愚物語・西尾維新 そだちフィアスコを読んだ→愚にもつかない自分語り | 墜落症候群

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墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

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 ※ネタバレ全開

 俺はどうやら、老倉育のようなキャラクターが好きなようだ。
 不幸で、どうしようもなく報われなくて、その不幸な境遇ゆえに、ネガティヴな思考や、自己中心的な性格や、他人への攻撃性が定着してしまっている。
 そして、だからついつい必要のない余計な行動をしてしまって、他人に嫌われたり、日常をうまく過ごすことができない人間。
 彼女のような人間こそを、阿良々木暦は救うべきだとも思うが、きっとそれはムリなんだろうとも思う。それは彼の人生の筋ではないのだ。やっぱり彼には戦場ヶ原ひたぎがお似合いなのだと思う。
 この『終わっていた物語が続いてしまった感』はどうするのだろうか。西尾維新はどう落とし前をつけるのだろうか。そこに興味は尽きない。
 そだちフィアスコはざっくり言うと、終物語・上の後日談みたいな感じで、育が私立直江津高校からおそらく別の県の公立校に転校した後の話である。
 そのクラスには、育が転校する前からある対立問題が存在していて、その問題を、育が何だかんだで解決する、までが今回の内容。
 ページ数で言うと、およそ半分のページがこの『そだちフィアスコ』に費やされているので、今巻の愚物語の表紙は斧乃木余接ではあるが、育の印象が強くなる人も多いだろう。
 この巻には、『そだちフィアスコ』の他に神原駿河と斧乃木余接の短編が含まれているようだ。
 雰囲気としては、これまでの物語から見て未来の時系列になるんじゃないか、と思う。
 そう言えば……忍野メメが大学生の頃の、斧乃木余接が作られるまでの経緯とかを読んでみたいな、と思ったことを思い出す。
 しかし、今巻の第一話目を読んで感じたんだけれど、これからも時間軸は大きくブレることはないような気はする。何だかんだで終物語とか、花物語以降の物語が地続きで語られていくことになるんだろうな。
 結局、俺が言いたかったのはこの短編のオチについてだ。
 育は今回、人の良い子供のいない夫婦に引き取られて、新しい高校に通い始める。
 そのクラスには問題が渦巻いていて、育は無理くり、その問題を解決するが、結果、友達が出来ることもなく孤立を深める。
 そして、育を引き取ってくれた夫婦の元に、朝から酒浸りの育の父親が訪れてくる場面でオチ。いや、オチてないんですけど! オチてないんですけどっ?!
 と、凄く言いたくなった。
 育……。
 いや、俺が思うのはですね、普通、物語のキャラクターって、小説として描かれなければ、何だかんだでその人生の続きって気にならないんだよね。フィクションだし。物語が終われば、基本的にそれで終わりじゃないですか。
 続・終物語を読むことで、読者は納得していた部分はあると思うんだよね。
 終物語で、ズタボロのままに転校していった老倉育の、幸せになったパラレルバージョンを見て、ちょっと納得ではないけれど、心を静めるみたいなところはあったと思うんですよ。
 それがどうだ、物語が続いてしまって、明らかに幸せではない育の人生の続きが明示されてしまうワケだ。
 そして、新しい学校でのクラス問題については何だかんだでケリがつくものの、今度は朝から酒浸りの、育を引き取ったら間違いなく家庭内暴力とかするよね、っていう感じのクズ男親が来たよってオチって……。
 なんか続・終物語でうやむやにされていた育のその後を、ちゃんと解決しないと、読者は納得しないんじゃないだろうか。
 流石に、西尾維新ほどの人気作家が、
『そういう奴の人生はずっとそういう感じなんだよ』
 というオチでまとめないだろうし。
 だけれど、阿良々木暦に老倉育が救えるんだろうか……? それも疑問である。
