鎌倉探訪 鎌倉駅~材木座古寺巡拝 その2 妙本寺~元八幡宮~九品寺 | jinjinのブログ

jinjinのブログ

大江戸を中心に、あちこちの古寺社・史跡の探訪を記事にしています。

 

 

鎌倉古寺探訪 材木座方面

その2 妙本寺~元八幡宮~九品寺

 

 

3年ぶりの鎌倉探訪(散歩)、鎌倉駅~材木座光明寺~和賀江島(わかえじま)までのレポートです。

◉その1:鎌倉駅~大巧寺~本覚寺 までを歩きました。

◉その2:比企谷妙本寺~元八幡(由比若宮)~九品寺 までのレポートです。

 

<妙本寺~元八幡マップ>

 

 

■妙本寺 =日蓮宗=

鎌倉幕府の有力御家人で頼朝の外戚でもあった比企一族の屋敷跡に比企能員(よしかず)の子・能本(よしもと)が建立したと伝わります。

「比企の変」で比企能員は北条時政に滅ぼされますが、まだ幼子で京都にいた能本は助命され、承久の乱後には後鳥羽上皇に同行して佐渡ヶ島に渡っています。

 

後、四代将軍となった藤原頼経の御台所になった姪の竹御前の計らいで鎌倉に戻り、竹御前の死後その菩提を弔うため比企一族の屋敷跡に法華堂を建てたという。これが妙本寺の前身となったとのことです。

妙本寺境内に比企一族の墓があり。また源頼家の子・一幡(いちまん)の袖塚があります。

 

 

比企能本は命をかけて辻説法をしている日蓮聖人に出会い、一族の菩提を弔ってくれるのはこの聖人しかいないと、この地を日蓮聖人に寄進したともいいます。

 

◉比企一族とは・・・

詳しくは判っていないようですが、京都の官人・比企掃部允(ひきかもんのじょう)が祖であるらしい。その妻が比企尼で、頼朝の乳母となりました。比企掃部允は藤原秀郷の末裔と称していたようです。

平治の乱(1160)で源義朝が平家に敗れ、頼朝が伊豆に配流になると掃部允と比企尼も武蔵国比企郡に下向、武蔵から伊豆の頼朝に物資を送り、20年にわたって頼朝を援助しました。

比企氏の武蔵下向は簡単にできることではないわけで、平清盛の指図だったという説もあるようです。

                            (ネットから拝借)

 

頼朝は鎌倉に御所を構えると比企氏を鎌倉に呼び寄せ屋敷を与えました。

比企氏は源氏に近く極めて有力な御家人でしたが、関東の武士達からみれば、比企氏は京都から来て藤原氏の末裔を名乗った余所者、とりわけ「畠山重忠」の所領は比企氏の領地と隣り合わせであったため常に緊張があったようです。

 

◉比企氏と頼家との関係および「比企の変」

比企尼は頼朝の乳母でした。孫の「若狹局」は頼家の妻となり、一子「一幡(いちまん)」をもうけました。掃部允の孫娘「姫の前」は北条義時と結婚しています。

比企能員は頼家の乳母父であり、頼朝死後、将軍頼家の実子・一幡を抑えている比企氏は北条氏・関東武士らにとっては目障りな存在であったのだと思います。

そして必然として勃発したのが「比企の変」でした。

 

                    (ネットから拝借)

 

 

◉比企の変:

頼家が病気になり重篤になると、早速頼家の後継問題が起こり、一幡派の比企氏と千幡(実朝)派の北条氏の確執は決定的なものとなりました。「政子の立ち聞き事件」などの逸話(比企氏派の時政暗殺の密談を立ち聞きした政子が時政に報告した)も残されています。

 

そこで北条時政は口実をつけて比企能員をおびき出して謀殺、間髪を入れず比企氏の「小御所」を襲撃、比企一族は比企谷に籠って戦いましたが敗北、屋敷に火を放って滅亡しました。 

