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個性と才能の差
こういう声もあります。
「私の友人には、スポーツや勉強ができる人など、個性的な人がいます。でも自分には、これといった取り柄もなく、自分が本当につまらない人間だと思ってしまいます。個性には才能が必要なのでしょうか」と
ただ、個性と才能は別問題です。
個性は一生のものであり、人格や生き方も含めた「全人間的」なもんです。
人生と社会の荒波と戦うなかで磨かれていくもんです。
自分らしく貫いていく生き方のなかに、個性は光、強まっていく。
スポーツがよくできる人や、勉強がよくできる人は華やかでしょう。
地道に努力していても、大きな結果が出ていない人は、たしかに華やかさはないでしょう。
しかし「努力を続けている」そのなかに、じつは、立派な個性が光っている。
本当の個性とは、表面に現れた現象ではない。
そんなものは、薄っぺらなマスコミ的なものでしかない。
よき個性とは、つまるところ「人格」です。
自分中心ではなく「世のため、人のため」に行動できる「全体人間」こそ、本当の「個性的な人」なんです。
「個性的」というと「変わった人」「目立つ人」というニュアンスがあります。
また流行に乗っている人というか「芸能人」などを思い浮かべるという声もありました。
それらは、個性のごく表面的なものにすぎない。
個性とは「人と違うことをやろう」というような浅いもんではない。
そんな虚栄を捨てて、自分が精一杯、何か価値あることをしようと打ち込んで生きた結果、光ってくるもんです。
ゲーテは
「ただただ、どうすれば自分を著名にできるか、どうすれば世間をあっといわせることに大成功するか、ということだけを狙っている。こういう間違った努力が、いたるところに見られる」
「全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見当たらない」と言っている。(エッカーマン「ゲーテとの対話」)
「見た目」とか「人気」とか「流行」とか、それらに踊らされている人は、本当のしっかりした自分をもっていない。
本当の個性をもっていない人です。
そういう虚像は、中身のない個性、ニセの個性です。
芸能関係者が言っていた。
「大女優と言われながら、他人を人間扱いしない人もいます。華やかに振る舞う大スターでも、自分の結婚式に呼ぶ友人が一人もいないという人さえいるんです」と。
実像が大事です、見た目の「個性」でなく、中身の「個性」で勝負すべきです。
こういう意見もありました。
「マスコミは女子高生というと、茶髪で、ブランド商品のセーターを着て、携帯もって……みたいに決めつけていて、本当にいやです。マスコミに踊らされている感じがします。」
本当に言うとおり、商業主義のマスコミの影響が大きい。
流行も「つくられる」という側面がある。
だから、流行りの服、はやりものを身につけていても、かえってそれは個性的じゃないかもしれない。
まあ、服装などは個人の趣味であり、本来、自由です。
女性が美しくなりたいと思うのも当然であり、自然なことでしょう。
ただ、今の皆さんは、そんなに化粧をしなくたって、きれいな服で飾りたてなくたって、美しく輝いているんです。
ロシアのモスクワ児童音楽劇場の母、ナターリヤ・サーツさんが、通訳の女性に言っていたそうです。
一緒にデパートの宝石売り場に行った時のことです。
「あなたは、まだ若いから、あんな高いもので飾り立てなくても、そのままで美しいのよ。若さがね。でも、私は、もう若さという美はないから、その分、美しい物で飾ることがとても大事な年齢なの」と。
(私が見つけた「青い鳥」の訳者あとがき)
本当の個性は、表面的な格好などではない。内からにじみ出て来るもんです。
個性的ってどんな人
今回のテーマは個性です。
個性的というと「人と違った格好が堂々とできる人」「面白い人。人と違うことをする人」
「周りの人の意見に流されないで、自分らしさを知っている人」
「個性とは外見ではなく、その人の生命からにじみ出てくるもの」
人それぞれですが、だれもが「個性的」ということは良いことだと考えていると思います。
その一方で「個性的だといじめられる」という傾向性もあるようです。
矛盾しているようですが、みんなと同じ格好をして、みんなと同じ物を持っていないと「あいつは違う、変だ」とか言われる。だから、自分の個性を表に出すのを恐れてしまう。こういう現実があるようです。
ある人が言っていた。
