ジャズと密教 傑作選

ジャズと密教 傑作選

空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

ゴンチチのラジオ番組(NHK-FM土曜朝9時~)。「過渡期」について思うところがあるかという設問。

 

ぼくの思い出すのは油井正一の発言に対する中村とうようの言い分。

 

マイルス・デヴィスの「オン・ザ・コーナー」(72年)から次作の「ライヴ・イン・コンサート」(73年)辺りの作品について油井は過渡期と評したが、過渡期というのはあとになってそれを振り返った時に使う言い方であって、いまの時点でマイルスをどう見るかとなればそれは試行錯誤と言い表すべきと中村は異を唱えたのだった。

 

        ※        ※        ※

 

番組でゴンチチはなんと、そのマイルス・デヴィスの「マイルストーンズ」を紹介する。

 

それは58年のオリジナル吹込みから時を経て吹き込まれたバージョン。電気楽器も取り入れた、69年のビッチェズ・ブリューを所謂エレクトリック・マイルスの完成形とするならば、紛う方なき過渡期の作品といえる曲であった(ウェイン・ショーターも吹いていて、67~68年頃の録音と思われる)。

 

この曲についての雑感を述べるうち、ゴンザレス三上の口からは試行錯誤の語も出て来る。

 

試行錯誤を乗り越えてこそ、過渡期などと平安な論評を加えてもらえるというわけ。

 

「ジャズの帝王」の座にふんぞり返ったりせず、一から新しい音楽に取り組もうとするマイルスは偉いなあ、というお話でした。

 

 

 

 

「わたしの金歯」というタイトルの歌がある。

 

それを紹介するMCのゴンチチも言う。これ、なんですかねえ。この歌の内容ですけど。わたしの金歯って、なにを言おうとしてるんですかねえ。

 

パブリックな英語でもないこの歌の歌詞の言い表すところをぼくももちろん、誰もが量りかねるのだった。

 

金歯は金だけあって貨幣に換算できる。金歯を持つその人がどういう人であれ、その人の口の中には、それなりの金銭的価値が否応なしに存在しているのである。

 

なにかあった時には、よし、そうだ。この金歯を金に換えてどうにかしよう。

 

そんな事態は早速起こり、一文無しの彼は自分の金歯を売ってはした金を得る。彼はその日の食事にそうしてありつくことが出来たのだった。

 

ん?だが待てよ。歯というものを退けてしまったら買ってきたその食べ物をどうして胃袋まで送り届けることが出来るだろう。

 

腹が減ったが金がない。仕方がないから金歯を売って金を作ろう。そうして食い物は手に入れたものの、今度は歯がなくて食うことが叶わない。

 

おお、なんか中国の故事みたいな話になって来たぞ。

 

教訓は・・・えーと、あれだ、ものを先まで考えない安直な策は失敗を呼ぶ、とか。なんだよ、やらなきゃよかったじゃねえかって、よくあるでしょ?ないか。

 

 

 

 

 

仕事のある土曜の午前中、車のラジオからはピーター・バラカンのウィークエンド・サンシャイン(7:00から)、ゴンチチの世界のなんとか音楽(9:00から)という番組が続けて流れてくる。

 

でも、仕事中ゆえ、これから曲が始まるというところで車を離れなくてはならないというようなことが多く、聴き逃し配信に頼るようになった。

 

というわけで家に帰ってから日曜にかけては大友良英のジャズ・トゥナイト(23:00から)も加えて三つの番組を聴き逃し配信で聴くのである(ついでに歌謡スクランブルや夜のプレイリストも内容によって)。

 

土曜の三つの番組のパーソナリティ(及び聴取者)はそれぞれ他のふたつの番組の存在を知っていて、番組中に言及することもある。

 

そして最近、ディスカバー・ビートルズⅡという番組(日曜の13:00から)を知り、専門的な解説が興味深くて聴くようになった。きょうはポールのベース・プレイに焦点が当てられる。ポールは根音を弾かない。コードがCだったらCを弾かず、Gを弾くというような話。