 阿良々木への気持ちを、「この気持ちはきっと恋よりも激しい」とか言っていたり、クラス内の派閥争いに巻き込まれて「お前はどちら派だ?」と聞かれて「阿良々木派だ」と答えたり、世話になっている家の夫人に来客があった、と言われて、「そ、それは……、私と同い年くらいの男の子? 小柄で、数学が得意そうな?」と恥ずかしくなるくらい、勢い込んで聞いてしまうような育が可愛くて仕方がない。
 俺だったら、こういうキャラをメインヒロインに据えたい。愛憎による殴り合いが、男女関係の最たるものだ、という歪みを人生で形成してしまった俺であるから。
 だけど、阿良々木は来ないのだ、代わりに来るのはクズな父親なのだ……阿良々木は大学受験に向けて勉強していて、その傍らには戦場ヶ原や羽川がいて、そして大学合格した後も阿良々木は戦場ヶ原との幸せな大学生活を送るのだろう。
 ある意味では、育の方だけが、阿良々木の方を向いている。
 まあ、自分を憎んでいる相手を、暴力を振るってくる相手を好きになるはずがないよなぁ……っていう当然の前提があるから、それは仕方ないことではあるんだけど……寝取られとかよりも酷いよな、こういうの。全く救いがない。
 滅茶苦茶気持ち悪く言うのならば、もう「育たん、可愛いよ、はぁはぁ……」とか言ってみてもいいかもしれないw 俺の不幸キャラ萌えは相当に歪んでいる(歪んでいることを嬉々として語っているのも相当に中二病で恥ずかしいことなのだろうが)。
 阿良々木ハーレムとか呼ばれる、物語ヒロインズの人生を考えてみても彼女らは一様にそれなりにハードでダークな経緯を辿ってきているので、育が怪異化する、というのはかなりありえるパターンだろう。
 言うなれば、囮物語で千石撫子がラスボス化してしまったのを踏まえる感じだろうか。西尾維新ならそんな二番煎じはあえてしないような気もするが。
 そう言えば、掟上今日子の最新刊のあらすじは、報われない人生を送る主人公に、自殺を試みた少女が降ってくる――みたいなあらすじで、どうしても戦場ヶ原ひたぎを連想してしまい、少し残念だった。
 しかし考えてみれば、『降ってくるヒロイン』というのは、ラピュタの時代からお馴染みなものではあるのかもしれないな。化物語の場合は、それが起きたのが学校で、そして戦場ヶ原の体重が驚くほどに軽かった、という怪異絡みだというところに、見るべきところがある。
 ちなみにアニメだと幻想的な美しい場面として描写されるが(そこはシャフトGJだと正直思う)、原作だとバナナの皮に転んだのが原因という、若干コメディタッチな描かれ方ではある(アニメでもそこの説明ってあったっけ?)
 育の怪異化について言えば、それは阿良々木には手が余るんじゃないか、という感じがする。
 阿良々木も一個人に過ぎず、救える範囲には限りがあるし、結局ラスボス撫子についても、阿良々木ではなく貝木が解決したワケだし……。
 阿良々木は自身が明るい正義の人であるようなところがあるから、あまりにもダーティな手段で物事を解決する技巧は持ち合わせていないように思う。
 そういえば、終物語において、阿良々木が育から手紙を貰うシーンがあったような……? つまり、『そだちフィアスコ』ラストでの酒浸り親父の帰還という問題には、育自身が決着をつけ、そして阿良々木に手紙を送るのだろうか。それはそれで育らしい気もする。
 いずれにせよ、どんな感じで落とし前をつけてくれるのかは、楽しみだ。

 ヒロインのキャラクターとして、ひたぎと育では、抱えている闇の深さが違うという感じなのかな……。ひたぎは攻撃的なキャラではあったけれど、それは怪異のせいで一時的にそうなっていただけで、徐々に丸くなっていったそうだし。
 ツンドラキャラだけれど、まだ好感が持てる感じだよな。
 育は……何ていうか、ヤンデレですらないよなw
 相手を嫌うことにより執着する……どうしようもないキャラだが、俺はこういうキャラが好みだ。こういうキャラが好みだということを最近再び自覚した。人気作家である西尾維新氏が、俺好みのキャラを描いてくれて嬉しく思う。

「育みたいなキャラに俺は嫌われたいんだ……しかし実際には育が嫌う(執着する)のも阿良々木みたいなヒーローのようなキャラなんだよな……俺はどうしたって選ばれないんだ」

 ああ……書くことがことごとく気持ち悪くなってしまう……。
 キャラに萌えている男なんてことごとく気持ち悪いものなんだろうか?
