拝啓、宮沢賢治様
小生の営みます自営業屋号は「銀河鉄道」でありますこれは999のものでも宮沢賢治さん書著のものでもなく国鉄上野駅に勤務し夜汽車を見送り時折その夜汽車に乗って旅をすることが楽しみでありましたそして「死者の為の汽車」ではなく「今生きている人間の為の汽車」を転がす事を夢見てそんな有触れた屋号にしたものですとはいえ事業開始は平成09年09月09日なのですが・・・時折ですがネット上のニュースサイトに関連した鉄道関係の記事を読む事を楽しみとしておりますレールマガジンを発行するネコパブリッシングの鉄道ホビダス古くは国鉄教習所の教本を作っていた交友社の鉄道ファンサイト朝日新聞などではかなり本格的に独立サイトを作っておられまして鉄道企画屋と豪語する割に知識の浅い小生には大変助かるものでありますそんな中にマイナビニュースの「鉄道トリビア」がございますまぁ「いや、それ違うんだけどなぁ・・・ま・・・良いか」と言う記載がございますがこの記事に関しては黙殺出来ないものがございましてまぁ抗議なんて偉そうに致しますものでもございませんが前回の記事でこれまた偉そうに「虚偽の暴力」とか書きました手前どうしても・・・ささやかに自身のブログで遠吠えしてみます我が国で「鉄道」が認識されたのは嘉永六年七月十八日(1853年08月21日)ロシア帝国極東艦隊「パルラダ」(蒸気外輪フリゲート級艦)を旗艦とした4隻を率いて海軍中将エウフエミイ・ヴァシリエヴッィチ・プチャーチン(Jevfimij Vasil'jevich Putjatin・全権大使兼任)が日露和親条約の批准を申し入れに長崎に来航した際に持ってきた「蒸気車」模型で幕臣・川路左衛門大尉聖謨の記録によるとこの「蒸気車」模型は1Aタンク式・全長200mm程度・アルコールボイラーによる動力で運転室覆いは無く士官室円卓の上に仮設された軌道の上を走ったとされております「日本国内で最初の鉄道模型運転」ですが更に同様これをに見学した佐賀藩精錬方・中村奇輔が佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)に申出てこの模型を模造致します翌年に完成するこの蒸気車模型は「最初の国産鉄道模型車両」と言えますしこのスタッフの中に居た田中儀右衛門が維新後に東京芝浦で「電信機製造」の商売を始めこれが今日の東芝となっているものでしてま東芝も電気機関車を始め鉄道車両を今も作り続けておりましてこれこそ「元祖」とも言えそうですさてこれより前の天保から弘化の頃(1842~1845年頃)に「汽車」にそれも模型や展示では無くいわゆる「本線営業運転の列車」に乗っている日本人がおりますがこちらは米国の路線です「日本人最初の鉄道旅客」として土佐・中浜村出身の漁師で後の徳川家直参旗本・中浜万次郎は間違いは無いのですが・・・(ちなみに中浜が御直参と相成候は長崎で中村奇輔達が模型を見た同年)さてこのアルコールボイラーによる蒸気模型ですが昭和三十年代まで欧米を中心に世界的玩具としてポピュラーな存在していたそうです日本人が日本国内で「蒸気車」に乗車した最初は嘉永七年三月二十六日(1854年02月28日)場所は武蔵国横浜村の海岸で林大学頭門下・河田八之助興が機関車次位の客車の屋根に跨がって乗車した事が「ペリー提督日本遠征記」などに記載されております前年(嘉永6年6月3日=新暦1853年7月8日)アメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore 