聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

 人間にとって最も難しいことは”赦す”ことであると言われています。

 「ごめんなさい」と謝られたら、形式上は赦すでしょう。しかし、それっきりその件を手放すことができるかというと、そうではないこともあります。いつまでも根に持っていたり、次に同じ人とのトラブルが起きた時に「また!」と、前回のことをカウントしていることに気付くこともあります。赦すというのは「ごめんね」⇨「いいよ」というやりとりだけで完結するものではないからこそ、難しいのです。では、聖書はなんと言っているでしょうか。

*3節を読みましょう。

「もし兄弟が罪を犯したなら」

 ここでの「兄弟」とは、家族としての兄弟のことではなく、信仰者同士、同胞(身近な人々)のことを指します。そのような身近な人が、何か良くない言動をしているのを見聞きした時、どう対処することが望ましいかについての教えです。

 相手との関係性にもよりますが、よくあるパターンとしては・・・厳しく𠮟りつける、見て見ぬふりをする、軽蔑して嫌いになる、他の人と共有して、噂話をする・・・などでしょうか。

 しかし、イエスさまはこれらの内、どれでもない対処の仕方を示されました。

「彼を戒めなさい」

 先ず取るべき対応として「戒めなさい」と言われています。その人に罪を自覚させなさいということです。人はそれぞれ“自分の物差し”を持っていて、その”自分の物差し”で自分や他の人を測るので、罪意識には個人差があります。しかし、ここで言っている戒めの基準とは、“自分の物差し”ではなく、”聖書”です。つまり、人視点ではなく、神視点で自分の行動を見た時、罪か否かを判断するのです。その手助けをするのが、戒めるということです。決して頭ごなしに断罪したり、責め立てることではありません。

「そして悔い改めれば、赦しなさい」

 なぜ戒めるのか? 戒める目的は「悔い改め」させるためです。

 「悔い改め」とは、“方向転換する”、“向きを変える”という意味です。どういうことかというと、今まで罪や欲に向いていた関心、自分本位な思いで進んでいた生き方を“やめて”、今までとは反対のことに関心を持ち、反対の生き方をすると決心することです。罪は”死や滅び”をもたらすものであるので、”いのち”をもたらすものに関心を持つこと。自分ではなく、自分を造り、いのちを与えてくださった方(キリスト)に従って生きること。その決心をすることが「悔い改め」です。そういう意味で、反省や後悔とは異なるのです。

 さらに、悔い改めた者に対しては「赦しなさい」と命じられています。

 私たちは、一度の失敗でも赦してもらえないという事例を見てきたので、赦すこと、赦されることに対して難しさを感じています。しかしイエスさまは、条件なしに「赦しなさい」と言われます。しかも、その“赦しの程度”は、私たちの理解を越えています。

*4節を読みましょう。

「七度罪を犯しても・・・七度・・・赦してやりなさい」

 「仏の顔も三度まで」ということわざがありますが、それは、どんなに慈悲深い人でも、何度も無礼なことを繰り返すと、ついには怒り出すということを意味する言葉です。普通なら、一度目は赦しても二度目、三度目となれば赦し難いし、場合によっては一度目でアウトということもあります。しかし、聖書はその限度を超えています。他の箇所には次のように書いてあります。

マタイ18:21~22「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』」

 ここでの「七度を七十倍」とは“490回”ということではなく、“無限に”という意味です。

 なぜでしょう? これには二つの理由があります。

①相手はあなたとの関係の修復(継続)を求めているから。 

 「『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら」とあるように、相手は罪を犯してもなお、逃げ隠れせずに「あなたのところに来る」のは、あなたとの関係を壊したくない思いがあるから、恥を忍んで来たのです。これこそ「悔い改め」なのです。私たちが受けた罪の赦しも、断絶していた神との関係が回復されるという救いを伴うものでした。罪の赦しには関係の回復が伴うのです。

②私たちにはさばく権威も救う権威も与えられていないから

 「赦さない」という思いは、相手を罪に定めたままにし、罰を与えているようなものです。しかし、そのように自分の基準でさばいたりしてはいけないのです。なぜなら、私たちは全てを知らないし、正しい判断もできないからです。罪はその人と神との間での問題です。最終的な判断は神に任せて、人に対する苦々しい思いを手放すこと、「赦しなさい」というみことばに従って相手を赦す決心をすること、それだけが私たちのすべきことなのです。

 