 いや、育に萌えている俺だけが気持ち悪いのかもしれない……俺はパーソナリティをどこに置きたいんだ? 明らかに犯罪者予備軍というか、いや、実際に犯罪を犯すかどうかはともかくとして、根っこのメンタリティが今の社会にどうしようもなく適用していなくて、はみ出る人間なのだ。
 そして、自分を掘り下げれば掘り下げるほどに異様に、醜く捻れる。
 創作上のキャラとこんなことで比較するのは気持ち悪いんだろうけれど、俺は多分、育と比較すれば、家柄はそこそこ恵まれた方なのだと思う。親のいだき関係とか、引っ越し関係の出費の多さはともかくとして、かけられた金額はそれなりに多かったのだろうと思う。
 これも自慢になりそうで気持ち悪いが、海外旅行は十回以上は行っていると思うし、多分そういうお金とか、自分の熱意をきちんとした形で注ぎ込むことができれば、ちゃんとした学歴を得ることも不可能ではなかっただろう。
 でも、俺がそうしなかったのは、結局、俺が多数に馴染めない人間だったからだよな。
 どうしようもなく少数派だった。
 小学校では一人だけ親しい友達のようなものがいたし、好きな子もいたが、終盤になるといじめを受けていて、群馬から引っ越すという母親の申し出を「これで離れられる」と内心喜びに駆られていたし。
 埼玉の本庄では、一年間しかいなかったこともあって、あまり馴染めなかった。卓球部には所属していたものの……多分、普通に他人と喋るコミュニケーションを取るというのが、凄まじく不得手なのだ。
『いてもいなくても変わらない、まるで透明人間のようだ』
 と俺は思っていた。
 そして、中学二年生、三年生と、東京の練馬の中学校に通うワケだけれど――ここではとうとう不登校になった。
 結局、小説を読むというのが、俺が現実逃避する方法だった。
 マンションの屋上に出て、灼眼のシャナというライトノベルを読んでいるところを、とうとう母親に発見されて、何だかんだで多少は学校に行ったり、塾に通ったりして、最終的には新宿山吹高等学校っていう単位制の高校に合格はできた(現在は倍率が上がっているらしいですね)。
 でも、結局サボりまくっていたような……w
 漫画喫茶とか、ブックオフとかに入り浸っていた気がする。電車通学で地元から離れてしまったからなあ……。
 そして、高二? くらいの時に父親が末期癌で倒れて、母親が「自宅看護する!」とか言い出したので、俺も高校を休学するような、体の良いイイワケを手に入れた――なんかわざわざクズっぽく言っているような気もするが。
 自宅看護っつったって、つきっきりで看護しているワケでもない。たまに尿瓶を当てたり、マッサージするくらいのもので、大体はパソコンで同人ノベルゲーム……そうそう、『ひぐらしのなく頃に』をやっていたりして……。ああクズだ、紛うことなきクズじゃないか?
 俺みたいな人間が普通に考えて社会的な大事とかをこなせるはずがない……いだきに通っていることで「俺も世界に関与できるかも!」といった分不相応な誇大妄想を抱いていたが……あとKT氏には本当に掛け値なしに死んで欲しいと俺は考えている……ああもううんざりだ。
 俺は社会の中で重要な役割を果たすだとか、世界の中で大きなことをするだとか、そういう人間だけが重要視される世界は嫌いだ……ゴミみたいな存在でも、ゴミなりの存在理由があって、生きているじゃないか……この世界に不必要な存在なんていない。何か有害な存在でも存在するなりの成立過程や存在理由があってこの世界に存在している、俺はそう考えている。
 それを「いだきしん先生に迷惑をかけるな! お前みたいなゴミのような存在のことはどうでもいい!」だと……。
 俺はいだきに何十年も通ってきて、尚且つ社会でそれなりの人生経験を積んできた上で、他人を自分の都合だけで容赦なく一方的に罵倒できるその神経にうんざりした。いだき関係者にもいだきにもうんざりした。
