ジャズと密教 傑作選

ジャズと密教 傑作選

空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です

大洋に入った右田投手が巨人の星はSFですと語ったことがある。

 

第1話から早速、家の壁に空けたボール大の丸い穴を介して外の木の幹とキャッチ・ボールをするという驚天動地の創作が登場するが、第2話で登場する大リーグ養成ギプスやその後の大リーグボール1~3号を含むそれら荒唐無稽なエピソードも、メジャー・リーグの大谷翔平という現代の現実を見せられると、少年マガジンの連載を毎週心待ちにしていた当時とはその世界観に接する感覚が異質なものと化していることに思い至る。

 

いや、待てよ。経緯をたどってみよう。‛95年に野茂がメジャーのドジャースで投げ始めたその時、彼我の力関係の現状を捉える感覚はすでに我々において、大きく変わっていたのではなかったか。今や物語のスケールは初めから違っているのだった。野茂が先鞭をつけた水準の変容は数年のうちに、彼のヤクルトからでさえ、何人も(吉井、石井、高津、岩村、五十嵐、青木)が海を渡った、というくらいに普遍的な膨らみを見せた。

 

これは隔世の感と表現すべき事態なのだろう。

 

だが、それはそれとして、それを超えたケースがひとつ存在するということなのだ。大谷のメジャー・リーグにおける様相を巨人の星という創作上の人物設定と並べて見たとき、そこに留まらず、ひとつの違った感想が惹起する。

 

あまりにも突出したその姿に、まるでSF、と漠然とした未踏の感覚が両者を貫いて脳裏を染める。

 

“願望実現曼荼羅”を書き記して実行するや、メジャー・リーグのレベルにあっても、言わば「4番でピッチャー」の数値内容をテレビ画面のこちらに提示して見せる日本人青年のユニフォーム姿は実像なのである。

 

まるでSF。これはまあ、人間じゃなくてユニコーンだ、とか異次元の・・・と異口同音にみなさんが言っているのと同じことなのだろう。

 

巨人の星は方法論こそ荒唐無稽だが、「巨人軍の星」を目指した野球少年の立身出世譚であり、その意味では野茂も石井一久も「ドジャースの星」を、高津臣吾は「ホワイト・ソックスの星」を実現したのであって、時を経れば実力も価値観も変われば変わるものだと、これはまた同時に思うところ。

 

ところで、星飛雄馬を名付け親に持つエンゼルスの菊池雄星の調子が上がらない。ここは山本由伸のSFニンジャ投法「やり投げ」を脇に見据えつつ、大リーグボール3号の習得を目指すのもひとつの考えではないだろうか。

 

 

※ YouTubeでメジャー・リーグのハイライトを見ていたら、偶然(←そう?)

  巨人の星のアーカイヴが現れたのでした。

※ 当方、ヤクルトだけの野球ファンなので、他のチームの選手にあまり興味を

  持ちません。野茂やイチロー、大谷らは特別です。

 

 

 

 

 

ツイッターにパランティアの記事が目に付く。監視国家の様相がより具体的に提示された段階と素人目に思える。いくつかの文章を以下にコピペ。

 

(町山智浩)

高市が会ったパランティアは政府の持つ納税や保険証、自動車ナンバーなどの個人の情報をビッグデータ、SNS、メール、顔認識、携帯のGPSなどと統合して、そこに住むすべての個人の考え方からリアルタイムの居場所まで特定する大規模監視システムを各国政府に売っている会社です。

 

(みつはし | 緊急事態条項=国会機能維持条項の創設は断固阻止)

パランティアが関わるという事は、これから中国共産党もビックリする程の監視社会がやってくるという事ですよ。

それを喜んで迎え入れている所を見るにつけ、独裁を望んでいるんだなと言う事を感じる。

近い将来、政府の事を少しでも非難したら、それだけで逮捕される様になりますよ。

 

(つじ健太郎)