「個性とは、この世界で、その人しかもっていない宝の一品である」
まったく同じ顔の人はいないように、人それぞれ個性が違う。
自分にしかない宝をもっている。自分にしかできない使命をもっている。
鳥には鳥の個性があり、犬には犬の個性があり、ライオンにはライオンの個性がある。
同じように、それぞれの人に、それぞれの性格があり、それぞれの個性がある。
個性があるから人格はできる。個性があるから、その人でなくてはならない生き方があり、人生があり、使命がある。
個性とは、他の人がもたない、自分なりの独特の特性であり、本能的ににじみ出てくるものでしょう。
人間の一生とは、自分らしい自分の個性を、思う存分に発揮し、思う存分に開花させていくためにある。
この世に生れてきた以上、絶対に自分にしかできない自分の使命がある。そうでなければ生まれてはこない。
宇宙は決して無駄なことはしない。何か意味がある。
人間が「雑草」と呼んでいる植物にだって、何か意味がある。
梅が桜に憧れて、桜になろうとしても、意味がない。梅は梅らしく、自分を咲かせきっていくことが正しい。
個性はみんな違うから面白いし、みんな同じだったら、つまらないでしょう。
理論派・直感派
学者タイプ・スポーツマンタイプ
理系・文系、雄弁・無口、短気・のん気、几帳面・大らか
直情径行型・慎重型、早熟型・大器晩成型等々、十人十色です。
しかし、忘れてはいけないことがある。
それは、「本当の個性は必至の努力によってしか花咲かない」ということです。
だから、今の自分が自分のすべてだと思ったら、大きな間違いを犯してしまう。
とくに皆さんの年代では、何が自分の個性なのか、わからないのがふつうです。
人間は変わるものです。だから、たとえば「今の自分は無口だ。だから一生そのままでいこう」
これは、個性を生かした生き方ではない。
無口だけれども、必要なことを必要なときに、きちっと明快に話していける自分になっていこう。
勇気をもって、正しいことを正しいと語っていける自分になろう。
そう懸命に努力していくなかに、初めから「おしゃべり」の人とは違った、その人ならではの味のある話し方ができるようになる。それが個性です。
勉強でも同じだ。初めから努力もしないで、自分は「勉強に向いてない」とか言うのは逃避です。
人間は、違いもあるが、同時に、だれでも平等に「莫大な可能性」をもっている。
人間は、やろうと思えば、たいていのことができるもんです。
いちばんいけないのは、自信を失い「どうせ自分なんか」と、自分で自分を小さく決めつけてしまうことだ。
頭のよしあしも、本当は、それほどの差があるものではないんです。
今の成績が自分の力のすべてではない。自分の個性なのではない。
どんなに苦しくても「人にできて、自分にできないはずがない」
「自分の可能性をギリギリまで、ためしていくんだ」と頑張ることです。自分を信じきるんです。
他人と自分を比較して、小さな劣等感をもったり、優越感をもったりする生き方は、わびしい。
「自分のもてる力を、全部、出しきって生きてみよう」と決心して、努力また努力を重ねた人だけが、本当に「個性的」に輝いてくる。
そういう人であってこそ、他の人の個性も尊敬できるし、大切にできるもんです。
絶対に、人の足を引っ張ったり、いじめたりはしない。
市に虎有り
むかしむかしのお話です。
中国の魏という国に龐葱(ホウソウ)という立派な家来がいました。
名前は広く知られており、王様からも大事にされていました。
多くの家来の中には、正しいことを真っ直ぐに行うホウソウをねたんだり、煙たく思うものもいました。
あるとき、魏の王子様が他の国に預けられることになりました。
「おい、聞いたか。ホウソウがいなくなるぞ」
「これでうるさいことを言われなくてすむ」
「まったくだ。これからが楽しみだ」
国のことよりも自分のことばかりを考える家来にとってホウソウは邪魔だったのです。
出発が近づいたある日のこと。
ホウソウは厳しい顔つきで王様に話しかけました。
「王様、もし今、一人の者が、市場に虎が出たぞ!と申し上げましたら、王様は信じますか?」
「市場に虎だと?まさか、あるはずがない」
「では、2人の者が、市場に虎が出た!と申したらどうでしょう?」
「ふむ、もしや、そんなこともあるかもしれぬと疑うであろうな」
ホウソウは深くうなずいて質問を続けました。
「それでは3人の者が、市場に虎が出た!と告げたらいかがでしょう?」
「3人までが虎が出た!と言うのであれば信じるであろう」
ホウソウは王様の目をじっと見つめました。
