聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1~8節を読みましょう。

 「契約のことば」とは、何を指すのか?それはかつて、エジプトから救出された先祖たちが、荒野において主なる神から与えられた「契約のことば」のことです。

出エジプト19:4~5「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

レビ26:3、12「もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、・・・わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」

 本来、イスラエルは4~5節にあるような祝福を受ける民でした。

クリップ主の民になる

クリップ主が私の神となってくださる

クリップ乳と蜜の流れる地が与えられる

申命記6:3「イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」

 そして、上記の約束は成就したのです。…しかし、その祝福は長続きしませんでした。

「わたしの声を聞けと言って、しきりに戒めてきた。しかし彼らは聞かず…」

 彼らは重大な誤解をしていました。約束の地である“カナンに居住すること”によって「わたし(=主)の民」となると。しかし、主は、「わたしの声に聞き従い…行(う)」ことによって「主の民となる」と言われたのであって、どこに住むかは、“みことばに聞き従うこと”以上に重要ではないのです。主に聞き従うことの延長線上に、祝福(約束の成就)はあるのです。このことを改めて認識し直す必要がありました。

「それで、わたしはこの契約のことばをみな、彼らに実現させた」

 「契約のことば」には、守り行うことによる“祝福、幸い”の約束だけでなく、守らなければ“のろい、わざわい”を受けなければならないことも明言されていました。ここで「実現させた」と言われているのは、後者の“わざわい”の実現です。

レビ26:14、33「もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行わないなら、・・・わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」

 ユダの民が受けている苦しみ、この先のユダの民が受ける苦しみは、誰のせいでもなく、ユダの民が「聞き従わなかった」(=主への反抗、背信)に拠るのだと。だからこそ、彼らにバビロンに抵抗するのではなく、降伏しなさいと命じられているのです。

 主がバビロンを使って懲らしめようとしておられるので、バビロンに抵抗することは“主と戦うこと”になり、バビロンに降伏することは“主に降伏(へりくだる)こと”になるからです。

 エジプトから救出され、約束の地であるカナンへ導かれる途上において「契約のことば」が与えられたことは、イスラエル民族の原点ともいうべき出来事で、子々孫々に語り継がれてきた大切な教えでした。それを今一度、エレミヤによって語り聞かせようとしておられるのは、主がイスラエルに求めておられるのは、“原点に立ち返ること”であることを気付かせるためなのです。

*9~13節を読みましょう。

 では、なぜユダの民は主の御声に聞き従わなくなったのでしょう?

「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある」

 「謀反」とは、主君に対して武力を用いて反乱を起こすことで、支配(権力)を転覆させようとする反逆罪です。日本史だと、本能寺の変などがそれに当たりますが、これは、最初の人間(アダム)が犯した罪そのものであり、私たち誰もが犯し得る罪なのです。

「ほかの神々に従って、これに仕えた」

 「主に支配されたくない!」と「謀反」を起こしたのに、「ほかの神々」に仕えたのはなぜか?

 「ほかの神々」は、仕えやすい神だからです。人間の欲のままに(都合よく)作った神なので、仕えることに苦痛は無いのです。つまり、人間は自分の欲に仕え、自分の罪の力に支配されていることに気付いていないのです。主なる神が与えてくださる救いは、この罪の支配からの解放であり、真の祝福は罪赦されて、主との関係が回復されることなのです。

「彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、…彼らを決して救うことはできない」

 一方、人間が自分の意のままに作った神々は、救いを与えることはできません。

 当時、ユダには「町の数ほど/エルサレムの通りの数ほど」神々の像や祭壇があったと記されています。これは、偶像が民衆の日常に欠かせない存在であったことを示しています。それほど多くの神々に囲まれていたのに、「わざわいの時」に助けてくれる神々はひとつもないのです。これが偶像の究極の虚しさです

*14~17節を読みましょう。

 さばきの宣告の後、主はエレミヤに「この民のために祈ってはならない」と、とりなしの祈りをしてはならないと命じられます。同じ命令(とりなし禁止)は、7章でもありましたが、この先14章、15章でも告げられています。なぜでしょう? 彼らが真に立ち返るためには、あえて厳しい取り扱いを受ける必要があるからです。ここで人情的な思いであわれみを乞うたりしてしまうなら、彼らのためにならないだけでなく、逆に彼らが立ち返る機会を失わせることになるからです。

