女っていう生き物は普段どんなことを考えてなにをしたがっているのだろう。一方の男の方はといえば至極単純である。山城新伍によれば「男ってのは10分に1回はいやらしいことを考えてる」そうで、頭の中は食う寝るやる以外ない「ただの動物」という分かりやすい単純さ(それが悪いとは特に言っていない)。
翻って女の人というのはずっとミステリアスなのではないか。なにを考えているか、というよりその事柄をどういう風に考えるか捉えるかというところがミステリー。とはいえ、そもそもなんだかよく分からない異性というものを見るからミステリーなんて言うけれど、当の女の人からしたら別に普通に欲求の生起と発露があるだけのことなのかも知れない。
いずれにせよ、女の人も千差万別、十人十色、いろいろとその持つ感覚の違いがあって、さらにはその全員にそれぞれパートナーがくっついてるとすれば、男の性格もそりゃ様々なわけだから、男ってなものから見た女の人のミステリーぶりといったら、その混沌とした疑念の全体的蓄積という視点で考えてみると、鬱積したその想念は地球上の火山をいくつか大噴火させるくらいのエネルギー量なのじゃないだろうか。
ところで、世俗の界隈に在っていつだって起こるところの「男と女の物語」だが、悩み苦しみつらい恋とか、心の問題がそこに至るにあたってあるとするなら、それは実に人類(だけ)の持つ我執というものに起因していることを覚えておかなくてはならない。
我執とは唯識学にいうところの第七末那識に蓄積される、人類も本来持つ仏性(第九菴摩羅識)を覆って、その言動を歪めてしまう執着心のこと。そもそも自他を別けるだけの知性を下手に持ったがために、その人類だけに発症してしまった病理なのだというところが筆者の考察。
動物の性愛に我執はない。衝動が起こり、やることやって終われば平常心に戻る。自他を別け、そこから所有欲みたいなものも生まれ、故にこそ湧起する「近頃、化粧が濃いんだよな、怪しいじゃねえか」などをはじめとする、人類にあってのみ見ることのできる感情的な状況認識はこれを一切持つことがない。
動物は人間と比べて頭が悪いので、そのような状況認識を持とうと思っても持つことが出来ない(と言う前に持つ気もない)。だからと言って一方でそれを持つ人類の感情的判断が優位的に正しいということにはならない。そういう理路はない。正しいはずがないとむしろ断定してよいのである。
この動物と人類の対比というのは、動物と違って人類には叡智が与えられているのだから、どうか帰依者の皆さん、動物のような衝動に支配された言動はこれを慎みましょう(欲望と自制の対比とか)、というサイババの言説に対して疑義を抱く筆者の持論であり、そしてそれは山川草木悉皆成仏という既存の用語に「すべては仏の下にいる(成仏)。人間以外は」という拡大した解釈を付け加えることともなる。
下手に知力を得たがために同じ仏の宇宙に存在しながら、ひとり病み法則に楯突く人類なるものだけが蚊帳の外。
さて、いわゆる「人類」に対応する文脈での「動物」から別の意味の動物であるところの「女の人」に話を戻さねばならない。
動物のメスにオスを挑発する行動はどのくらいみられるのだろうか(←戻ってないし)。翻り、人間のメスのオスに対する、とある挑発行為が動物の本能の範疇を超えたものなのかどうかはよく分からない(竹内久美子さんに訊いてみなくては)。だが、男のそれについての疑心暗鬼の想念が我執によって発現することはまあ確信できるだろう。
女の人のどんな言動が我執に拠るものなのか、本能と我執の線引きをせねばならぬが、いま筆者において具体的にそれを示すことが難しい。分からなくなってしまった。
女が男の目を自分に向けようとする具体的な手練手管はそもそも本能によるものだろう。そしてそのひとつひとつの言動から自ら発現させる想念こそがだから執着心なのだ。あるいはしかし、すでにその手練手管は我執がその方法論を決定しているのだろうか。(竹内久美子さんに教えてもらわねば・・・)。
ともあれ、女は女でそれなりの我執を以って採る言動が男を翻弄する。翻弄される男にしたってさらに強い我執によって女を思い通りにしようと謀る。それらはなにか事件でも起こさない限り、男と女のラヴ・ゲームとしてこの社会に普遍的に容認され、「つらい恋だから」「波に向かって叫んで」みたり、我々はし続けるというわけだ、ほのぼのと。
本来の法界体正智宇宙にあってはそんな甘酸っぱい恋のクオリアなど生まれ得ない。我々神の被造物はただひたすらこの至福の空間の中でそれに従い生成する以外にその方向性を持たない。時に発情するものの(山城新伍によれば10分に1回)、与えられた役割を終えればまた元の至福の海に浸るのである。
女はどうしたいのか。男はそれをどう観るのか。それぞれ共に真理に遠く、目はそちらを向くことがない。
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前稿ではサイババの御言葉もただ切り取って載せただけでは場合によって真理に連なる意味を見出し難いことを言った。そして、パロディとして載せた分の方が我々凡夫の日常を観察しただけのことでありながら、よほど深い意味を提示し得るというところを解説したのが本稿である。