 結局、無思考無批判でいだきしんを信奉する人間しか生み出せない……アイドルとかも嫌いだけれど、あくまで商業的存在として成立しているアイドルよりも、内輪向けなのが、思考停止っぷりを加速させていてヤバい……神のような存在を守るためなら、人はいくらでも人を殺せるんじゃないのか? 正直言ってウンザリだ……どうしてあの時の俺はKTのようなうんこに一言の反論もしなかったのだろうか……。ネットだと証拠が残るというバカがいるが、リアルなら証拠が残らないから何を言ってもいいのか? 相手に傷をつける言葉を言ったら、相手の心には一生残るんだぞ? それはネットに残るよりも推奨されて然るべき事象だと言うのか? 残る分、まだネットの方が公明性があるじゃないか……あの時、KTが言った暴言の一字一句をここに正確に引用したいくらいだ……。
 全体を見てみたら「やっぱり天田さんの方が悪いですよね」みたいに言ってくるヤツばっかなんだろうな~あははw 大体そうだよ。俺に共感できるヤツなんていないんだよ。リアルでは彼女ができそうもない俺にも、ネットで彼女らしき人ができてさ、その人も言っていたよ。「天田くんの言っていることは確かに正論だと思うけれど、でも人を傷つけ過ぎるし、私たちは傷つけられた人達の方に共感しちゃうの……」だってさ!w まあそうだろうよ。俺は大多数とは相容れない少数派だから、何か特別な関係が欲しいんだよ……でも特別な関係を求めれば求めるほど、それは遠のいていくものなのかもしれない。でも、どこかにないものなのだろうか?
 K氏の悪行を思い出すと、今でも怖気で身が震える。あれを理由に母親が誘う今度のいだきイベントを、K氏という最低最悪の(俺にとっての、と一応注釈しておこう)クズに顔を合わせる可能性があるから絶対嫌だ、と断ってもいいくらいだ。
 何ていうか、相手のこれまで生きていた経緯を考慮せず、上から目線で相手を一方的に攻撃できるような奴って嫌いなんだよな……。
 ブスを見下す奴、低学歴、底辺、低収入、風俗業、そういうのに関わっている人間を無条件で見下すヤツこそが今この瞬間、この地球上で最も生きる価値がないザコだと俺は思う。
 前提条件である程度人生が決まっているというのなら、コミュニケーションスキルとか学力とか、家の財力とか容姿とかもある程度生まれた時点で決まっているということだよな?
 だとしたら、人生の大筋って、そいつの努力とは全く関係ないってことじゃん。いや、確かに恵まれていてもそれを生かさない怠慢とかは良くないとは思うけれど……手に入れた環境は『生まれ』であって、別に自分で手に入れた力でもないんだよ。お前の顔がいいのも、家が裕福なのも、学歴が高いのも、コミュニケーションスキルが高いのも、別にお前が自分が選んだ結果優れていたとかではなくて、そんなのただの生まれに過ぎないんだよ。
 と、言い切ってしまうこともどこか不毛だけれど……。
 俺は思う、ホントに不幸な人生なんて存在しないんだと。プレアデス系の輪廻転生っぽい世界観を考慮して、魂は生まれる前に生まれる先の肉体を選んでいるとか言うのまで考えるとワケがわからなくなってしまうが……ただ、どんな不幸な境遇にいても、何らかの救いはあるんだと思う。
 でも、それは老倉育が待ち望んでいるような、阿良々木暦による救いとかではないのかもしれない……基本的には人間は自分で自分を救うしかないんじゃないかと思う。
 救いというか、どんな人生にも楽しみを見つけることはできるし、『苦しい』『余裕がない』『死にそう』という経験も、幸せな人間にはできない経験なんじゃないか、ということだ。
 一生働かずに生活できて、女にも不自由しない、みたいな生活は確かに羨ましいけれど、苦しさというのは、それはそれで楽しいものなのかもしれない、と思う。