 「わたしを呼ぶときにも、わたしは聞かない」ということばは、冷たく突き放しているように見えるかもしれませんが、主ご自身が誰よりも彼らを愛し、彼らの姿を悲しんでおられる故の厳しさであることを知らなければなりません。その証拠に、主はユダの民を「わたしの愛する者」と呼んでいます。

 ユダの民が、「わたしの家」(=神殿)にまで偶像や異教の神々への祭壇を持ち込み、主に逆らう行為をしているのに、それを大目に見てあげることは優しさではありません。

 かつて彼らを「良い実をみのらせる美しいオリーブの木」として、約束の地に植えられた(住まわせた)のは主なる神です。植えた方だから、引き抜く権威ももっておられるのです。そして、再び彼らを植え直すことができる方は、主だけなのです。

*18~23節を読みましょう。

 最後の段落は、エレミヤ暗殺計画が企てられていることを、主がエレミヤに知らせてくださったことが記されています。

 「ほふり場に引かれていくおとなしい子羊」とは、自分が殺されることを全く気付いていない様子を示す表現です。つまり、エレミヤにとって、自身の暗殺計画が立てられていることは予想もしなかったことだった、という驚きを示しているのです。

「木と実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」

 「木」とはエレミヤのことで、「実」とは、エレミヤの実績や働きの成果のことです。エレミヤ自身を殺害するだけでなく、彼の記した書物や手紙なども抹殺し、エレミヤの痕跡を少しも遺さない、という計画を立てていたようです。

 しかも、暗殺計画を立てていた人々は、「アナトテの人々」でした。「アナトテ」(1:1)とは、エレミヤの出身地であり、祭司の町です。エレミヤは、バビロンに降伏せよと語っていました。それが、主に降伏することであるからです。しかし、偽預言者は逆のことを言いました。そして、時の王もバビロンに反逆する政策を進めていました。…すると、エレミヤは愛国心が無い“反逆者”扱いされるわけです。そんなエレミヤに対する風当たりの強さは、祭司である身内からも厄介者扱いされる一因となったのでしょう。自分たちの立場を守るために、エレミヤを亡き者にするという決断はそう難しくなかったのかもしれません。

 エレミヤにとっては、身内からの殺害計画ほどショックなものはないでしょう。しかし、エレミヤは感情的になったり、取り乱したりうることなく、冷静に受け止めています。それは、主に目を向けていたからです。

 

*では、11章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 “イエスさまの弟子”という立場に憧れを抱く人々に対して、弟子道の厳しさと覚悟について、二つのたとえを用いて教えられました。今回はそのまとめの部分です。

*33節を読みましょう。

「自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」

 これまで以上に厳しい条件が突き付けられたように見えますが・・・

ここでの「自分の財産全部を捨て(る)」とは、直訳では次のようになっています。

「自分の持っているものすべてに別れを告げる」

「自分のものという執着心に別れを告げる」

 要するに「捨てる」とは、実際的にすべてを処分して手放すことではなく、執着しないと言う心理的な意味での手放すことを意味しています。持ち物に執着するのは「自分のもの」という意識が強いからです。だから、それを失うことは損失であり、失ったり減ることに対して恐れや心配をするのです。しかし、私たちが所有しているすべてのものは、自分の力で得たものではなく、神から与えられたものだと認識するなら、執着することはありません。たとえ乏しくなっても、必要に応じて神が与えてくださると信頼することができるからです。

マタイ6:26「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」

詩篇147:8~9「神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。」

 なので、ここで言われている弟子としての条件は、天の父なる神を信頼している、ということです。

*34節を読みましょう。

「塩が塩けをなくしたら、何によって味をつけるのでしょう」

 私たちの感覚からすると、「塩け」がない「塩」など考えられませんが、どういうことでしょう?

 私たちが使っている「塩」は海水から精製した「塩」ですが、ここでの「塩」は岩塩のことで、しかも、現代とは精製方法も違うので、年月の経過と共に「塩け」が失われていくような「塩」でした。そのような塩分濃度の薄くなった「塩」は使い物にならないので、もともと取られた岩地に「捨てられ」る、というのが一般的でした。

 では、ここでは“弟子”に対してどのような条件が示されているのでしょうか?