「王様。市場にこれまで虎が出たためしはありません。近くに虎が住める森もありません。虎などいるはずがないのです。」
「それでも3人が虎が出た!と言えば虎がいることになってしまいます。私はこれまで国や人々のことを第一に考えマゴコロから王様に仕えてきました。」
「家来のなかには、そのことをよく思わない者もいます。自分のわがままが通らないからです。」
王様は不思議そうな様子で真剣に語る家来の顔を見やるのでした。
「お前の誠の心は、私がよく知っている。それを疑ったことなどないぞ。」
「私は王子様のお供をして、しばらく国を離れることになります。私の留守に悪口を吹き込む者は3人どころではないでしょう。」
「王様。どれほど私の悪口を聞かされても決して信じてはなりません。このことをお心の底深く覚えておいていただきたいのです。」
「よくわかった。つまらない噂話など何度聞かされても信じないことにする。」
ところがホウソウの心配は当たってしまったのです。
王子様とともに魏の国を出発してまだ異国の都にも着かないうちに、いくつもの噂話が王様の耳に届きました。
そして王様はホウソウの悪口を信じてしまったのです。
やがて王子様が魏の国に戻る日が来ました。
しかし王様は、もうホウソウに会おうとはしませんでした。
この話はやがて、「偽りがまことしやかに言われる」ことのたとえとして使われるようになりました。
戦国策の魏策に出て来る故事をもとにしたものです。
今から2000年以上前の中国の戦国時代のお話です。
この故事から事実無根の作り話であっても多くの人が口にすれば、皆が真実だと信じるようになってしまうこと
また存在しないことや偽りがまことしやかに言われることを意味する成語「市に虎有り」「三人虎を成す」が生まれました。デマは人間の心を狂わせます。
今回の震災でも出所不明の多数の悪い噂やチェーンメールが出回っています。特に今の時代はネット上でも溢れかえっています。
不安をあおるような出所不明の物は、しっかり確認を取るようにしましょう。
自分自身も、その悪質な不安に揺らいだり飲み込まれないように気をつけましょう。気持ちを引きずられたりして不安になる人も多いと聞きます。それこそ愉快犯の思うつぼです。
その分、被災地への国中の皆の力が分散されてしまいます。
自分の夢を親が理解しない
自分の将来の夢を、親が理解してくれない。
自分の将来だから自分で自由に決めたい!
という意見もあるが、これはケース・バイ・ケース。
親のほうが、経験のうえからも、社会を見る目からも、正しい考え方、見分け方をしている場合もある。
未経験の人が、経験ある人に相談・指導を受けながら、安全な、価値ある方向に行ったほうが賢明な場合も多々ある。
とくに、東洋的な思想には、そのような傾向が強くある。
親の言うとおりにして、順調に進んでいる場合も多い。
だが、若干、親が古い考え方である場合とか
親の思いやりの過重さが災いとなって、子どもに納得と理解をさせないで強引に、その方向に行かせようとしている恐れもある。
時代とともに変化するものも大きいし、結論的には、自分自身の希望の道を、自分自身が責任をもって
自分自身がつくりあげ、自分自身が苦労し、悔いのない道を決め、歩んでいくことが正しい方向であると思う。
なぜなら、一生は長いからです。
歩むのは自分自身であり、戦うのも、勝利するのも自分自身です。
いつまでも親がいるわけではない。
親は、子どもの希望の方向へ、力強く支援していく姿勢のほうが、親子ともに満足の方向が見いだせるんではないかと、私は思う。
親や、周囲が納得するだけの姿を示すことです。
とくに周囲に反対されている人は、皆を納得させるだけの熱意と、自分の直面している課題に完全燃焼している姿を示すことだと思う。
今の課題から逃げている人は、未来も、また自分の課題から逃げてしまうだろう。
それでは、だれも納得しないでしょう。
今も世界には「貧困」や「抑圧」や「恐怖」に縛りつけられたり「無知」に縛りつけられたり
「戦争」や「差別」に自由を破壊されている人は多い。
そういう人々の自由のために立ちあがり、戦う人こそが、本当の自由人なんです。
そういう人になってほしい。
そのためにも、今、自分自身のなすべきことに、立ち向かい、突き抜けて、勝利してもらいたい。
その苦闘のなかに、「自由」は自然とつくられていくんです。
木が根を張りながら、大空に向かって伸び、大きくなり、花を咲かせ、実をつけるように。
だから「青春」の君よ、希望という「太陽」に向かって進め!