Palantirに関する懸念を理解する上で、ドイツにおける違憲判決を押さえれば大枠を正確に捉えることができる。

ドイツにおいて司法が下したPalantierシステムの問題、それは国民のデータをAIが自動で集めることではなく、

「広い分野のバラバラなデータをAIが勝手に解析し、データのパターン認識から個人に対する判断を下すこと」

ここが問題だと指摘している。噛み砕いて書くと

 

・国家の保有するデータでAIが勝手に国民にレッテルを貼る事

・そのレッテルで権力が国民に制限を加える可能性

 

ざっくりになってしまうが、ここが違憲だと判断された。

 

現在X上で、監視システムだ、特高警察だ、ディストピアだ、といった意見が出ており概ねその感覚は正しいと考えるが、重要なのは「どうやってこの流れを止めるのか?」であり、その為には現代の法解釈においてこのシステムの問題点がどこにあるのかを炙り出す必要がある。

忘れてはならないのは、これは「人権問題」であるという視点だ。

 

AIシステムに私たちの情報を提供することを私たちは許可するのか?

AIシステムが私たちを「評価」することを私たちは許可するのか?

AIシステムの評価で私たちの生活が優遇、または制限されることを私たちは許可するのか?

 

だからこそ、ドイツは違憲判決を下した。どのようなデータを提供するのかは明確に法律で縛られなければならず、そのデータの利用方法に関しても法律で制限する必要があると。

私達の「人権」に明らかに干渉してくるシステムに対して、私達の人権を守る法を整備しろ、という回答を出した。

 

中国を見れば即、私達の懸念が妄想でないことが分かる。国民全員に「信用スコア」をつけた完全監視システムが既に導入されているのだから。

 

町中の監視カメラで国民は監視され、ゴミをボイ捨てすれば信用スコアが下がり銀行ローン審査が通りにくくなる。信号無視も同様。スマホ内部までデータは筒抜け、メッセージの返信が早ければ信用スコアが上がり既読スルーは下がる。生活の隅々まで監視することで「品行方正かつ生産性が高い」国民が自発的に増えていく。

しかし当然、特権階級にはこの仕組みは適応されない。

「国家権力による国民の監視と管理」は目の前に差し迫った現実だと受け入れないのは、お花畑だと言っていい。

 

私たちの世界は明らかに監視、管理、統制による「国家に都合の良い国民の量産」へ向かっている。日本における法制度はスパイ防止法の方向性を確認すればすぐ分かる通り、上記の管理システムを擁護する方向へ邁進している。

止める為にはイメージ論ではなく、明確に

 

「国家による個人情報の一元管理の禁止」

「憲法21条が保障する通信の秘密の厳守」

 

これを私たちは訴える必要がある。

議席数が3分の2を超えているから〜、と言われようがなんだろうが、憲法が保障する私達の権利は私たちが守る必要がある。

ほぼほぼ間違いなく、国民投票による憲法改正議論が起こるだろう。

ならば私達はこの過半数をめぐる戦いに備える必要がある。

 

許せない事に許せないと声を上げる権利と、

国家権力に対して「No」を突きつける権利は、

まだ私達の手にあるのだから。

 

ゴンチチのラジオ番組(NHK-FM土曜朝9時~)。「過渡期」について思うところがあるかという設問。

 

ぼくの思い出すのは油井正一の発言に対する中村とうようの言い分。

 

マイルス・デヴィスの「オン・ザ・コーナー」(72年)から次作の「ライヴ・イン・コンサート」(73年)辺りの作品について油井は過渡期と評したが、過渡期というのはあとになってそれを振り返った時に使う言い方であって、いまの時点でマイルスをどう見るかとなればそれは試行錯誤と言い表すべきと中村は異を唱えたのだった。

 

        ※        ※        ※

 

番組でゴンチチはなんと、そのマイルス・デヴィスの「マイルストーンズ」を紹介する。

 

それは58年のオリジナル吹込みから時を経て吹き込まれたバージョン。電気楽器も取り入れた、69年のビッチェズ・ブリューを所謂エレクトリック・マイルスの完成形とするならば、紛う方なき過渡期の作品といえる曲であった(ウェイン・ショーターも吹いていて、67~68年頃の録音と思われる)。

 