 それは「塩」の役割が鍵になっています。

 「塩」は、味付けだけでなく、腐敗防止や殺菌のためにも用いられていました。日本でも、漬物や梅干し、魚の干物など、長期保存するものには大量の塩を使います。また、調味料としても塩味は欠かせないものです。そして、何より重要なのは、生きるためにも塩は欠かせない点です。身近な例で言えば、熱中症予防のためには水と塩を適切に取ることが大切ですよね。

 ここで挙げた“腐敗防止” “味付け” “生きるために欠かせないもの” とは、聖書のみことばのことであり、みことばを宣べ伝える弟子の働きでもあるのです。それを踏まえて、何が求められているのか? 別の箇所に次のようにあります。

マルコ9:49~50「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

①火によって塩けをつけられる 

 ここでの「火」とは”試練”を指します。これは、弟子は楽な道ではなく、多くの試練が待っているということです。その覚悟が必要だというのが一つ目です。

②和合して暮らしなさい 

 「和合して」とは、敵対心や嫉妬心を抱いたりせず、赦し、相手を敬う心をもつことを意味します。つまり、人にみことばを教えたり伝えたりする前に、自分自身が神との平和、人との平和の中に生きるものとならなければならない、ということです。それがみことばに従う生き方だからです。言っている事とやっている事が違う人の言うことを聞く気にはなれませんし、そもそも信頼することもできませんよね。これは弟子に限らず、クリスチャンにも適用する教えです。

*お祈りしましょう。

*1~5節を読みましょう。

 「異邦人の道」とは、“神を知らない民の生き方”のことですが、異邦人のどんな生き方を真似たり取り入れたりしてはならないかについて、続く文節の中で詳しく述べています。

「天のしるしにおののくな」

 「天のしるし」とは、普段見られない天体の動きや現象のことで、日食や月食、彗星の出現などを指します。これらの現象は、現代では日時を算出して観測したり、天体ショーを楽しむ企画なども催されていますが、昔は、何か特別な意味があるのでは…と、拡大解釈しようとしたり、過剰に恐れたりしていたようです。そのような“勝手な解釈”は、占いや迷信などを生み出し、多くの人を根拠なく惑わします。

「国々の民のならわしはむなしい」

 「ならわし」とは、宗教的な背景を持つ伝統や文化のことです。そして「むなしい」とは、中身がないこと、空っぽであることを意味し、人間の作り出した宗教は“実体がない”ということを示しています。特にここでは、偶像の空しさについて詳細に語られています。

 世界中に“神”と呼ばれる像は溢れています。どれも立派で厳かな佇まいをしていますが…、元を辿れば「林から切り出された木」なのです。それを加工したのは「木工」などの職人です。さらに、神々しく見えるように「銀と金」で装飾され、倒れないように「釘」を打ち付けてしっかりと設置されます。始まり、プロセス、完成まですべてが人の手による作品なのです。神とは、自存(何にも依存せず存在)される方であり、創造主(すべてを造られた方)で、いのちと死、すべてを支配しておられるお方です。だからこそ、私たちは神を崇め、神を畏れ、神に頼ることができるのです。しかし、人間の手によって作り出された偶像は、ただの張りぼてです。その姿はまるで「畑のかかしのよう」だと言われています。

 どれほど美しい姿に作り上げたとしても、その目は見えず、耳も聞こえず、「ものも言えず、歩けない」ので、何の助けにもならないどころか、災害の時には人間がかついで運び出さなければならないほどです。一番助けて欲しい時に助けてくれない…これほど空しいことはありません。

*6~16節を読みましょう。

「主よ。あなたに並ぶ者はありません」

 偶像の空しさが語られた上で、真に畏れるべき方はどなたであるのか、真に力ある方はどなたであるのか…。それは「主」であると告げ、どのような点で「並ぶ者はいない」のかが語られています。