1800年01月07日~1874年03月08日、大統領在任期間は1850年07月09日~1853年03月04日)の条約締結要求親書を持ってアメリカ海軍東インド艦隊「ミシシッピ」(Mississippi・1700t・蒸気外輪フリゲート級艦)を旗艦をした4隻サスケハナ(Susquehanna・3500t・蒸気外輪式フリゲート級艦、後に旗艦)プリマス(Plymouth・2500t・帆式艦)サラトガ(Saratoga・900t・帆式艦))を率いて来た東インド艦隊司令長官兼全権大使マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)が条約締結要求の返答を確認する為に二月二十一日(新暦3月19日)に相模国浦賀沖に蒸気外輪艦3・帆式艦6の9隻で再来日しておりましてこの間この「ぺるり」さんのボスも前年にフィルモア(共和党)からピアーズ(民主党)に大統領は変わっておりまして最初は大砲を構えて脅しの姿勢と言うよりは「東洋の首狩族」への恐怖心からそうなったものでもありましょうが(※実際に東洋の蛮族ぶりを見せた外国民間船攻撃事件があったもので・・・)この二度目の来航では多様な「西洋技術」を紹介する献上品がまぁまぁ搭載されていたそうでしてその中に蒸気機関車と貨車・客車の模型(縮尺4分の1)がございましたこの日横浜村の海岸に軌道を仮設ししまして幕府接応役・林大学頭をはじめとした御役人方や一般市民の見物人が見守る中「運転展示」されておりますこの模型は軌間550mm2Bテンダー式機関車2424mmボギー台車式客車3485mmの2両と大形のもので記録によると「義経」の様なカウキャッチャー付米国型機関車の運転室部分だけは覆いの無い「小型乗用模型=ミニSL」だった様子です(NOBRISWORKS1853との文字が煙室扉円盤状ハンドル部に描かれているのを記録したものもある)※ノブリス?で他に蒸気船模型製造との情報もありますが詳細どなた御存知でしたら・・・乱暴に言えばこの河田さん・・・日本最初の国内鉄道旅客第一号で少なくても日本初のミニSL旅客第一号と言えますこの鉄道模型は五月二十三日(新暦6月17日)本城(江戸城)で将軍に披露されてもおりまして伊豆国韮山代官・江川太郎左衛門英龍が組立・運転をしその後御浜御殿(現・東京都港区浜離宮=海軍本営)に移され保管していたのですが後年に火災で消失しているとか・・・慶応元年四月十二日(1865年03月17日)肥前唐津材木町年寄平松儀右衛門一行が長崎・大浦海岸通に仮設された「模型」ではなく「軽便鉄道」を目撃したと自身「道中日記」に記載しております一部にはこの日から「運転開始」とするものがありますがこの「平松日記」の文面では「異国人5~6、帯刀した役人2~3名が(客車に)乗車している」としているもので敷設途上だったものか試運転状態だったものか不明です英国で発行されたこの年07月22日付「レールウェイタイムス」でもわずかですが長崎での展示運転を報じているのだそうで・・・これはトーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838年6月6日~1911年12月16日)が親会社のジャーディン・マセソン商会(中国広州本社)を通じて上海の博覧会で使われていた蒸気機関車「アイアン・デューク公爵」号と客車2両で軌間は762ミリ炭水車付2A1機関車には運転室屋根はなく客車は単軸だったとか軌道の敷設距離は300~600メートルと記載により開きがございます※客車3両の記載がありますが、これは炭水車を機関車ことは別のものとした解釈から来た誤認ただ石炭は高島で産出した石炭を使用していた記載がチラホラございましてグラバーさん御自身が高島炭鉱に関与している事からグラバー商会の広告イベントだったと言えますこのデモ運転を「日本最初の鉄道」とするのはかなり乱暴です言わば遊園地のアトラクション的企画ですから「輸送」は行っていないとも解釈出来ますがその距離が500メートル級ならばデモ運転としても「輸送」と言える距離感として今日も通用します「日本最初の軽便鉄道車両の運転展示」としてならま間違いございませんががそうと片付けられないのは・・・・・・・・・・・・このアイアンデューク号ですがその後大阪・安治川口の外国人居留地付近武蔵横浜の某所でも公開されておりまして・・・加えて明治二年八月十五日(1869年09月20日)直前まで北蝦島政府(徳川家臣団)と政府軍との戦闘があった蝦夷地改め北海道の後志・茅沼炭鉱でその「箱館戦争」により中断されていた産出炭輸送軌道(軌間720ミリ・人力及び牛力・延長4キロ)の使用がほぼ開始されておりますしその前慶応三年十二月二十三日(1867年01月17日)には徳川家老中・小笠原壱岐守長行(肥前国唐津藩主・6万石)の署名で米国公使館書記官アルセ・ポルトメン(Anton