*お祈りしましょう。

*1~2節を読みましょう。

 「祭司・主の宮のつかさ・監督」とは、神殿管理者の長(最高責任者)のことで、「これらのことば」とは、エレミヤを通して告げられたユダに対するさばきの宣告のことです。神殿に関わる奉仕の最高責任者であれば、この預言を聞いて、心を痛めたり、罪を嘆き悲しんで悔い改めるはずですが…パシュフルは怒り心頭でした。

 なんと、エレミヤを捕らえてムチ打ちにした上で、足かせを着けて拘束したのです。翌朝には足かせを解かれているので、このムチ打ちや拘束は、通常の手続きを経て行われたものではなく、パシュフルが感情的になって起こした行動のようにも思えます。怒りのパワーは恐ろしいほどに強力です。強い感情を抱き続けるとき、過ちを犯すリスクも高まります。気をつけなければなりませんね。

*3節を読みましょう。

 足かせを解かれたエレミヤは、パシュフルを非難し、主がパシュフル個人に向けて語られたことを告げます。「あなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』と呼ばれる」

 「パシュフル」という名は、“平和(安全)が回りにある”という、まるで23篇の締めくくりの一節を思わせるような素敵な名前です。しかし、主は「恐れが回りにある」と呼ばれるようになると告げられています。これは、今後のパシュフルの人生は、平和や平安ではなく、恐れがつきまとうことを意味しています。平和や平安とは、救いの賜物でもあります。救いは、主なる神との(壊れていた)関係の回復であり、主との関係が回復されるからこそ、主がいつも共にいてくださる平和や平安な日々を過ごすことができるのです。しかし、主との関係が修復されていないのであれば、未だ罪の中におり、主は共におられないのです。つまり、パシュフルは、神殿管理の最高責任者で、礼拝奉仕者の長であるかもしれないけれど、パシュフルの信仰は見せかけのもので、主は共におられない…ということを告げているのです。そして、彼が受けるさばきの詳細が4~6節に語られています。

*4~6節を読みましょう。

「彼らはあなたの目の見る所で、敵の剣に倒れる」

 パシュフルは、「愛するすべての者」を「敵の剣」によって失うこと、しかもそれを目の当たりにすると告げられます。この「愛するすべての者」とは、後の節で、一般庶民を意味する「ユダの人全部」や、肉親・身内を意味する「あなたの家に住むすべての者」ということばとは区別されているので、彼の支持者や取り巻きの人々のことでしょう。特に、パシュフル自身が「偽りの預言」をしていたことが記されているので(6節)、彼を預言者と信仰する者たち、彼を慕い求める人たちのことでしょう。

「ユダの人全部をバビロンの王の手に渡す」

 そのさばきは、パシュフルとその身近な人々に限らず、「ユダの人全部」にも及びます。

 主が「バビロンの王」にユダを引き渡されるので、逃れられる者はいません。バビロンとの戦いによって、いのちを失う者もいれば、剣を逃れることができる者もいます。しかし、そのような者でも、これは“主の御手によるさばき”なので、バビロンから逃れることはできません。剣に倒れなかった者は、バビロンへ引いて行かれます(バビロン捕囚)。

 おそらく、パシュフルもエルサレム陥落以前(エホヤキム時代)の捕囚によってバビロンへ連行されています。(※ゼデキヤ王の時代には祭司が代わっているため)

「この町のすべての富…ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す」

 エルサレムが陥落させられた時、バビロンによる略奪が起きます。その時、神殿も破壊され、その中の財宝や礼拝に使う調度品などもバビロンに運び去られてしまいます。

「あなたとあなたの家に住むすべての者は、とりことなって、バビロンに」

 パシュフルとその身内・家族の者たちは、捕囚民としてバビロンへ連行され、バビロンの地で死に絶え、再びエルサレムの地を踏むことは無いと告げられます。

*7~9節を読みましょう。

 ここから18節までは、エレミヤの祈りです。

「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」

 エレミヤは、自身が預言者として召された時のことを思い出し、あのときの約束は何だったのですか…と、訴えています。エレミヤが召された時、しり込みするエレミヤに、主は約束を伴った励ましのことばを語られています。

エレミヤ1:7「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」

 主の約束に励まされ、いざ預言者として活動し始めたものの、困難や苦痛ばかりで、エレミヤとしては「惑わされた」と思いたくなるような状況が続いていました。今回のムチ打ちと拘束もそうだったのでしょう。

