寺跡の「腹切り櫓」にも先祖供養のため塔婆を建てられたそうです・・・
生前から浄土宗に関わりを持たれており、「法然上人を称える会」の会員でもあったとか。
そうした縁からここ鎌倉の浄土宗の大寺「光明寺」に墓碑が建てられることになったのだそうです。
高倉健さんが亡くなったのは平成26年(2014)ですが、平成29年(2017)に墓碑が立てられました。
◈高倉健さんの遺骨はどこにある?
海に散骨されたとのことで、はっきりわかりません・・・・・・。
●ご参考:北条一族の腹切り櫓
元弘3年(1333)年、新田義貞ら朝廷軍に追い詰められ、遂に北条高時と家臣870名が東勝寺で自刃、鎌倉幕府は滅亡しました。
その東勝寺跡地裏にひっそりと佇むのが、自刃した家臣870余名の墓所と言われる「腹切やぐら」です。 高倉健さんはここにも塔婆を建てられた。
●ご参考:宝戒寺
毎年塔婆を寄進されたという鎌倉「宝戒寺」・・・北条氏の館があった地に建てられたお寺。
高倉健さんの墓碑を拝み、高倉健さんを偲びながら光明寺を後に材木座海岸へと向かいます。
材木座海岸の少し沖合にあるのが「和賀江島」です。
ちょっと霞んではいましたが、富士山が見えました。
こちらは逗子の方向
海の中、小さく船がみえているあたり・・・
ちょっと島みたいに見えている・・・あれが和賀江島ですね。
◉和賀江島(わかえじま):
相模湾東部に位置する人工島。和賀江嶋、和賀江の築島ともいう。
国の史跡に指定されています。(指定名称「和賀江嶋(わかえのしま)」)。
鎌倉時代の貞永元年(1232)に築かれました。
鎌倉時代、遠浅の海で難破する船が多かったため、住阿弥陀仏と言う勧進僧が願い出、北条泰時が許可し築造されたとか。江戸時代に崩壊し、現在は丸石が残っているだけです。
『歴史上はこれ以前に、日宋貿易の拠点であった大輪田泊(摂津国)に築かれた経が島の記録があるが、その後の地形変化により失われており、和賀江島は現存する築港遺跡として日本最古のものとなっている。(Wikipedia)』・・・なのだそうです。
現在では満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまうが、干潮時には岬の突端から西方に200メートルほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせる。かつては北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していた・・・とか。
この日はなんとか表面が見えていました。
岬の先、大潮で運がよけりゃこんな風に見えるそうです。(ネットから拝借しました)
この辺の崖はそそり立っていて結構怖い・・・
この先、海岸を岬の方へ少し行きますと「和賀江島の碑」があります。
石碑文『和賀とは 今の材木座の古名にして この地その昔筏木運搬の港たりしよりやがて今の名を負ふに至れるなり。和賀江島はその和賀の港口を扼(やく:保持)する築堤を言ひ 今を距(へだて)る694年の昔 貞永元年(1232)勧進聖人住阿弥陀仏が申請に任せ平盛綱 之を督(とく:督促)して7月15日起工 8月9日竣功せるものなり
大正13年3月建 鎌倉町青年団』 とあります。
そうか・・・それで「材木座」ね。
とか、なんとなく一人ごちた。
昔・・・その港とはどんなだったのだろう??
イメージ図がありました。
(ネットからお借りしました)
Um・・・なんとなく感じが分かりますね。
ということで、ここからバスで逗子に行き、軽く飲んで帰りました。
ここからのバスの旅・・・結構時間がかかって20分程度?かな?
切り通しを抜けて行くような、なかなか味のある道を通って行きました。
これで鎌倉古寺巡拝・・・材木座方面編は完結です。
最後までご覧いただき
かたじけなく。感謝でござります。