私の勝手な想像ですが、常に民衆と共にこの地で生きた実際のイエスも親しまれる言葉で話したのではないかなと思います。
では今回は、この前の教会の礼拝で紹介された、心に残った聖書の言葉をご紹介したいと思います。
十字架での磔で死刑になったイエスは、生前に語ったその預言どおりに復活し、弟子たちの前に姿を現したという箇所。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。
すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。
「平安があなたがたにあるように」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。
弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者にになりなさい」
トマスはイエスに答えた。
「私の主、私の神よ」
イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」
ブッダも、老子も、イエスと同じく「心の平安」を説いており、この三者の教えに共通するものに「謙虚であること」もある。
この「平安であること」で思い出すのは、絶望の中で目覚めの体験をされた、『ザ・ワーク』の著者のバイロン・ケイティさん。
その体験後、腫瘍の告知を受けても、泥棒の被害に遭っても、銃を突きつけられても、まったく心の平安が揺るがない。
イエスが3度も語っていたのは、この平安のことなのでしょう。
この地を去る前に、その領域になれればと思う今日この頃。
今回の聖書の言葉の中で、「罪を赦すなら」で思い出した映画が『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』。
「信じる者に」 で思い出した映画が『ワンダーウーマン』。
どちらもお勧めの感動映画です。
では今回の曲は、邦題は『いざひとよ』という聖歌。
表彰式の時によく聴く曲って、聖歌だったんやね。
Thine Be The Glory / City Church Worship