 しかし、主はエレミヤをだまして預言者に任命したわけではないですよね。先ほどの約束には、「困難や苦痛などは一切与えない」とは言われていないし、そもそも、苦しみを回避する約束ではありません。むしろ、困難や苦痛は有ると言う前提で、どんな状況下に陥っても、主はエレミヤと「ともにいて、あなたを救い出す」と約束してくださっているのです。そして、その通りに救い出されたからこそ、今もエレミヤは預言者として活動しているのです。・・・これらのことは、エレミヤも私たち以上に分かっています。でも、弱さから、つぶやきたくなったのです。主の前で、強がってカッコつけるのではなく、弱さをさらけ出して祈り、全身全霊で主を求めているのです。

「一日中、物笑いとなし、みなが私をあざけります」

 このことばに、エレミヤが孤軍奮闘していた様子が伺えます。誰も真剣に聞いてくれない。むしろ馬鹿にして嘲笑してくる。そんな状態で、語り続けることはなかなか難しいものです。普通なら、憐れみなど持ちようもなく、怒りをあらわにし、見切って背を向けて距離を取ることを選んでしまいそうになる状況です。

「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」

 エレミヤがどれほど追い詰められていたかが、このことばに表れています。しかし、エレミヤは預言者としての使命を投げ出すことはしませんでした。その理由は、語らずにはいられない、というものです。

 預言者とは、主から聞いたこと(預かったことば)を、そのまま人々に語り聞かせる人です。自分が語り伝えていることばは、“自分のことば”ではなく、“みことば”(御告げ)です。自分のことばであれば、引っ込めてもいいでしょう。しかし、主なる神のことばなので、語るか語らないかは自分(エレミヤ)の決めることではないのです。

「主のみことばは私の心のうちで…燃えさかる火のようになり」

 しかも、エレミヤの中でみことばが生きて働いていたので、エレミヤは黙っていることに苦痛を感じるほどであったのです。これは、エレミヤがみことばを自分のこととして聞き入れ、服従していたからこその苦しみです。

 エレミヤだって「暴虐だ。暴虐だ」と、エルサレムへのさばきを宣告し続けることは辛いことで、その宣告に耳を傾けようともせず、嘲笑う同胞を見るのも辛かったのです。かといって、語ることを止めてしまうことは、もっと辛く苦しいことなのです。

*10~12節を読みましょう。

 あざける者たちは、エレミヤの語ることばを取り上げ、ふざけて言います。

「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれあいつを訴えよう」

 エレミヤの言うわざわいなど起きてないではないか。エレミヤの回りにだけわざわいがあるのではないか?と冷やかし、目障りなエレミヤを亡き者にしてやろうと、準備を進めていました。

 しかし、エレミヤはこのような脅かしにもひるみません。八方ふさがりの中、唯一開いている逃げ道である、“天”に目を向けます。

「しかし、主は私とともにあって」

 7節では、預言者として召された時の約束と違う現実に、戸惑いと泣き言を漏らす場面もありましたが、同時に、主が召してくださったのだから、主が務めを全うさせてくださるという確信もありました。そして、自分を取り囲む敵よりも強いお方が共にいてくださる、という事実がエレミヤを支えていました。

 「横暴な」とは“偉大”や“恐ろしい”という意味で、特に“さばき”を下される恐ろしさを示す語です。また、その“恐れ”は信仰者にとっては畏怖ではあっても、恐怖ではありません。

「正しい者を調べ、思いを心を見ておられる」という、全てを知られていることは、時に恐ろしく感じるかもしれませんが、すべてを知られているからこそ、人に誤解されても平安でいられます。人に対する恐れや悔しい思い、復讐などの罪を犯すことからも守られます。今、自分の目には劣勢に見えても、最後に勝つのは主であることを知っている人は幸いなのです。

*13節を読みましょう。

 主に対する嘆きから始まった祈りは、現実から目を離し、主を仰ぎ見ることで賛美へと変えられました。現状は移り変わりますが、主の約束は変わりません。変わらない現状を無理やり変えようとするなら、大きな抵抗力に押し潰されそうになるでしょう。変わることを期待して待ち続けるなら、変わらない現実にしびれを切らし、絶望するでしょう。だからこそ、確実なものを見出し、そこに期待すべきです。それが“みことば”なのです。

 このように、素晴らしい着地を見せた賛美でしたが、最後の段落は再びエレミヤの嘆きが記されています。

*14~18節を読みましょう。

 20章が13節で終わっていたら…と思ってしまいそうな揺り戻しです。しかし、これが現実なのです。信仰者だから泣き言を言ってはいけない、嘆き悲しんではいけない、忍耐して励まなければならない、という根性論ではないのです。自分の弱さや苦悩を隠さず赤裸々に打ち明けることも、信仰者の姿なのです。