 

似たような話を聞いたばかりじゃなかったかと頭を巡らしてみると、ゴンチチの番組でジャコ・パストリアスのベースについて「ルーツを避けている」と三上さんの解説があったのを思い起こす。

 

根音(ルーツ)を弾かない。ルーツ(根音)を避ける。

 

まあ、今どき、Cのコードでそのままドミソを押さえるやつなんていないってか。

と、そういうこと。先鋭的な音楽家の創意によって音楽は俄然、スリリングで爽やかな響きを獲得するのであった。

 

大雑把な言いようだが、花粉症によくない食べ物のひとつにチョコレートが挙げられていた。炎症誘発食品のひとつなのだそう(他に砂糖、精製穀物、乳製品、アルコールなども)。まあ、ある人がそう言っていたという話だが。

 

あれ?ちょっと待って。2月14日に大量のチョコレートが日本中にばら撒かれ、ちょうどその頃から花粉が国土を覆い始めるってわけだろ。

 

ははあ、分かった。バレンタイン・デイってのはあれだ、お菓子屋の陰謀だとかみんな言ってたけど、ほんとは医者と薬品会社による、そんなのよりもずっと密かで周到な(陰湿な)企みなのだな。違うか?

 

 

 

 

しょこたんとそれに迎合する連中のラジオがいやでAMに切り替えてみたが、そっちではどこかの隣国のアイドルみたいなのが出ていて自分とこの言葉で会話をし始め、日本の司会者もそれに相槌を打ったりする。それがしばらく続くとぼくはその光景におかしさを感じ始める。

 

ここは日本だぞ、と言ってはいけないか。少なくともずっと日本で暮らしてきたこのぼくは、その日常生活の中にあるはずのラジオの会話を理解できないでいる。もちろん〇〇語講座の内容がちんぷんかんぷんなのは単にぼくの脳みその問題に帰すべきことと言っていいが、これはそういうのとはちょっと違うだろ?

 

ははは、なに言ってるか分かんねえや。でも、多様性を認め合って仲良くしよう、分断は回避しなくちゃいけない、などとのほほんとしていていいのだろうか。

 

日本はどこかの隣国に侵食されつつある。きれいな水の出る土地が買い漁られ、息のかかった議員たちがなにごとか画策する。

 

もしそうだとしたら、いつの間にかラジオやテレビで流れる会話やなにかは知らない言葉で埋め尽くされ、ぼくらはその内容を理解するのに相応の手間暇をかけなくてはならなくなる。

 

ラジオ番組の件はこのような想像をもたらす。

 

他の分野でももちろん同じようなことが起こる。

(日本語の歌がなくなるとかさ)

(豆腐の売り場がキムチに替わってたりとかさ)

(ユニクロのデザインが微妙に変化したりとかさ)

(ヨドバシカメラの店内放送が中国語、英語、日本語の順になるとかさ)

 

それに対応できないという向きはそれらとの関係性から完全に排除されなくてはならない。そういう近未来が絶望的に我々を待っている。

 

ここは日本じゃなかったのか。

 

イーロン・マスクみたいな話だ。新たな母国語や生活習慣(価値観)を受け入れるか、いやなら3か月分の給料と富士山の写真(あるいは天照大神の絵像)を手に日本の国土をあとにするか。

 

 

 

 

 

女っていう生き物は普段どんなことを考えてなにをしたがっているのだろう。一方の男の方はといえば至極単純である。山城新伍によれば「男ってのは10分に1回はいやらしいことを考えてる」そうで、頭の中は食う寝るやる以外ない「ただの動物」という分かりやすい単純さ(それが悪いとは特に言っていない)。

 