① 主は「諸国の民の王」である。

 これは、主なる神はイスラエルだけの神ではなく、すべての人の神であり主である、ということを示しています。

 世界各国に、様々な“神”と呼ばれる存在があり、多くの神話もあります。そして、そこから宗教観や死生観も作られました。それは、本当に多くの神が存在するからではなく、人間が理想の神を作り出し、都合の良い宗教を作ってきた故の拡がりなのです。人間の“欲”の数だけ偶像が存在すると言っても過言ではありません。

ピリピ3:19「彼らの神は彼らの欲望であり」

「主はまことの神、生ける神、とこしえの王」である。

 3~5節にも記されていましたが、8~9節にも偶像の実態、空しさについて語られています。

 名匠の手によって素晴らしい姿に彫刻し、外国の名産地から良質の金や銀を取り寄せて装飾して仕上げられた像は、美しく荘厳な姿をしています。しかし、それは「木にすぎない」のです。つまり、いのちがなく、経年劣化して、いつかは朽ちてしまうものなのです。

「地を造り…世界を堅く建て…天を張られた」方である。

 偶像神は、「天と地を造らなかった神々」であるだけでなく、先ほどから見ている通り、人の手によって作り出された人工物、それが偶像です。どれほど立派な作品であっても、作者の意思と力によって生み出されるのが作品です。そういう意味では、作品は作者を超えることはできません。作者の意のままに、作品は扱われることが可能だからです。・・・とすると、偶像神は人間の支配下に置かれていることになります。もはや神ではないですよね。

*17~18節を読みましょう。

 しかし、ユダは偶像の空しさも、それを慕い求める者の愚かさも悟ることなく、さばきを招くことになります。

 「包囲されている女」とは、バビロンによって包囲されたエルサレムを擬人化した表現です。 主は、エルサレム城壁内にいれば安全だと過信している民に「荷物を…取り集めよ」と命じられます。これは、「旅支度をせよ」という意味で、遠いバビロンの地に捕囚として連れて行かれることを“旅”に見立てて、その準備をするようにと警告しているのです。しかし、この警告は穏やかなものではありません。「今度こそ放り出し」という表現は、「もう時は延ばされない」というような意味で、“さばき”が目前に迫っていることを示すものです。

 かつてない厳しい主の御告げを受けて、エレミヤはユダを代表して嘆き悲しみます。

*19~22節を読みましょう。

 「この傷、この打ち傷」とは、エルサレム陥落とバビロン捕囚によって受ける苦痛のことです。それは、ユダの民が ”主を忘れ、みことばを捨て、偶像礼拝に陥った” 結果であり、何度も罪を指摘されていたにも拘らず、悔い改めようとしなかったので、「いやしがたい」と言っています。

 エレミヤは、これまで主からの御告げを民に告げ知らせてきましたが、民は聞き入れないばかりか、エレミヤを偽預言者呼ばわりし、迫害してきました。そんな酷い目に遭わされてきたのに、エレミヤは自分事のように嘆き悲しみ、罪を告白しています。民の頑なさ、愚かさを嘲笑うのではなく、自分も民の一員として悲しんでいるのです。

*23節を読みましょう。

 しかし、エレミヤは“諦め”の嘆きをしているのではありません。「人によるのではない」という表現の繰り返しは、主の主権に対する信頼と、委ねる信仰の表われです。

箴言16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」

「御怒りによらす、ただ公義によって、私を懲らしてください」

 主に委ね、エレミヤはひとつのことを願い求めています。苦しみが迫り来る中であれば、苦しみからの回避を願いがちなのが一般的だと思います。しかし、エレミヤはそのような求めはしませんでした。

 この先、ユダの民が通らされるエルサレム陥落とバビロン捕囚は、罪のさばきの結果ではありますが、エレミヤは「怒り」ではなく「公義」によって取り扱ってくださいと願い求めています。つまり、苦しみを通らされた後に、“滅び”てしまうのではなく、“主に立ち返る”ことができるようにしてください、ということです。これは、主ご自身が求めておられることで、その“みこころ”を成してくださいと願い求めているのです。

 そして、ここでもエレミヤは「あの人たち」や「不信仰な者たち」などと、第三者の祈りをしたのではなく、「私を」と自分事として祈りました。

 主の懲らしめがどのような意味を持つのか、何が幸いであるのかを理解している者の祈りです。

箴言3:11~12「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」

詩篇94:12「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。」

箴言16:20「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」

 

