*1~2節を読みましょう。
「ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ」
ここであえて「ヤコブ」と呼びかけられているのは、「イスラエル」という名と比較するためです。創世記32章の出来事がもとになっているのですが、あの時「ヤコブ」は砕かれたことで「イスラエル」と改名されます。
「ヤコブ」とは、“だます者、ずる賢い者、かかとをつかむ者” の意味で、ユダの民の肉的な面(罪の性質)を示し、「イスラエル」とは、“神に支配された者” という意味で、ユダの民の霊的な面(新しいいのち)を示しています。つまり、神と断絶していた罪人が、神によって贖われたことで罪赦されただけでなく、神との関係も回復されたことを示すのが「ヤコブ」が「イスラエルの名で呼ばれ」が示す意味です。
「ユダの源から出て」
「ユダ」とは、後に王家の家系となり、さらにメシヤが誕生する部族で、その名は “賛美する” という意味があります。これらが示す通り、本来のユダに与えられた祝福は素晴らしいものでした。
「誠実をもってせず、また正義をもってしない」
「誠実」とは、神の前に裏表のない(偽りのない)態度のことで、「正義」とは、神との正しい関係に基づいた言動のことですが、「~せず、~しない」とあるように、ユダの民はこのようではありませんでした。「誓い・・・呼び求める“が”」とあるように、彼らのささげる賛美や祈りは口先だけのもので、見せかけの信仰者だったのです。
「聖なる都の名を名のり、イスラエルの神に寄りかかっている」
「聖なる都」とは、エルサレムのことです。ユダの民の誇りは、「エルサレムにはイスラエルの神が住んでいる」「エルサレムは堅い城壁に守られている」「イスラエルだけの神である」「私たちは神の民である」というものでした。自分たちが主なる神に不誠実で、慕い求めてもいないのに、都合の良い時だけ「主」を持ち出していました。そのような考えは、信仰ではなく「寄りかかっている」だけなのです。
*3節を読みましょう。
「先に起こった事」とは、これまでのイスラエル民族に起きた出来事のすべてを指します。実に不思議な歴史を辿って来た民族ですが、それは彼らが主を知るため、主を畏れ、従うための特別な取り扱い、導きであったのです。なので、預言や警告という形で予め「告げ・・・聞かせ」た上で、「にわかに / 行い / 成就」させ、異教の神々ではなく“みことば” を慕い求めることを願われたのです。
*4節を読みましょう。
主なる神の誠実に対して、ユダ(イスラエル)の民はどこまでも頑なでした。
「首筋は鉄の腱」とは、頑固さを表します。よく “うなじがこわい” ということばで表されますが、家畜が首筋をこわばらせて御者の指示に従わない態度のことです。イスラエル民族が “うなじがこわい” と表現されたのははるか昔からです。
出エジプト32:9「主はまた、モーセに仰せられた。『わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。』」
申命記9:6「知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」
「額は青銅」とは、図々しくて恥知らずな態度のことです。
*5~6節を読みましょう。
ここでは、これから起こることを予め告げられたもうひとつの理由が語られています。
「『私の偶像がこれをした』…あなたが言わないためだ」
主なる神への畏れと感謝を、偶像に対してささげさせないためです。
「これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか」
イスラエル(ユダ)の民がすべきことは、予め告げられたみことばがことごとく成就する様をしっかりと「見る」こと。そして、受けたみことばを異邦諸国に「告げ知らせる」ことです。実は、このために選ばれた神の民なのです。さらに、ここでは「新しい事 / あなたの知らない秘め事」を告げ聞かせる、と言われています。その内容は7節以降です。
*7~8節を読みましょう。
「それは今、創造された。ずっと前からではない」
ここでの「創造」とは、天地万物の創造のことではなく、“新しい創造” つまり “救い” のことです。その救いとは、罪からの解放(赦し)という意味での救いと、捕囚からの解放という意味での救い、どちらも考えられます。
そして、その救いは、「きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない」とあるように、人間が想像もしない方法での救いであると告げられますが、その通り、罪からの解放(赦し)も捕囚からの解放も、「聞いたこともない」方法で成し遂げられました。
罪からの解放(赦し)は、神ご自身が人の姿を取って地上に降りて来られ、ご自身が身代わりになって死なれるという、誰も思いつかない方法でしたし、捕囚からの解放は、異邦人の王(ペルシャのクロス王)の命令によって捕囚からの解放とエルサレム帰還が成し遂げられるという、これまた誰も思いつかない方法でした。
しかも、このような救いのご計画は急に思いついたものではなく、昔から、天地創造の初めから計画されていた事でした。しかし、人間には「秘め事」として明らかにされて来ませんでした。なぜでしょう?・・・それは、「ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」から。 さらには、イスラエルの民が「裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていた」からだと言われています。
イスラエルの民は血筋を誇り、血統が神の民であることの証明のように思い込んでいましたが、生まれながらに罪人であるという点では、他の民族と何ら変わりがないのです。
ローマ3:9~10「ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にある…『義人はいない。ひとりもいない』」
それでもイスラエル(ユダ)を滅ぼし尽くしてしまわない理由は何でしょう?
*9~11節を読みましょう。
「わたしの名のため / わたしの栄誉のため」です。
“主の御名” と “主の栄光” を告げ知らせるため、神が神として崇め称えられるため、ということです。主なる神がイスラエルを選ばれた目的は、主なる神を異邦諸国の人々に告げ知らせるためです。目に見えない神を、目に見えるイスラエルという視覚教材を通して “見せる” ためです。 神の視覚教材である故に、イスラエルをさばいて滅ぼし尽くしてしまうのではなく、悔い改めて立ち返ることを求めて懲らしめられたのです。
10節の「銀の場合とは違う」とは、「練った・・・炉で試みた」という表現があるように、イスラエルに与えられた試み(懲らしめ)を、銀を精錬する時の工程にたとえた上で、期待通りに精錬されることはなかったことを告げています。「銀」は精錬されて純度が高まれば、より価値が高まります。また、価値があるからこそ精錬します。そういう意味では、イスラエルの民は価値ある者として創造された一人一人であったはずなのです。それが、主なる神を裏切り、価値のないもののようになってしまいました。そんな彼らが本来の価値を取り戻すためには、「悩みの炉で・・・試み」られる必要があったのです。この「悩みの炉」とは、バビロン捕囚を意味します。
「試み」は、辛い経験ですが、「辛い…」という反応だけになってしまうと、「試み」の意味や目的を知ることなく、何も得るものも無く終わることになります。その時、人は不平不満をつぶやくのです。しかし、「試み」には必ず目的があります。その渦中にいる時はわからなくても、耐え忍び、苦しみを乗り越えた先には喜びと感謝が待っているのです。
「試み」という苦しみや辛さの中にも、主の愛とあわれみはあふれているのです。それに気づくことができる人は幸いです。
Ⅰペテロ1:6「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」
*では、48:1~11を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。