「右手は下垂する」 と書いて、「29」 というありがたい数字が出てきます。
これは 「太陽門」「恩寵」と同じ数字で、 「鈴木一朗」さんも持つ、地に満ちるありがたい水の数字です。
右手が地に向かって垂れている姿は、浄土時 阿弥陀三尊の、阿弥陀様の右手です。
私の大好きな本「禅のすべて」の中にある、あの、「隻手(せきしゅ)の声」のような、
慈悲を与え、学び悟るを促し導くような、あの右手の事です。
キリスト教の聖書にある、「キリストの導きの右手」も、同じ右手です。
私たちは神と、一対のファスナーのように、右手と右手の、「契約の握手」をする事だって出来るのですよ。
私達が神と面と向かい合って、一対のファスナーのようになった時、(目と目を見詰め合った時)
それは、自分の顔が鏡に写った時の様に左右の逆転が起こっていますね。
(神の右手の前に自分の左手があり、自分の右手の前に、神の左手があります)
これは重大な悟りですよ。
私達が神仏に向かって祈る時、その目は神仏だけを見ているのです。
しかし、次に重大な事がわかってきます。
自分が、神と共に同じ方向、同じ目線を持って人を愛する時、
それは自分がくるりと向きを変える事を示していますね。
(私が前を向き、神も私の背中にピッタリと寄添い、同じ方向を見つめる時)
(愛と慈悲の目線を持つ時)
(それはもう仏像の姿ですね。前に立つ阿弥陀があなたで、後光が神の本体だからです)
(神は光り)
私の右手は神と同じように、右手が下垂しているはずである、という事ですね。
まるで、見詰め合っていたDNAが、別れる事が可能で、他の生命の中に移植され、
生き続ける事が出来るように、
私たちと神は、同じ目線、方向性を持って、人を愛し続ける事は可能だという事です。
それを、易経は私に言った。
「旬(ひと)しといえどもトガなし」と。(等しいと言ってもよろしい、と。)
(ただし、「旬しを過ぎれば災いあるなり」と。)
(なんて恐ろしい事を、易経は私に伝えたのでしょうか)
私たちは、一つですけど、一人ではない。(DNAが二重螺旋であるように)
一人だけど、私たちは神ではない限り、二人です。二人で一つなのです。(仏像のように)
大いなる意思は存在し、決して、未熟な者を大いなる高みにまで
一足飛びに連れて行ったりしません。
途中の大切な道程を、すっ飛ばしてもくれません。
正しくなる者には、それなりに、苦労の連続と悟りの連続があるはずなのです。
だからこそ、人は尊いのです。
あなたは今日からでも、尊い者になれるのです。
でも、中身はまだ未熟なままですから、思い上がってはなりません。悟りを終えた者ではないからです。
ですから、謙虚、素直は、尊いのですね。
神は今でも、ずっと、右手を差し出して、あなたを導こうと待っておられます。
ですが、あなたが神の右手をつかむかは、あなたの自由に任せておられます。
なぜなら、自由だからです。あなたが決める事だからです。
神と書いて、時と同じ「10」という数字が付いています。(「天の正」と書いて10)
神を味方にするという事は、時を味方にするのと同じ。
事故無く、安全に、無事に一生を過ごす、という事は、至難の業であるという事です。
しかし、それらを簡単にやり通す人々がいます。
どちらの道を行くかは、あなたの自由なのです。
私としましては、皆様に明るく正しい、幸福行きの道を歩まれる事を、
心から深く希望していますが。
H20,9,5 (金) pm 12:41 記 小濱白光