*では、10章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 “イエスさまの弟子”という立場に憧れを抱く人は少なくありませんでした。しかし、その動機の多くは、イエスさまが救い主であり、神であると認めていたからではなく、知名度も人気も高いイエスさまの側近になれば、自分も何か利益を得ることができるのではないかと思っていたからです。それは、当時の人々の“救い主観”が間違っていたためです。

 人々が思い描いていた“救い”は、ローマをはじめとする“支配者からの解放”という救いだったのです。それは生活の安定やプライドの回復なども含まれます。しかし、イエスさまがもたらす救いは“罪からの解放”であり“罪の赦し”と”神との関係の回復”です。そして、その救いを与えるために、イエスさまは軍馬に乗って勇ましく登場するのではなく、傷だらけの体に重い十字架を背負って自らのいのちを捨てる…という厳しい道のりを歩まなければならないのです。

 理想だけを夢見ている人々に、“神に求めているもの”や“救い主への期待”が間違っていることを指摘するため、弟子道の厳しさと覚悟について、「十字架を負う」ということばを用いて語られ、

さらに、“塔の建築”と“戦略を練る王”という二つのたとえを用いて教えられました。

 先回の最後に見た一つ目のたとえをもう少し詳しく見ていきましょう。

*28~30節を読みましょう。

 「塔」を建築する計画がある時、先ずするべきことの一つとして「費用を計算」することが挙げられています。先回も書きましたが、この「計算」とは、“慎重・正確に判断する”ことを意味するので、どんぶり勘定でざっくり計算することではなく、材料費、人件費、保険料など数量や時間なども含めて算出し、それらの必要を自分の経済力でまかなえるかどうか等、詳細に現実的に計算することを示しています。その計算がいい加減であれば、途中で不足して工事が遅延したり、場合によっては中止しなければならなくなるかもしれないからです。要するに、“できる(可能)” or “できない(不可能)”を、手がける前に判断しなければならない、ということです。

*31~32節を読みましょう。

 もう一つは戦いの作戦を練る王のたとえです。

 一つ目のたとえの解説では触れなかったのですが、二つのたとえに共通していることばがあります。それは「まずすわって」という表現です。この表現もやはり“慎重に、落ち着いて”考えることを意味します。

 二つ目のたとえは「二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるか」と、具体的なシミュレーションをして勝算があるかどうかを考えています。先ほどの「塔」の建築も、多くの人員を必要とするプロジェクトですが、建築と違って、戦争は多くの人のいのちがかかっているので、念入りに準備を進めなければならないのです。たった一言の指令に多くの人が動くのです。なので、「考えずにいられましょうか」という表現を使い、「王」の持つ責任の大きさ、”ひとこと”の重さがどれほどであるかを表しているのです。

 そして、見込みがないと判断した時には、いち早く恥を忍んで敵に降伏し、和解を求めることを決断しなければならない場合もあるので、ずるずると判断を遅らせるわけにはいかないのです。

 

 クリップここまでのポイントをまとめましょう。鉛筆

① イエスさまについてくるならば、利益だけを求めるのではなく弟子になるつもりでついて来なさい、と招かれた。

② 弟子になるためには、その時の感情の高まりだけで決心してはいけない。感情は変わり易いから。

③ イエスさまは支配者からの解放者ではなく、罪からの解放者であり、それが約束の救い主である。

④ その救いには“死”という犠牲が必要。故に、弟子になる者にも自己犠牲という道が待っている。

⑤ 犠牲を払う覚悟を“慎重”に考え、“正確”に判断しなければならない。

 

 人が人生の岐路に立つとき、その選択の基準の一つが損得勘定です。選択をするということは、一方を選んでもう一方を選ばないということなので、必ず取捨選択が生じます。すべてを選び取ることはできないのです。

 そんな時、どう考えるか?よくある傾向としては…

 うーんどっちの方が得か? 

 えー?どっちの方が賢いか? 

 にやりどっちの方が後の人生に益となるか? 

