ルカの福音書6:17~23 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*17~19節を読みましょう。

 「使徒」と呼ばれるようになった12人の弟子を選んだ後、山を下りてゆくと、各方面からイエスさまを追ってきた群衆に出会いました。彼らは、これまでに行われた奇跡のうわさを聞き、自分も病や悩みをいやしてもらおうとして、やってきたのです。19節の「群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた」という表現に、彼らの熱心さが伺えます。イエスさまはこの熱意に応えて、そこに集まった「すべての人をいやし」ました。しかし、イエスさまは “病人をいやす” ことや “悪霊を追い出す” という奇跡を行うためにこの世に来られたのではありません。また、人間にとって本当の幸いとは、健康を手に入れることや、豊かになることではないことも教えるため、“4つの幸い” と “4つの哀れ” について語り始められました。

 今回は前半の “4つの幸い” についての教えを見ていきましょう。

*20節を読みましょう。

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。」

 最初に挙げられた “幸い” のケースは「貧しい者」です。これは一般常識とはかけ離れた考えです。多くの人はお金に弱く、お金によって安心や喜び、余裕を手に入れられると考えています。なので、貧乏よりお金があった方がいい、“裕福 = 幸い” と安易に考えてしまいますが、神さまはそうは言っておられません。

 ここでの「貧しい」とは、物乞いをしなければ生きていけないほどの貧しさのことで、“全面的に誰かに依存しなければならないほどの貧しさ” を表すことばです。

 なぜ、そのような人が幸いなのでしょう? それは、本来の人間の姿だからです。

 最初に造られた人間アダムは、エデンの園という素晴らしい環境が整った状態で創造され、何の苦労も心配もなく生きることができるようにされていました。すべての必要を神さまが満たしてくださり、アダムもすべてのことを神さまに依存して生きていたのです。

 “依存” というと、様々な “依存症” と呼ばれる病的状態を連想し、良くないイメージがあるかもしれませんが、人間は本来、神さまと共に生きるために造られたので、神さまに信頼し、従う性質を与えられていました。しかし、サタンにそそのかされて「自分も賢くなりたい」そして、「いちいち神さまに聞くのではなく、自分ですべてを判断し、自分のいいように人生を歩みたい」と、神さまから離れる道を選んでしまったのです。それが “罪” の始まりです。その結果、いのちあるものは死ぬようになり、生きている間、食物を得るために汗水流して働かなければならず、あらゆる心配や悩みに苦しめられるようになったのです。それは、神に頼らず自分の力で生きていく、という人間の選択が招いた苦しみです。

 神さまに依存することを拒んでおきながら、人間はいろんなもの(人)に依存して生きています。しかし、そこから本当の満足を得ることができずに空しい日々を過ごしているのです。ここでいう「貧しい者」とは、自分で自分を生かす力はないこと、本来の人間は神に依存して生きる存在であることを認めて、神さまに頼る人のことです。そして、その人に与えられる報いは「神の国」と言っています。この「国」とは、“国家” を指すのではなく、“支配” という意味ですので、求める者の心を、力ではなく愛で支配してすべてを満たしてくださる、ということを意味しています。

*21節を読みましょう。

「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。」

 次に挙げられているのが「飢えている者」です。これは空腹などを指すのではなく、「義に飢え渇いている人」(マタイ5:6)のことで、「義」とは、“神さまとの関係の正しさ” を表すので、それを求める人のことです。

 私たちは、救いを受けた後も相変わらず罪を犯すし、愚かなこともします。それによって一度受けた救いを失ったり、取り上げられるなんてことはありませんが、「全部赦されているから」と、罪をそのままにしておくなら、神さまとの関係に壁ができてしまいます。しかし、その都度、神さまに自分の罪や過ちを告白して悔い改めるなら、その壁は取り除かれ、神さまとの関係も回復されるのです。そのように、罪の誘惑に弱く危うい自分の状況を認めて、神さまとの関係を壊してしまう罪から離れたい、神さまに近く歩みたいとの願いを持つ者、それが「飢えている者」なのです。その人に与えられる報いは「満ち足りる」こと。これは、神さまがその人の弱さの中に働いて強めてくださることを意味しています。