頼家の室・若狹の局は井戸に身を投げ、また政子の孫でもある一幡も6歳で焼死したと伝わっています。

この時には北条氏に味方した畠山重忠も後に北条時政と対立を深め、俗にいう畠山重忠の乱で元久2年(1205)、討ち死にしています。

 

◉妙本寺総門

 

 

現存する総門は、大正12年の関東大震災で倒壊しましたが、大正14年に再建されたものといいます。 総門の横に「比企能員邸址」の石碑がたっています。

 

 

<碑文>

『能員は頼朝の乳母(うば)比企禅尼の養子なるが 禅尼と共に此の地に住せり 此の地比企が谷(やつ)の名あるも之に基づく  能員の女(むすめ) 頼家の寵(ちょう)を受け若狭局(わかさのつぼね)と称し  子一幡(いちまん)を生む 建仁三年(1203)頼 家疾(病)むや母政子関西の地頭(じとう:庄官)職を分ちて 頼家の弟千幡(せんまん)に授けんとす 能員之を憤り蜜(ひそか) に北条氏を除かんと謀(はか)る  謀泄(漏)れて 郤(反)つて北条氏の為一族此の地に於て滅さる』 ・・・ 比企氏滅亡の経緯が記されています。

 

総門を入り左手奥にある社「蛇苦止堂」を参拝しました。

 

 

 

◉蛇苦止堂(じゃくしどう)・・・ 妙本寺HPより

「蛇苦止堂」は妙本寺の守り神(鎮守)蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)を祀るお堂です。

比企能員の娘、讃岐局(若狹局)は2代将軍 頼家公の側室となり、一幡(いちまん)之君を授かり、将軍家の外戚関係になりましたが、北条一族は比企一族を最大のライバルとして敵視、建仁3年9月2日、一族郎党は北条家の手にかかって討ち滅ぼされました。讃岐局は池(一説には井戸)に身を投げ、一幡之君もまた六歳の幼さをもって焼死しました。

乱の50年後、北条政村の娘が座敷をのたうち回り苦しみ、「わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。

讃岐局の弟にあたる比企能本は日蓮聖人に救いを求め、日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏せしめ、蛇苦止明神と名付けて祀りました。」

 

 

蛇苦止堂の前に、若狹の局が一族の宝物を抱いて井戸に飛び込み自害したと伝わる「蛇苦止の井戸」があります。

 

 

◉二天門

杉木立の参道を抜けて石段を登ると二天門があります。

天保11年(1840)の建築で、龍の彫刻が彩やかで見事です。

持国天と多聞天の二天が安置されています。

 

 

 

 

 

◉祖師堂

二天門をくぐると広い中庭。

正面奥に雄大な祖師堂があります。天保年間に建立されたお堂で、鎌倉では最大規模のお堂だとか。 日蓮宗祖「日蓮聖人」を祀る御堂です。

 

比企谷(ひきがやつ)は頼朝が比企氏を招いて住まわせたところですが、尼寺伝によれば、政子が懐妊すると頼朝は政子を比企尼のところに送り、ここで頼家が生まれたとのこと。

 

 

◉比企一族供養塔(ひきいちぞくのはか)

祖師堂に向かって右手に古いお墓が並んでいます。

中に比企一族の供養塔があります。

 

 

 

<比企能員の供養塔(向かって左)>

 

◉蛇苦止供養塔(墓)

北条氏への恨みを抱いたまま井戸に身を投げ、永年成仏できずに苦しんだ「若狹の局」の供養塔です。小さい供養塔ですが、ちょっと小高い処にありました。

 

 

◉一幡之君袖塚

将軍の子に生まれながらわずか6歳で焼死したと伝わる「一幡之君」の袖塚です。

焼けた館の跡に残された一幡之君の小袖を供養するため袖塚が建てられたと言います。

 

 

頼朝はともかく、第2代頼家は、後将軍の座を追われて横死、実朝は甥の公暁に暗殺され、公暁もまた北条義時らの手によって斬殺されました。

 