と呼びかけたい。
自分を支配できる人が自由人
「一番苦しい時が、一番楽しい」
いい言葉だ、自由とは、不自由と表裏一体です。
いちばん多忙な人は、いちばん不自由なようで、いちばん本当の自由を謳歌している。
時間的な自由というのは「空(くう)」です。
時間の長さは基準にならない。時間がたくさんあるから自由とは言えない。
問題は、中身です。
同じ時間でも、自由を満喫している人もいれば、不自由を感じて文句を言う人もいる。
同じ一時間でも、テレビを見て、あっという間に過ごしてしまうこともあれば、勉強をして充実して過ごすこともある。
自由とは自分の生きる価値、自分の価値観で決まるんです。
ドストエフスキーというロシアの文豪を知っているでしょう。
彼は若き日に、革命運動のために逮捕され、銃殺刑が宣告された。
処刑場に連れ出され、仲間が縛りつけられた。
小銃が囚人に向けられた。自分は五分後には、この世にいない・・・そう思った時
彼は、その五分間というものが莫大な富に思えた。そして、考えた。
「もしも死なないとしたらどうだろう!もしも生命が返って来たら!それはなんという無限なんだろう!」
「しかもそれがすっかり自分のものだとしたら!そうしたら俺は、その一分一分を長い百年として、なに一つでも失わないようにし、その一分一分をきっかりと計算して、もうなに一つむだに費やすことのないようにするのだがなあ!」
(白痴「ドストエフスキー全集」)
結局、処刑は直前で取りやめになった。
これは極限の体験だが、人生の残りの時間が五分にせよ、五年にせよ、五十年にせよ、一分一分を大切に生きるべきだという点では変わりがない。
要するに、自由とは、自分の生きる価値で決まる。
自分の心・境涯で決まる。
そこに自由があるのに、自分はそれをわからずに、不自由と思っている場合もあるだろう。
同じ場所にいる人が、大いなる自由を感じている場合もあるだろう。
同じ「自由」を立派に価値創造に使う人もいれば、気ままに浪費して不価値・反価値にしてしまう人もいる。
自由の名を叫びながら、自由を破壊する人もいる。
「自由」のなかに、価値と不価値を含んでいる。
結論は、自分自身を支配できた人こそが、本当の自由なんです。
賢者は自由人、愚者は奴隷なんです。
校則に関してですが、まったく校則が必要ないとは思っていない。
でも、なかには「ここまで細かく、うるさく規定する必要があるのか」と思うような学校もあるようだ。
たしかに、「縛られる」ことは、いやなものだ。
「少年よ大志を抱け!」の言葉で有名な札幌農学校(北海道大学の前身)のクラーク博士は
学校が規則をたくさんつくろうとしたとき、反対した。
「そんなことで、人間がつくられるものではない」と
「Be gentleman(紳士たれ)」
「この一語に尽きる。紳士というものは、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなくて自己の良心に従って行動するのである。」
と主張したんです。
私も同感だ。そのうえで、いかなる環境にあろうと、だれも心までは縛れない。
心は自由です。
自由な、何ものにも負けない強き心の翼をもつことです。





