この曲についての雑感を述べるうち、ゴンザレス三上の口からは試行錯誤の語も出て来る。

 

試行錯誤を乗り越えてこそ、過渡期などと平安な論評を加えてもらえるというわけ。

 

「ジャズの帝王」の座にふんぞり返ったりせず、一から新しい音楽に取り組もうとするマイルスは偉いなあ、というお話でした。

 

 

 

 

「わたしの金歯」というタイトルの歌がある。

 

それを紹介するMCのゴンチチも言う。これ、なんですかねえ。この歌の内容ですけど。わたしの金歯って、なにを言おうとしてるんですかねえ。

 

パブリックな英語でもないこの歌の歌詞の言い表すところをぼくももちろん、誰もが量りかねるのだった。

 

金歯は金だけあって貨幣に換算できる。金歯を持つその人がどういう人であれ、その人の口の中には、それなりの金銭的価値が否応なしに存在しているのである。

 

なにかあった時には、よし、そうだ。この金歯を金に換えてどうにかしよう。

 

そんな事態は早速起こり、一文無しの彼は自分の金歯を売ってはした金を得る。彼はその日の食事にそうしてありつくことが出来たのだった。

 

ん?だが待てよ。歯というものを退けてしまったら買ってきたその食べ物をどうして胃袋まで送り届けることが出来るだろう。

 

腹が減ったが金がない。仕方がないから金歯を売って金を作ろう。そうして食い物は手に入れたものの、今度は歯がなくて食うことが叶わない。

 

おお、なんか中国の故事みたいな話になって来たぞ。

 

教訓は・・・えーと、あれだ、ものを先まで考えない安直な策は失敗を呼ぶ、とか。なんだよ、やらなきゃよかったじゃねえかって、よくあるでしょ?ないか。

 

 

 

 

 

仕事のある土曜の午前中、車のラジオからはピーター・バラカンのウィークエンド・サンシャイン(7:00から)、ゴンチチの世界のなんとか音楽(9:00から)という番組が続けて流れてくる。

 

でも、仕事中ゆえ、これから曲が始まるというところで車を離れなくてはならないというようなことが多く、聴き逃し配信に頼るようになった。

 

というわけで家に帰ってから日曜にかけては大友良英のジャズ・トゥナイト(23:00から)も加えて三つの番組を聴き逃し配信で聴くのである(ついでに歌謡スクランブルや夜のプレイリストも内容によって)。

 

土曜の三つの番組のパーソナリティ(及び聴取者)はそれぞれ他のふたつの番組の存在を知っていて、番組中に言及することもある。

 

そして最近、ディスカバー・ビートルズⅡという番組(日曜の13:00から)を知り、専門的な解説が興味深くて聴くようになった。きょうはポールのベース・プレイに焦点が当てられる。ポールは根音を弾かない。コードがCだったらCを弾かず、Gを弾くというような話。

 

似たような話を聞いたばかりじゃなかったかと頭を巡らしてみると、ゴンチチの番組でジャコ・パストリアスのベースについて「ルーツを避けている」と三上さんの解説があったのを思い起こす。

 

根音(ルーツ)を弾かない。ルーツ(根音)を避ける。

 

まあ、今どき、Cのコードでそのままドミソを押さえるやつなんていないってか。

と、そういうこと。先鋭的な音楽家の創意によって音楽は俄然、スリリングで爽やかな響きを獲得するのであった。

 

大雑把な言いようだが、花粉症によくない食べ物のひとつにチョコレートが挙げられていた。炎症誘発食品のひとつなのだそう(他に砂糖、精製穀物、乳製品、アルコールなども)。まあ、ある人がそう言っていたという話だが。

 

あれ?ちょっと待って。2月14日に大量のチョコレートが日本中にばら撒かれ、ちょうどその頃から花粉が国土を覆い始めるってわけだろ。

 

ははあ、分かった。バレンタイン・デイってのはあれだ、お菓子屋の陰謀だとかみんな言ってたけど、ほんとは医者と薬品会社による、そんなのよりもずっと密かで周到な(陰湿な)企みなのだな。違うか?