 楽しいというか……程よい緊張感、とでも言うのか? うまくは言えないが。
 例えば、ゲームではイージーモードとかの方が作業量が少なくて、ただ物語を追うだけならラクなはずだ。しかし、ハードモードの方が歯応えがあって、そのストレスを人間は楽しいと感じるのである。
 そして音ゲーとかはもはや何をしているのかわからないくらいの難しいステージをクリアできる人が神とか言われるんだろ? そんな感じ。
 ストイックな追い込みを必須という、そういうストレスフルな楽しみもあるのかもしれない。
 俺はどうやら、生まれと人生経験の中で、逆境というか、自分が悪口を言われること、自分が悪口を言うことに、変な快楽のツボが生まれてしまったみたいで、どこかでそれを追い求めてしまっているのかもしれない。
 小説を書くのは俺にとって、人生で一番難しいこと、みたいな感じで、それに励みたいのは、最近次々と夭折する、漫画家・ボカロP・ライトノベル作家みたいに過労死したいからなのかもしれない。
 どうせ年食っておっさんになればなるほど、この世に居場所がなくなっていくんだろ? みたいな感じである。
 俺ももっと世間一般の人みたいにしたかったのかもしれない……が、それは難しかった。何度も大学受験をしようとしたりしたが……どうしても俺はそういう一般ルートから外れる。
 俺は誰かから嫌われると、それに対して一々大袈裟に憤っていたが、しかし客観視してみると俺は大多数の人から嫌われて当然の存在だった。生まれた時からなんか生ゴミのような醜い存在だったのだが、それになかなか気付かなかったのである。自らを世界の中心と見なすようないだきが傍らにあったのも質が悪かった。それは俺を無自覚な自己肯定というか、「俺は本当は凄いヤツなんだ」みたいな錯覚に導いていたのだろう。
 しかし、俺はダメなヤツだ。だけど、大事なのは、ダメなヤツなりに頑張るということだと思う。
 例えば、アイドルが俺はニガテだ……ネットで彼女役をやってくれた女の子がアイドルとか歌い手とかの話をする度に俺はなんだか嫉妬していた。
 器の小さい男だとは思う。
 だけど、お互いの目にはお互いしか映っていないような、滅亡した後の世界で二人だけ、だとか、死後の二人だけの世界、とかそういうニュアンスを望んじゃいけないんだろうか?
 自分達がアイドルみたいに地味で輝けない存在だからって、比較して卑下する必要もない。だって生まれた時からゴミだったのだ。ゴミなのはゴミのせいじゃなく、主に生まれのせいで、それは努力で改善することとかもあるかもしれないけれど、大筋ではずっと着いて回ることなんだろう……俺はその自分から、強い光を見ることで目を逸らすのは得策だとは思わない。
 その意味で、俺がいだきに通う時代は終わった。いだき自体の芸術性への好みがどうあれ、俺はいだき自体が世間的には弾かれる存在だろうが、別に否定も批判もしない。だけど、俺が関わるべき時期は過ぎた感じだ。愛情の反対は憎悪ではなく無関心。俺の知らないところで好きなだけイイコトをやればいいじゃないか、と思う(なんで俺の言い方はこう露悪的になってしまうんだ? 俺の性格が悪いから?)。
 個人的には、世間的な評価が高いとか、金が沢山稼げるとか、高学歴とか、そういうことだけに着目する必要はないと思う――社会というシステムが、その方が回転がいいから、あるいは搾取する上層部にとっては、その方が都合がいいから、そういう価値観を義務教育とか法律とかにより洗脳しているだけだ。
 別にここで語らずとも、どんなに努力したところで理不尽な椅子取りゲームを強いられ、そこから転がり落ちた人は問答無用で非正規雇用となる文脈は存在していると思う。
 理不尽な世の中であり、世界であり、俺はその中でたまたま椅子取りゲームに成功するくらいに家柄と要領がいいヤツにあまりデカい面をして欲しくない!