Portman=アントン・ポートマン)に江戸から横浜村までの鉄道敷設と営業に関する免許が交付されておりしかも「鉄道敷設規則書」今日の「建設仕様書」とも言うべきものが付則しておりました(国立公文書館ネット公開済)明治2年2月29日(新暦1869年4月10日)に「徳川家の免許は新政府が交付したものに非ず、よって無効」と新政府は拒絶しておりますが何ですか日本史の教科書や鉄道関係の書籍によりますと明治二年十一月十日(1869年12月12日)東西両京を結ぶ鉄道建設の廟議決定明治五年九月十二日(1872年10月14日)陛下御臨席による鉄道開業式典挙行し新橋~横浜間鉄道開業(この列車は2号機牽引+客車9両の特別編成)から始まるとされている日本の鉄道ですがそれに至るまでもこんな面白い事件が重なっていたものですし加えて明治四年には品川~神奈川間付近明治五年春には品川~横浜間仮開業と言う事実やこの「陛下御臨席での式典」以前に横浜発品川行でしたが天皇陛下御座乗列車がしかも夜間に運転されているのです(七月十二日18時発品川行便)むしろこの「九月十二日」は通常営業を全部停止して「式典」をしているほどでこうなると「日本の鉄道の最初って何時よ」現状では明治五年五月七日(1872年06月12日)品川~横浜間仮開業となりますさて本題の小生の黙認出来ない事由ですがこのマイナビの記事は「宮沢賢治が描いたこの列車の機関車は蒸気機関車ではない」としたものであります当該記事では「アルコオルラムプで走る汽車の模型」記載が作品(銀河鉄道の夜)にあることから「アルコールによるディーゼル機関車か電気機関車を描いたのだろう」けれども「挿絵作家や編集者の不勉強からか殆どが蒸気機関車としてイメージされている」と批判じみた閉め方をされております宮沢賢治さんは昭和08(1933)年09月21日に37歳で亡くなりました「銀河鉄道の夜」は死後となる昭和09(1934)年に初めて活字として世に出ます有名な「雨ニモ負ケズ・・・」は昭和07(1932)年11月03日に書かれた「日記」の一文で単に「そんな優しい人間になりなさい」と他人を諭したものなどでは無くこの朝に吐血(肺炎だった)して横臥した原作者が病身の自身を嘆き苦しんで書き綴ったと解釈すべきと推察致しますその中で他の作品と共に推敲されていたとされる「銀河鉄道の夜」ですが地元を中心として「この作品の舞台は岩手軽便鉄道(現・東日本旅客鉄道釜石線西部)」として盛り上がっておりますが「天上行銀河鉄道列車」を考えますと何処までも夜の中を遠く天上まで続く汽車・・・のイメージから東北本線の夜行列車を想定した方が自然でしょう実際に原作者は幾度も上野と郷里・花巻を東北本線で往復しております更に当時の岩手軽便鉄道は花巻~仙人峠間65.4キロ下り列車が四時間余の旅で終点の仙人峠では大橋に向かうケーブルカーがあり大橋では釜石鉱山鉄道陸中大橋駅に連絡していたそうでありますさて問題は「アルコオルラムプ」の汽車ですが・・・作品中でもこの「列車」が石炭燃焼では無いとする記載や「アルコオルラムプ」で走る汽車模型の記載がございます先述しました通り日本最初の汽車模型は「アルコオルラムプ」つまりアルコール燃焼式蒸気沸騰型蒸気機関車だったものでその模型もその後まぁまぁ作られ売られしておりますあくまで空想の中のお話ではございますが原作者が「アルコール燃焼汽車模型」に「夢の列車」を牽引させても不思議はございませんでしょう他方石炭動力以外の機関車はどうだったのでしょうか・・・昭和02(1927)年に鉄道省は「蓄電池機関車」を2両製造致しますAB10形式蓄電池機関車と申しますが東京市王子区にありました陸軍弾薬工場を沿線に含む須賀~王子~下十条間貨物線に使われるものとして作られこの区間が昭和07(1932)年に電化されEB10形式直流電気機関車に改造されるまで「国鉄唯一のバッテリー機関車」でありました形は凸型の電気機関車そのものでした(東京都府中市郷土の森公園にEB101機が保存されている)昭和07(1932)年には4気筒50psのディーゼルエンジンを搭載した国鉄最初のディーゼル機関車DB10形式内燃機関車が8両製造されております昭和05(1930)年10月01日には東京~神戸間に超特急第11/12列車「燕」が運行開始しこの頃の鉄道は「新時代の到来」を予感させる・・・いやその様に広報していると言った方が適切な・・・そんな風でありまして今日とことなりそれらの鉄道ニュースは鉄道趣味者に向けたものと言うよりは株式・工業・建設業界では重要な「直益情報」で最先端産業技術のニュースだったりも致しました一方で昭和07(1932)年05月15日には内閣総理大臣・犬飼毅と警護の警視庁警察官1名が過激思想の軍人・民間人により射殺されると言う「5・15事件」が発生し世相はだんだんと薄暗くなって行く頃でもございますそんな中で「政治的に意図して」それら新技術が喧伝されたと見ても不思議ではありませんそんな中で青年の頃から病弱で兵役検査にも落ちた原作者が「我が使命」に苦しみもがいた心情はその「十一月三日」からも推察出来ようものですこの時代の日本男児は「兵役に行って一人前」(昭和ヒトケタ世代の実父・叔父等証言)とまで言われ言わば「一人前の男」から落選した原作者のトラウマは一方で農村文化運動や文芸一方で宗教と少なからず影響を与えていると推察致します本題に戻りましてこの頃小規模ながら海外では圧搾空気や石油燃焼の「蒸気機関車」が誕生しております米国では後に「蒸気機関車」=「石油専燃」が法制化されるほどでところがその外観はほぼ「石炭燃焼蒸気機関車」と同じでございました原作者がそこまで意識していたのかは全くの疑問ですが昭和08年当時東北本線は東京~赤羽間が電化され原作者の死去直前の09月01日にようやく大宮まで電化されておりますまたこの頃先程の「岩手軽便鉄道」が「花巻電気軌道」と軌道を接しており車両機材の貸し借りもあったとされまして原作者の自然な環境的意識に於いて「電気動力=市内電車か路面電車」とのイメージが潜在していた時代と言う事も失念出来ませんとなりますと燃料はアルコールか石油かはたまた蓄電池か空想の中の「未知なる電気やうなもの」であるのか取り敢えずそれを明示しました場合「石炭燃焼蒸気機関車に近似したスタイルの機関車」であると考えて不思議もございませんむしろマイナビ記事にある「アルコールのディーゼル機関」こそ時代から推察すれば「全く想定もし得ないもの」であります一説には「銀河鉄道の夜」は盂蘭盆時期を舞台としているとされる方もいらっしゃいます親友や妹を亡くし自身の死期も感じつつある原作者が「冥土の旅」にそんな夜汽車を想いましたことはむしろ自然であります昭和63(1988)年02月06日衆議院予算委員会の席上で日本共産党・正森成二委員につい応戦してしまった浜田幸一予算委員長「宮沢賢治君が人を殺したと言っただけ・・・」いやいや言葉の取り違えの中で起こったハプニングとはいえ霊山の原作者もさぞかし驚かれた事でしょう今日残念なことにそんな「天上に通ずる長距離夜行列車」の風情を持った列車はこの日本には皆無であります拝啓宮沢賢治様貴方が御乗車になりたかった汽車はこの世にはもうございませんしかしそんな風情が感じられる夜汽車の乗客として夜明の空色が変ずるあの美しい様を硬い向かい合わせ座席から眺めた時むしろ「もっと生きよう」と感じると小生は確信しております小生の銀河鉄道は「死地に向かう汽車」ではなく「これから生きる人のための汽車」を目指して参ります小生冥土に参ります際にはどうぞその切符を一つ販売方宜しくお願い申し上げます敬具