 

 

 

 

しょこたんとそれに迎合する連中のラジオがいやでAMに切り替えてみたが、そっちではどこかの隣国のアイドルみたいなのが出ていて自分とこの言葉で会話をし始め、日本の司会者もそれに相槌を打ったりする。それがしばらく続くとぼくはその光景におかしさを感じ始める。

 

ここは日本だぞ、と言ってはいけないか。少なくともずっと日本で暮らしてきたこのぼくは、その日常生活の中にあるはずのラジオの会話を理解できないでいる。もちろん〇〇語講座の内容がちんぷんかんぷんなのは単にぼくの脳みその問題に帰すべきことと言っていいが、これはそういうのとはちょっと違うだろ?

 

ははは、なに言ってるか分かんねえや。でも、多様性を認め合って仲良くしよう、分断は回避しなくちゃいけない、などとのほほんとしていていいのだろうか。

 

日本はどこかの隣国に侵食されつつある。きれいな水の出る土地が買い漁られ、息のかかった議員たちがなにごとか画策する。

 

もしそうだとしたら、いつの間にかラジオやテレビで流れる会話やなにかは知らない言葉で埋め尽くされ、ぼくらはその内容を理解するのに相応の手間暇をかけなくてはならなくなる。

 

ラジオ番組の件はこのような想像をもたらす。

 

他の分野でももちろん同じようなことが起こる。

(日本語の歌がなくなるとかさ)

(豆腐の売り場がキムチに替わってたりとかさ)

(ユニクロのデザインが微妙に変化したりとかさ)

(ヨドバシカメラの店内放送が中国語、英語、日本語の順になるとかさ)

 

それに対応できないという向きはそれらとの関係性から完全に排除されなくてはならない。そういう近未来が絶望的に我々を待っている。

 

ここは日本じゃなかったのか。

 

イーロン・マスクみたいな話だ。新たな母国語や生活習慣(価値観)を受け入れるか、いやなら3か月分の給料と富士山の写真(あるいは天照大神の絵像)を手に日本の国土をあとにするか。

 

 

 

 

 

女っていう生き物は普段どんなことを考えてなにをしたがっているのだろう。一方の男の方はといえば至極単純である。山城新伍によれば「男ってのは10分に1回はいやらしいことを考えてる」そうで、頭の中は食う寝るやる以外ない「ただの動物」という分かりやすい単純さ(それが悪いとは特に言っていない)。

 

翻って女の人というのはずっとミステリアスなのではないか。なにを考えているか、というよりその事柄をどういう風に考えるか捉えるかというところがミステリー。とはいえ、そもそもなんだかよく分からない異性というものを見るからミステリーなんて言うけれど、当の女の人からしたら別に普通に欲求の生起と発露があるだけのことなのかも知れない。

 

いずれにせよ、女の人も千差万別、十人十色、いろいろとその持つ感覚の違いがあって、さらにはその全員にそれぞれパートナーがくっついてるとすれば、男の性格もそりゃ様々なわけだから、男ってなものから見た女の人のミステリーぶりといったら、その混沌とした疑念の全体的蓄積という視点で考えてみると、鬱積したその想念は地球上の火山をいくつか大噴火させるくらいのエネルギー量なのじゃないだろうか。

 

ところで、世俗の界隈に在っていつだって起こるところの「男と女の物語」だが、悩み苦しみつらい恋とか、心の問題がそこに至るにあたってあるとするなら、それは実に人類(だけ)の持つ我執というものに起因していることを覚えておかなくてはならない。

 

我執とは唯識学にいうところの第七末那識に蓄積される、人類も本来持つ仏性(第九菴摩羅識)を覆って、その言動を歪めてしまう執着心のこと。そもそも自他を別けるだけの知性を下手に持ったがために、その人類だけに発症してしまった病理なのだというところが筆者の考察。

 

動物の性愛に我執はない。衝動が起こり、やることやって終われば平常心に戻る。自他を別け、そこから所有欲みたいなものも生まれ、故にこそ湧起する「近頃、化粧が濃いんだよな、怪しいじゃねえか」などをはじめとする、人類にあってのみ見ることのできる感情的な状況認識はこれを一切持つことがない。