翻って女の人というのはずっとミステリアスなのではないか。なにを考えているか、というよりその事柄をどういう風に考えるか捉えるかというところがミステリー。とはいえ、そもそもなんだかよく分からない異性というものを見るからミステリーなんて言うけれど、当の女の人からしたら別に普通に欲求の生起と発露があるだけのことなのかも知れない。

 

いずれにせよ、女の人も千差万別、十人十色、いろいろとその持つ感覚の違いがあって、さらにはその全員にそれぞれパートナーがくっついてるとすれば、男の性格もそりゃ様々なわけだから、男ってなものから見た女の人のミステリーぶりといったら、その混沌とした疑念の全体的蓄積という視点で考えてみると、鬱積したその想念は地球上の火山をいくつか大噴火させるくらいのエネルギー量なのじゃないだろうか。

 

ところで、世俗の界隈に在っていつだって起こるところの「男と女の物語」だが、悩み苦しみつらい恋とか、心の問題がそこに至るにあたってあるとするなら、それは実に人類(だけ)の持つ我執というものに起因していることを覚えておかなくてはならない。

 

我執とは唯識学にいうところの第七末那識に蓄積される、人類も本来持つ仏性(第九菴摩羅識)を覆って、その言動を歪めてしまう執着心のこと。そもそも自他を別けるだけの知性を下手に持ったがために、その人類だけに発症してしまった病理なのだというところが筆者の考察。

 

動物の性愛に我執はない。衝動が起こり、やることやって終われば平常心に戻る。自他を別け、そこから所有欲みたいなものも生まれ、故にこそ湧起する「近頃、化粧が濃いんだよな、怪しいじゃねえか」などをはじめとする、人類にあってのみ見ることのできる感情的な状況認識はこれを一切持つことがない。

 

動物は人間と比べて頭が悪いので、そのような状況認識を持とうと思っても持つことが出来ない(と言う前に持つ気もない)。だからと言って一方でそれを持つ人類の感情的判断が優位的に正しいということにはならない。そういう理路はない。正しいはずがないとむしろ断定してよいのである。

 

この動物と人類の対比というのは、動物と違って人類には叡智が与えられているのだから、どうか帰依者の皆さん、動物のような衝動に支配された言動はこれを慎みましょう(欲望と自制の対比とか)、というサイババの言説に対して疑義を抱く筆者の持論であり、そしてそれは山川草木悉皆成仏という既存の用語に「すべては仏の下にいる(成仏)。人間以外は」という拡大した解釈を付け加えることともなる。

 

下手に知力を得たがために同じ仏の宇宙に存在しながら、ひとり病み法則に楯突く人類なるものだけが蚊帳の外。

 

さて、いわゆる「人類」に対応する文脈での「動物」から別の意味の動物であるところの「女の人」に話を戻さねばならない。

 

動物のメスにオスを挑発する行動はどのくらいみられるのだろうか(←戻ってないし)。翻り、人間のメスのオスに対する、とある挑発行為が動物の本能の範疇を超えたものなのかどうかはよく分からない(竹内久美子さんに訊いてみなくては)。だが、男のそれについての疑心暗鬼の想念が我執によって発現することはまあ確信できるだろう。

 

女の人のどんな言動が我執に拠るものなのか、本能と我執の線引きをせねばならぬが、いま筆者において具体的にそれを示すことが難しい。分からなくなってしまった。

 

女が男の目を自分に向けようとする具体的な手練手管はそもそも本能によるものだろう。そしてそのひとつひとつの言動から自ら発現させる想念こそがだから執着心なのだ。あるいはしかし、すでにその手練手管は我執がその方法論を決定しているのだろうか。(竹内久美子さんに教えてもらわねば・・・)。

 

ともあれ、女は女でそれなりの我執を以って採る言動が男を翻弄する。翻弄される男にしたってさらに強い我執によって女を思い通りにしようと謀る。それらはなにか事件でも起こさない限り、男と女のラヴ・ゲームとしてこの社会に普遍的に容認され、「つらい恋だから」「波に向かって叫んで」みたり、我々はし続けるというわけだ、ほのぼのと。