  … しかし、これらは損得勘定なのです。

 このような考え方がすべて間違っているわけではありません。ただ、自分にとっての“損”と“得”が偏っていることはあります。それを自分基準ではなく、

”神さまは何を望んでおられるか”を、“自分にとっての得・益”とし、

”神さまは何を望んでおられないか”を、“自分にとっての損”として判断することが弟子への道の第一歩なのです。

 

*お祈りしましょう。

*25~26節を読みましょう。

「大勢の群衆が、イエスといっしょに歩いていた」

 日常的によく見られる光景ですが、ここではイエスさまが群衆に向かって26節のことばを告げられました。なかなか厳しいことばです。順に見ていきましょう。

 「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹」とは、自分に属する人たち、自分と深い関り(つながり)のある人々のことです。何か問題や困りごとが起きれば、“自分事”として助けたり、代わりに負担したりするような関係にある人たちのことです。

 「自分のいのち」とは、文字通りの意味ですが、特にここでは何にも代えがたい大切なもの、優先順位の最上位であるものの象徴として挙げられています。

 つまり、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹・・・自分のいのち」とは、犠牲を払ってでも守りたい存在が挙げられているのです。

 そして、それらを「憎まない者は」とありますが、ここでの「憎む」は“憎悪”のことではなく、“他と比べて軽視する”という意味で、「わたしの弟子になることはできません」という締めくくりと合わせて考えるとこうなります。

ダイヤオレンジイエスさまの行く先々についてくるということは、何か目的があるはず。

ダイヤオレンジその目的は「弟子になる」ことであるならば、“なんとなく”や“その時の気分”でついてくることは止めなければならない。

ダイヤオレンジ「弟子になる」ことを望んでいるならば、覚悟が必要だから。

ダイヤオレンジその覚悟は、優先順位に現れる。「自分にとって大切にしている存在を犠牲にすることができるかどうか」で見きわめることができる。

*27節を読みましょう。

 「自分の十字架」とは、自分のために神さまが備えられたご計画や使命等、それに伴う苦しみを指します。それを「負う」とは、拒否したりせず“受け入れる”ことを意味します。

 当時、現代のようにテレビやネットなどの情報ツールが無い世界であるにも関わらず、イエスさまは絶大な知名度と人気がありました。それは、今までに見たことも聞いたことも無い奇跡の数々を目の当たりにし、

 驚き「この人は何者だ?」という興味がわいたこと。 

 また、律法学者やパリサイ人、祭司長などの政治的にも宗教的にも実権を握っている人たちに対しても、怖気づくことなく正論をズバッと語られる姿に

 ひらめき「この人は何かやってくれそう!」という期待が高まったためです。要するに、

 目がハート「この人についていけば、生活が楽になるかもしれない」

 キラキラ「腐敗した政治を変えて、住みやすい環境を作ってくれるかもしれない」などの“利益”を期待したのです。

 自分が何かを得るために、イエスさまを求めたのです。

 これは、寝食を共にしていた弟子たちも同様でした。イエスさまの弟子であれば、「将来の出世が見込める」などの下心を抱いていたのです。

 しかしイエスさまは、「わたしについてくる」者は、犠牲が伴うということを告げられたのです。なぜなら、「ついてくる」ということばは、“足跡に従う”ことや、“似た者となる”という意味を含み、「弟子」とは“イエスさまに倣う者”のことを指すからです。

 イエスさまは自分が利益を得ることを求める方ではなく、犠牲を払って与え尽くす方です。・・・であるならば、イエスさまについて行く者も、“自分の利益”を求めず、むしろ“与える者”となることが求められているのです。

 しかし、これほどの覚悟がある人はいません。だからこそ、なんとなく(部分的に)従うのではなく、よく考えてから答えを出すように諭されました。

*28~33節を読みましょう。

 ここでは二つのたとえをもって教えておられます。一つ目は「塔」を建築するたとえです。

 「まずすわって・・・費用を計算」とあるように、思いつくままに勢いで行動を開始してしまうのではなく、最初にすべきことは「計算」です。この「計算」とは、“慎重・正確に判断する”ことを意味します。

箴言19:2「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足のものはつまずく。」

 感情先行で行動してしまうと、問題が発生した途端、ぷっつりとやる気が切れてしまう事があります。だからこそ、いい加減な気持ちや一時的な熱情で行動しようとしていないか? 落ち着いて考える必要があるのです。(つづく)

 

*お祈りしましょう。