 

動物は人間と比べて頭が悪いので、そのような状況認識を持とうと思っても持つことが出来ない(と言う前に持つ気もない)。だからと言って一方でそれを持つ人類の感情的判断が優位的に正しいということにはならない。そういう理路はない。正しいはずがないとむしろ断定してよいのである。

 

この動物と人類の対比というのは、動物と違って人類には叡智が与えられているのだから、どうか帰依者の皆さん、動物のような衝動に支配された言動はこれを慎みましょう(欲望と自制の対比とか)、というサイババの言説に対して疑義を抱く筆者の持論であり、そしてそれは山川草木悉皆成仏という既存の用語に「すべては仏の下にいる(成仏)。人間以外は」という拡大した解釈を付け加えることともなる。

 

下手に知力を得たがために同じ仏の宇宙に存在しながら、ひとり病み法則に楯突く人類なるものだけが蚊帳の外。

 

さて、いわゆる「人類」に対応する文脈での「動物」から別の意味の動物であるところの「女の人」に話を戻さねばならない。

 

動物のメスにオスを挑発する行動はどのくらいみられるのだろうか(←戻ってないし)。翻り、人間のメスのオスに対する、とある挑発行為が動物の本能の範疇を超えたものなのかどうかはよく分からない(竹内久美子さんに訊いてみなくては)。だが、男のそれについての疑心暗鬼の想念が我執によって発現することはまあ確信できるだろう。

 

女の人のどんな言動が我執に拠るものなのか、本能と我執の線引きをせねばならぬが、いま筆者において具体的にそれを示すことが難しい。分からなくなってしまった。

 

女が男の目を自分に向けようとする具体的な手練手管はそもそも本能によるものだろう。そしてそのひとつひとつの言動から自ら発現させる想念こそがだから執着心なのだ。あるいはしかし、すでにその手練手管は我執がその方法論を決定しているのだろうか。(竹内久美子さんに教えてもらわねば・・・)。

 

ともあれ、女は女でそれなりの我執を以って採る言動が男を翻弄する。翻弄される男にしたってさらに強い我執によって女を思い通りにしようと謀る。それらはなにか事件でも起こさない限り、男と女のラヴ・ゲームとしてこの社会に普遍的に容認され、「つらい恋だから」「波に向かって叫んで」みたり、我々はし続けるというわけだ、ほのぼのと。

 

本来の法界体正智宇宙にあってはそんな甘酸っぱい恋のクオリアなど生まれ得ない。我々神の被造物はただひたすらこの至福の空間の中でそれに従い生成する以外にその方向性を持たない。時に発情するものの(山城新伍によれば10分に1回)、与えられた役割を終えればまた元の至福の海に浸るのである。

 

女はどうしたいのか。男はそれをどう観るのか。それぞれ共に真理に遠く、目はそちらを向くことがない。

 

         ※       ※       ※

 

前稿ではサイババの御言葉もただ切り取って載せただけでは場合によって真理に連なる意味を見出し難いことを言った。そして、パロディとして載せた分の方が我々凡夫の日常を観察しただけのことでありながら、よほど深い意味を提示し得るというところを解説したのが本稿である。

 

 

 

 

 

「どこに行っていたの?」と

母親に聞かれたら、

息子はごまかしてはいけません。

真実を語り、

何か間違ったことをしてしまったのなら、

それを正直に

言わなければなりません。

 

いまも毎日配信されるサティア・サイババの「今日の御言葉」

ひとつの文章から数行を切り取って編集されるので全体の文脈を量りかねることもある。もちろん、その数行だけで意味が十分に示されるという編集者の判断があるわけだが、場合によっては深い意味を読み取ることのできない通り一遍の垂訓に堕してしまう。これなどその一例と言えまいか。

 

「どこに行っていたの?」と

夫に聞かれたら、

妻はごまかしてはいけません。

真実を語り、

何か間違ったことをしてしまったのなら、

それを正直に

言わなければなりません。

 

もちろん、正直に言ったからって許してもらえるとは限らないわけだけど。