「一幡之君」は比企の変(乱)でわずか6歳で焼死・・・『平家物語』は涙を誘う歴史でありますが、源家頼朝一族も「物語」というならば実に哀しい歴史ではありますね。(頼家もいろいろあったにせよ享年わずかに23・・・)

この袖塚を拝んでいるとそんな思いが湧いてきます。そして、幼年で二位の尼に抱かれて壇ノ浦に沈んだ安徳天皇を連想してしまいます・・・

 

◉日蓮上人像

中庭に日蓮上人の銅像があります。

 

 

◉本堂 ・・・ こちらが妙本寺の本堂です。

 

 

総門の横にこんな一風変わった建物があります。

一見なにかの御堂? と思いますが、幼稚園舎です。

 

 

 

妙本寺を後に本覚寺山門前まで戻り、小町大路を南へ、海岸の方へと歩きます。

大町の四つ角を過ぎ、横須賀線のガードを潜り「元八幡宮」へ。

 

 

■由比若宮(元八幡)

源頼義が奥羽(東北)で前九年の役の戦に勝利し、京に帰る途中、康平6年(1063)に鎌倉に立ち寄り、この地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移し祀ったといわれています。

その後、源頼朝が現在の鶴岡八幡宮がある場所に社殿を移してから、ここは元八幡と呼ばれるようになりました。

ここが元祖「鶴岡八幡宮」です。

場所もわかりにくく、狭い路地の奥にひっそり建つ小さなお社です。

 

かつて鎌倉の海岸線は一の鳥居のあたりまで迫っていたといいます。この由比若宮の前あたりまでが砂浜とか海岸線だったのでしょうか。

 

 

元八幡宮から小町大路に戻り、九品寺へと向かいます。

 

 

 

■九品寺(くほんじ)  =浄土宗=

1333年(元弘3)新田義貞が鎌倉攻めをした時本陣をかまえた場所で、義貞が北条方の戦死者の霊を慰めるため1337年(延元2)に建立したといわれます。山門と本堂に掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、義貞の筆の写しと伝えられ、直筆と伝えられる額は本堂に保存されているとか。

開山には風航順西(ふうこうじゅんさい)を京都から招き、山号は内裏山(だいりさん)と号されました。

鎌倉三十三観音霊場十六番札所です。

 

 

<新田義貞の筆の写しという扁額>

 

 

<本堂>

 

 

◉九品とは

寺名の「九品(くほん)」とは・・・

極楽往生する時の9つの階級(上品・中品・下品をさらにそれぞれ上生・中生・下生に分けた9段階の区分)を表しているのだそうです。

私たちが普段使う上品、下品という言葉は、読み方は違いますが実はこの九品に由来しているということです。

 

これは『観無寿経』に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想として、極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から順に9通りの段階があるとされることに由来するとか。

「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至ります。

 

◉上品(じょうほん)・中品(ちゅうほん)・下品(げほん)とは阿弥陀如来の結ぶ手の形。印相。

◈上品:阿弥陀定印といわれる印相。 お腹の辺りで手を組んだ形

◈中品:説法印といわれる印相。 両手を広げて説法されているように見えます

◈下品:来迎院といわれる印相。 左手を下げ手のひらを上に・・・正に手を差し伸べていただいている感じ。

 

上生・中生・下生は親指と丸く輪を作る指で表現されます。

人差し指・・・上生   中指・・・中生   薬指・・・下生

 

 

 

ご参考までに・・・東京都世田谷区の浄真寺(九品仏)の阿弥陀様です(上生)の阿弥陀様3相

 

<上品上生の阿弥陀様・・・阿弥陀定印>

 

<中品上生の阿弥陀様・・・説法印>

 

<下品上生の阿弥陀様・・・来迎印>

 

九品寺ご本尊は来迎印の阿弥陀如来立像・・・阿弥陀三尊です。

 

 

 

次回・・・

補陀洛寺~光明寺~和賀江島(遠望)のレポートで完結です。

 

ご覧いただきかたじけなしでござります

続くでござる