私が社会に出て行くとき、いろいろな煩わしいことがたくさんあるだろう。
しかし、イライラをつのらせるよりも、威厳を持った柔徳の人を、実行するだろう。
至らない人々に、いらだつこともあるでしょう。
しかし、”厚徳をもって大車(たいしゃ)載(の)す”を、実践するのです。
また、あまりに簡単でつまらない事も多いでしょう。
その時にも、小濱白光は神と共に、輝きを増し美しくあることでしょう。
これが”総和のエネルギー”としての、”第八のチャクラ”として
この世を歩いていく姿だからです。
私が不満や怒りをかかえている間は、私は輝かなかった。
しかし、今は光(おお)いに輝こうとする前であり、その訓練の時を経て、その時はやってくるのです。
ですから、今の私が輝いていない訳ではない。
”光(おお)いに輝いている” のではないだけです。
ただし、私が光(おお)いに輝くことが目的ではない。
なぜなら、私はすでにそういう者だからです。
しかし時はまだその時を得ていない。
その時は10年後の大運といえる。
ならばその光りにおおいに慣れる訓練が必要なのです。(教師が教壇に立つ事に慣れるように)
私がどう思われたいか、ではなく、どう輝きたいのか、
また、何を伝えたいかの方が重要なのです。
神は昔おっしゃった。 「お前の手によって出たい」と。
私の手を通して、「神の愛を伝えたい」 (伝えなさい)と。
それは私の全身全霊をもって事に当たることです。
私が人に見られる時、きらびやかでなくともいい。 質素でいい。
皆が私にひれ伏すのが目的ではない。
より多くの人が幸福になってほしいだけだ。
神は私に思う存分やっていい (そうしていい段階になったと言ってくださった) と言った。
私は、私が私らしく美しく幸福であればいい。
その中に人々の幸福がちゃんと入っている。
私はそういう者です。
その枠組みから離れたくない者です。
多くの人々の希望も多くはこの通りであり、
自分だけが良ければいいと思っている人の方が少ないのではないでしょうか。
私は、人の心の中の心を、信じたい。
そこには必ず神がいるから。 その神を引っ張りだしたい。
そして、そのことを本人が気付きますように。 そういう仕事がしたい。
きのうはきれいな名ができた。 外格32の、相談役を、とても喜んでおられた。
私は言った。 「人は、自分にないものには、なれないのです」と。
だから、「あなたらしくなり、整いました」と。
彼女は本名の真っ青で辛かった名を、その目で見ている。
吉名の真っ赤に彩られている美しい文字を、その目で見ている。
この方(66歳)はお金が苦しいということで、無料にした。
私は言った。 「チャンスは逃してはいけない」と。
「今年は五黄の人は南回座し、着く離れるの年だから、良いものに着いて、悪いものから離れなさい」と。
そして良いものは私。
悪いものは人の金を当てにして借金しまくる情夫。
彼女が幸福になる事が目に見えている。
私は、「出世払いね」と言ったが、良くなっても支払う人は少ない。
その私の努力は、きっと報われる時が来る。
なぜなら、神のお返しの方が、何倍も大きいからです。 (今までもそうでありました)
私は遠くを見ている訳ではない。 現実に与えられる幸福を見ているのです。
たとえそれが100%でなくともいい。 私に与えられるだけでいい。
私は人に奉仕し、幸福を見ている。
それがどんなに楽しく、美しい仕事か、私はよく知っている。
多くの人が幸福になるところを見る、目撃者。
こんな楽しいことが自分にできるとは、考えてもいなかった人生ですが、
私はいつも人の役に立ちたいと思っていた。
保母さんも、スチュワーデスも、看護婦さんも、みな身長制限ではねれた。
そして、私に残った道が、今の私だった。
そして、これこそ私の唯一の天命と知る事ができた幸福な私の人生です。
だから、閉じられる扉が、悪い訳ではない。
唯一開いている門から、入るべきである。
それが自分自身というものだ。
人と同じになろうとすると、自分が見えなくなることだってある。
平均的な幸福を夢見ていても、そうならない事もある。
ならば、嘆いてばかりいるのか。
自分にできる、開いている門を、一度は入ってみたらどうか。
誰も止めない道、それが本道かもしれない。
皆が止める道、これはよく考えるべきた。
どうしても行ってみたいなら、行ってみてもいい。
でも、その時は、覚悟しなさい。
責任は取りなさい。
人を傷つける人がいる。たとえ天命であっても、大罪は大罪である。大罪を生きる命もある。
その人は責任を取るのが天命である。
生きてのうのうとする人生は約束されていないのである。
あなたのその悲しき人生は、あなたのものである。
他人があなたのために準備した訳ではない。
あなたの血筋が、それを準備したのである。
血筋が準備した不幸の子でも、吉名はそれをカバーする事ができる。
私の神は私に言った。
「父の破れを正す。もって誉れあり。承(う)くるに徳をもってすればなり。
父の難事を処理する。盛徳を持って父の意を承(う)けるがゆえに
弊風を一新して、大いなる賞賛を受ける」と。
「柳の枝を柔らかく揉(も)んでつくった籠(かご)で、崩れてしまいそうは果実を
優しく胸にいだきなさい」と。
私には、人に吉名を付けることしか出来ない。
でも、多くの人を救ってきた。
でも人は、幸福になると、電話もしてこず、御礼も言わず、お金を支払わない人さえ居る。
(苦しみも、喉もと過ぎればなんとか、か)
(再び何か問題が起こったときだけ、なんとかしてくれろと、言ってくる)
それが私の人生なら、それもよい。
私の先祖の破れであろう。
それは、私の人生だから、私は受けて立つ。
でも、わが神は、私を幸福にした。
人には見えないかもしれないが、私たちがどんなに幸福か、私と私の家族はよく知っている。
だから神は、私たちに立派に報(むく)いたのである。
私たち家族のささやかな犠牲と、人々への愛情のために
私たち家族と身内の者の安全と幸福という形で、神は大きなものを報いたのである。
この安全は、目に見えない幸福の守りで、お金に換えたら、とても大きな金額になる事だろう。
神は私に言った。「何もかも欲しがってはならない」と。
「お前にはすべてを与えてある」 「お前に権能を授ける」と。
この言葉の通りに、神は私に実行したのである。
神ご自身のご希望である、家族の幸福という形で。
H20,4,15 (火) pm 1:21 記