 少数の人間がめちゃくちゃ裕福な生活をするよりも、大多数の人間がそこそこの生活をできるということの方が俺は望ましいと思う(底辺の生活の方がネガティヴに刺激的で面白いぜ!w 的な意見も否定しない)。
 別に低収入でも結婚していいと思うし、低収入だと幸せではないという価値観も間違っていると思う。由さんがありがちな文脈を言うのが意外だったし許せなかったので、ここに一応書いておこう。(言い過ぎかな?w)
 この期に及んで、俺は読者の少女達に気を遣っているのか……すっかり弱くなっちゃった
。すっかり馴れ合いになってしまった。といっても少女が悪いんじゃない。愚物語で育も言っていたが、人間は悪くなる原因を大体頭の中に創作しているものなのだ、自分自身で。
 俺は日和りたくない……好き勝手なことを書いていたい。そういう思いはある。
 いや、多分、低収入だと結婚したくない~みたいなのが大勢が言っていることだから、なんか嫌なだけなんだろうな。
 別に、多数派、少数派に関わらず、結局人間というのは自分が感じるように生きるしかない存在なのだ。
 それをどうしてか合わせようとするから齟齬が生じる……。
 誰に対してもあうあうと話を合わせることしかしない天田晃司は、俺は嫌いだ。
 少なくとも今の俺は日和見主義は嫌いだ。
 でも、きっと明日言っていることは違うのだろう。
 そんなどうしようもない薄っぺらさだ。

 ……それにしても沢山書いたなーw
 なんか久しぶりに自分の文章を沢山書いたという気はする。
 それくらい、愚物語の育のモノローグが自分とマッチしていたんだろう。
 小説を書く時に、いつもこれは表現としてアリかナシか、で手が止まってしまう。読書時もいつもそんなことを考えてしまう。
 小説というものは、キャラとの会話とかわかりやすいアクションとかで成り立たなければいけない、とついつい先入観を持ってしまいがちなのだが、今回の『そだちフィアスコ』とか100パーセント地の文で、笑ってしまうw 鍵括弧ないしw 会話も地の文で済まされてしまう。キョンの発言が、モノローグと混ざっているとか涼宮ハルヒでもあったけれど、あれが更に、他人の台詞も全部鍵括弧を使わずに書かれている感じだ。
 結局、成功者の作法は何でもアリになってしまうってことか……?
 《ノストラ》と《百の王》で、感想文において確か一文の長さを批判されたことがあった。確かに文章は短く切った方が読みやすい……だけど、多分一文の長さは確実に西尾維新の小説の書き写しによって強化された特色だと俺は思った。
 西尾維新はこれくらい長い文章も平気で書きますよ? とか言えばよかったんだろうか……しかし、多分長くて読みにくい文章を俺はきっと書いていたんだろうな……。
 人気作家でもなんでもない俺は人に気を遣って、読みやすい文章を書かなければ読んでもらえないのかもしれないし、賞の受賞で言えばもっとムリなのかもしれないが、だけど創作を気を遣って書くというのはどうなのだろうか……。

 俺は人生通して、どちらかと言えば、アウトプット型というよりはインプット型の人間だ。でも、宇宙で一つしかない新しい創作をしてみたいと思ってはいる。
 人間の生まれた意味というのは、この宇宙でまだ存在してない何かを行動によって表現することじゃないか? と思っている。
 どんなにインプットしたところで、まるで創作をせずに、ただ他人の作品の感想や批判しかしないのなら、その人の人生に意味はあるのか? と思っている。
 まあ、俺の視野は狭いので、あくまで物語関係に執着してしまうが……。

 だから、何だかんだで、何かの形で俺は書き続けていくのだろう。
 傾向として、《精神的な自殺》を書きたいと思ってしまう俺、断片的でまるで長編を計画的に書く才能がない俺だから、そして一般受けするラノベとか多分もう死んでも書けないとか思うから、俺の商業進出とかは残念ながらないのかもしれない(それでも投稿はする……かも?)
 死ぬまでは書くし、死後の世界があったら死んでも書くのだろうか? いや、死んだら流石に新しい個性、新しい人格が欲しいとか思うのかもしれない。
 死ぬまで書く。結局俺にはそう言うことしかできないのだ。
 それにしても、今回好みの短編を読んだという影響が多いかもしれないが、こんなに長文を書けた。
 愚物語と何の関係があるのかはもはやわからないが、長文を書けるのは個人的には嬉しいことだ……。
 読書も、長文を書くには良い習慣なのかもしれない。
 最近、書き写しをメインになるべく日常的になるべく長い時間文章を書く……という習慣がかなりうまく回らなくなってきていた。
 セーフティネットとして、書き写しすらやる気にならないのなら、小説を読め、というのはアリなのかもしれない。
 ただ、自分の好みの狭さを自覚しちゃったからな……。
 好きな今回の『そだちフィアスコ』を何回も読むとか? それはそれで疲れそうだ……そして、そろそろバイトの時間が近づいてきた。