 

本来の法界体正智宇宙にあってはそんな甘酸っぱい恋のクオリアなど生まれ得ない。我々神の被造物はただひたすらこの至福の空間の中でそれに従い生成する以外にその方向性を持たない。時に発情するものの(山城新伍によれば10分に1回)、与えられた役割を終えればまた元の至福の海に浸るのである。

 

女はどうしたいのか。男はそれをどう観るのか。それぞれ共に真理に遠く、目はそちらを向くことがない。

 

         ※       ※       ※

 

前稿ではサイババの御言葉もただ切り取って載せただけでは場合によって真理に連なる意味を見出し難いことを言った。そして、パロディとして載せた分の方が我々凡夫の日常を観察しただけのことでありながら、よほど深い意味を提示し得るというところを解説したのが本稿である。

 

 

 

 

 

「どこに行っていたの?」と

母親に聞かれたら、

息子はごまかしてはいけません。

真実を語り、

何か間違ったことをしてしまったのなら、

それを正直に

言わなければなりません。

 

いまも毎日配信されるサティア・サイババの「今日の御言葉」

ひとつの文章から数行を切り取って編集されるので全体の文脈を量りかねることもある。もちろん、その数行だけで意味が十分に示されるという編集者の判断があるわけだが、場合によっては深い意味を読み取ることのできない通り一遍の垂訓に堕してしまう。これなどその一例と言えまいか。

 

「どこに行っていたの?」と

夫に聞かれたら、

妻はごまかしてはいけません。

真実を語り、

何か間違ったことをしてしまったのなら、

それを正直に

言わなければなりません。

 

もちろん、正直に言ったからって許してもらえるとは限らないわけだけど。

     

 

 

 

 

あくまでも報道に依るところを以って観ればだが、あれよあれよのオミクロンといった態。国内最初のひとりが確認されましたと言っていたのはついこないだのこと。何万人だとかになってくるともうなんだか分からないが、この事態に米軍によってそれが持ち込まれたという経路はどの程度の比重を持つのだろうか。今となっては全ての発端は米兵であるなどと断定もし辛いのかも知れない。

 

とはいえ水際対策の例によってのざるぶりを顕わにしてくれたのがその基地方面で起こった感染事例なのである。そのことは少なくとも我々に於いて共通の認識であって、それを知らされた我々全員は大きくあきれ果てたのだった。なにやってんだか。

 

ざるを手に海岸に出かけていく日本の指導者層の間抜けぶりもひどいものだが、(自らの属国的立場を自覚して諦めていたのかも)、米側の不道徳さ加減も我々に理不尽な思いを抱かせて余りある(属国だと思っているんだろうね)。

 

トランプの口撃に対して、持ち込んだのは米軍だと中国は言ったのだったが、その世界的常識に照らして荒唐無稽とも言えるその見解はむしろ日本に於いての事実を言い当てていたのではないか。

 

全くどこがどう同盟国だって言うんだよ。

 

その中国もこれまたあの調子だし(ウイグルも香港も台湾も日本にとって他人事ではない)。

 

日本を属国扱いするアメリカ。尖閣以前から水面下でじわじわと占領を始めつつある中国。どっちもどっちで、こんな連中とこれ以上関わりを持ってはいけない。すぐにでも国交はこれを断絶すべきである。と強硬な思いに駆られるだろうか。

 

困った事態であり相手は困った国だ。しかしながら長いスパンでものを見た場合、簡単な決断をすべきではない。過去から未来に渡る彼我の動向を考えに入れて戦略を練らなくてはいけない。

 

そうしてなによりも忘れてはならない大事なことに我々は思い至るのである。

 

そう、もしこれまで大陸と文化的関係を持たないで来ていたら、今の日本にラーメンと餃子はなかったのである⦅もうひとつ仏教というのがあるけど、こっちはなにも中国なんか経由しなくたって空海が直接インドに行ってサイババから法統を受け継ぐのでむしろそっちの方がいい(ごめんね恵果さん)⦆。