「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」

 次は「泣く者」です。これも一般的な理解とかけ離れています。多くの人は、泣いて過ごすよりも笑って過ごしたいと思うし、涙より笑いを求めています。

 普通、泣く(涙を流す)時は、悲しい時や悔しい時など、少し暗い感情の時でしょう。では、悲しい経験をすることが幸いだと言っているのでしょうか?そうではありません。ここで言っている「泣く」とは、悲しみや悔しさに涙流すことではなく、“罪に対して” 涙を流すことを指します。第一は自分の罪に気付かされ、それを悲しみ嘆くことです。そして、その人に与えられる報いは「笑い」だと言っています。なぜなら、罪を認めて悔い改める者をイエスさまは赦して救い、新しい心と助けを与えてくださるからです。つまり、この「笑い」は、面白いものを見聞きし、愉快に笑うことではなく、究極の悲しみである罪の解決を頂くから、心に喜びが満たされるという意味での「笑い」なのです。

*22~23節を読みましょう。

 四つ目(最後)の “幸いな人” は「人の子のため…憎まれ、けなされる」人です。この「人の子」とは、人の姿をとってこの世に来られたキリストを指し、この方のために「憎まれ…けなされる」とは、キリストを信仰しているという理由で迫害を受けることを意味します。

 この福音書の時代(イエスさまが地上におられた時)の弟子たちには、身に危険を感じるような迫害は起こりませんでしたが、使徒の働きの時代(イエスさまが天に昇られた後:教会時代)になると、激しい迫害が各地で起きました。

 日本でも、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた後、キリスト教を禁止し、徳川家康もその思想を継承したことから、長期間に渡ってキリシタン迫害が公に行われてきました。それは、単に嫌がらせを受ける程度のものではなく、囚人のように捕らえられ、さらしものにされながら死刑を執行されていくというむごいものでした。「キリストを信仰しない」と告白すれば殺されずにすむという救済策をちらつかせ、信仰を捨てるように迫られるので、いのち惜しさに、あるいは恐怖に耐えかねて、信仰を捨てることを選ぶ者もいたのです。しかしイエスさまは、迫害される人は「幸い」なのだから、その時には「喜びなさい。おどりあがって喜びなさい」と言われます。これは「喜んでしまいなさい」という意味で、自分の感情は喜べなくても喜ぶ決心をしなさい、という意味です。とても喜べない状況で、なぜ喜ぶべきなのでしょう?

 なぜなら、それは人にではなく神に従っていることの証拠であり、昔の信仰者たちは同じ苦しみを味わいつつも、信仰を守り通したという前例があり、そのような者たちに対する「天での・・・報いは大きい」からです。

 「天での報い」と言われても、そんなはるかかなたのことより “今” 生きるか死ぬかを迫られていたら、命乞いをしてしまうのが世の常でしょう。それは、私たちが見えるものの世界で生きているからです。「天」とは、神さまのおられる世界で、人間の目には見えない世界のことです。また、「天での報い」とは、やがて受け取る神さまからの報いのことです。

 どんな人も、いつか必ず死にます。そして、死ぬと共に創造主なる神の前に立たされ、「行いに応じてさばかれる」(黙示20:12)のです。その先は “永遠” の世界が始まります。罪を持ったままであれば、“永遠の地獄” へ行くのです。それが最終決定であるので、刑期を終えて天国へ移される(釈放される)というようなことはありません。一方、罪を赦された者は、“永遠の天国” へ迎え入れられます。それが「天での報い」です。

 私たちは “今” がとても大切だと考えてしまいますが、もっと広い視野で人生を見る必要があります。なぜなら、“永遠” をどこで、どのように過ごすのかは生きている間にしかできない、非常に重要な選択だからです。

 ルカの福音書9:24~25には、次のようなみことばがあります。

「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」

 迫害に恐れ、いのち惜しさに、促されるままにキリストへの信仰を捨てる(やめる)ことは、“自分で「自分のいのちを救おう」” とした行動で、それによって殺されずに済み、「助かった」と感じるかもしれませんが、実際は “失って” いるのです。なぜなら、人間は誰も自分で自分を救う力を持っていないからです。私たちにいのちを与え、生きるために罪が赦される方法(福音)をも与えてくださるキリストに “頼る” 道だけが、いのちを “救う” のです。この罪の赦しといのちを頂いているなら、永遠が約束されているので「喜ぶ」ことができるのです。

 

*最後にお祈りしましょう。