 

一方、日本がアメリカという国を知らなかったら、あるいはアメリカという国がなかったら、「スイングする」などと表現されたこの類まれなリズム感覚を持つジャズなる音楽が日本に入って来ていないのである。

 

とんでもない事態だ。炒飯や餃子くらいなら他に食いものなんていくらでもあるのでそんなに困りもしないけど(ラーメン店とかいう場所にあって流行りものに追随せずにはいられない味音痴の人たちの行列を目にしなくて済むのでむしろ精神衛生的に助かる)、もし歴史上ニューオリンズという町が存在しなかった場合、ジャズに替わる音楽をこれまでの世界的にさまざまな音楽形式の交流と発展の中からどうやって発明できるのだろうか。

 

キャノンボール・アダレイの艶やかな音色。舌使いと関連があるのか特徴のあるフレージングとそれによって生み出されるスイング感。ウェイン・ショーターのくぐもったような音色と不可分に紡ぎ出されるフレーズ。それはグループ・サウンドにまで寄与する。チャーリー・パーカーをはじめ、これらは真言宗読本に記されるところの遊戯神変の境地に達した得難い人類文化である。

 

と、そんなところで尻切れとんぼ。

 

 

 

餃子はビールのお供のひとつだが、ラードを混ぜ込むのはやめてもらいたい。どうしてこんなレベルの低いお願いを消費者側からしなくてはならないのだろうか。せっかくの料理になんでこんないかれた工程をわざわざ加えるのか。それは作っているのが料理人ではなくへっぽこ経営会議だからだ。

 

餃子の代替料理について。日本民族の模倣発展気質はさておき、いちご大福みたいな奇天烈なアイディアが生まれる土壌があるなら、餃子がもしなくても具と皮を使ったなにかうまい料理を誰か考え出すに違いない。

 

炒飯の代替料理について。イタメシに漢字をあてると炒飯になる。そういうわけでピラフをフライパンで炒めて出せば、これ紛う方なき炒飯(イタメシ)ではないか。

 

ラーメンの代替料理について。どん兵衛きつねうどん。

 

 

 

 

 

演歌業界(「業界」の語を特に強調したい)のどこがよくないかと言えばその持つところの「お仕事体質」である。彼らは「仕事」としてそれをやる。

 

そう、仕事。生業。

 

そもそも人はなんであれそれが好きだからやりたくなるのである。野球が好きならやればいい。ジャズを演りたいと感じたら演ればいい。誰だって好きなことをやりたいと思ったときにやろうとするのがその本質的行動原理だ。

歌を歌うなんて最も分かりやすくそのことを示す事例だろう。

 

さて演歌の人たちはその辺りどうなのだろうか。わたしにはとてもそうしているように思えない。興行の中の役割としてそれをやっている。演歌の場合に限って押し並べてそう見えるとしたら、それはそれが業界の持つ体質に他ならないからであろう。

 

もちろんどんな芸術分野だって「仕事」の部分が必ず介在する。しかし「仕事」が先行するなら本末転倒ですよね。

 

そのような結果、出来あがってくる作品には必然性が感じられない。

 

ところでこの場合において「必然性がない」という表現は読み手にどのように伝わるだろうか(←わたしの思いは多分伝わらないという意味です)。しかしながら、語彙不足のうえ、そしてそれ故にか判断材料の未分化があったのでは、「必然性」くらいの言葉しか提示できやしない。

 

まあ、音楽を聴いていて必然性を感じない、あるいはその動機性について違和感を抱くというのは、その説明は難しいものの、書き手の現時点においてはなんら瑕疵なき表現である(と断言)。

 

だって、聴いてそう感じる(←どう?)のだからそれで話はすべてじゃないか。・・・と、そう言っておくことにしよう・・・。