 ここでエレミヤは、自分の「生まれた日」を「のろわれよ」と言い放つほど、自分の無力さ、やるせなさにフラストレーションを感じているのですが、だからといって、かつて病んでしまったエリヤや、怒り心頭のヨナのように「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」(Ⅰ列王19:4)「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから」(ヨナ4:3)などの不健全な発言はしていないのです。そして主の側も、エレミヤから預言者の働きを取り上げてしまう、ということをほのめかすこともなさらないのです。ということは、この苦悩の叫びは、エレミヤの同胞に対する愛ゆえの苦しみとして主の御前に届いているのです。

 

*では、20章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 先回までの“ラザロと金持ち”の話の隠れたテーマは“信仰”です。登場人物は全員イスラエル人であり、聖書も神も知っていた人たちでしたが、本当の信仰者はラザロだけでした。金持ちは(おそらくその兄弟たちも)自認していただけで、実際は救いを受けていない形だけの神の民だったのです。その話から「信仰とは何か?」「 悔い改めとは何か?」について、語られているのが17章です。

*1節を読みましょう。

 ここで「つまずき」ということばが出てきました。これは“信仰上の妨げとなること”を意味し、「つまずき」には、「つまずき」を与える側と受ける側が存在します。そして、「つまずきが起こるのは避けられない」とあるのは、「つまずき」を受ける側に対することばです。

 例えば、信仰者として信頼しているクリスチャンが、だらしない行動や不正をしたのを目撃し、「あの人がそんなことするなんて…ショック」と、ショックを受けたり、あるいは「あの人もしているんだから、いいんだニヤ」と、不正に対するハードルが低くなってしまう(結果的に罪を犯すようになる)、というようなパターンのことです。

 この場合、何が問題かというと、「まさかあの人が・・・」とショックを受ける人は、相手に対する期待や信頼が高すぎるために起きた「つまずき」です。

 しかし、完璧な人はひとりもいませんし、どんなに“しっかりしている”ように見える人でも、弱さや愚かさを持つ罪人であることを忘れてはいけないのです。もしも、ショックな出来事を見聞きしたなら、その人のためにとりなし祈ることが、なすべきことでしょう。

 「その人もしているからOK」と、自分も倣ってしまう人は、様々なことに対する確信がないために起きた「つまずき」です。

 聖書には、すべてのことが事細かに書かれているわけではないので、「これはどうなんだ?」と、判断に困る事や迷う事は、日常的にたくさんあります。しかし、聖書にはすべてのことに関する“原則”は記されていますので、原則からどう考えられるか?で、さまざまな事を判断していくのが信仰の歩みです。・・・が、聖書からではなく人の言動に頼って判断する人もいます。日本人に多い性質でもありますが、みんなと同じ行動を取っていれば安心、という考えです。正解かどうかではなく、安心を選ぶのです。このパターンの一番良くない点は、誰かに倣うことで、問題が起きた時の責任が曖昧になってしまうところです。しかし、神さまは各人の言動は、その当人に責任を求められます。自分の言動に責任を持つためにも、確かな基準を知ろうとする努力と確信は必要なのです。

 このように、「つまずき」を受ける側には、信仰的な弱さや未熟さといった問題があることがわかります。最初から成熟した信仰者はいませんし、むしろ「つまずき」によって自分の問題点に気付かされることもあるので、そういう意味では”通るべき道”でもあり、「避けられない」と言われています。

 一方、「つまずきを起こさせるものはわざわいだ」とは、「つまずき」を与える側に対することばです。

 「起こさせる」というのは、自覚なく「つまずき」を与えてしまったのではなく、信仰的に弱く未熟な人が一緒にいる所で意図的に「つまずき」を与えること、誘惑すること、ルールを破らせようとすることなどの働きかけをすることです。

 ここでの「わざわい」とは、“あぁ”(感嘆語)や“忌まわしい”という意味で、神さまの嫌われる行動であることを示しています。なぜなら、「つまずきを起こさせる」とは、相手に罪を犯させる(罪に誘導する)ことだからです。それは神から引き離すことだからです。

*2節を読みましょう。

 「小さい者たち」とは、信仰的に未熟、弱い者のことですが、彼らの弱さ、未熟さを利用して罪に誘惑する者に対しては、厳しいことばが告げられています。

「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」

 この「石臼」とは、家畜が回す石臼のことで、直径50㎝厚さ10㎝の石を二段重ねにしたものです。それを首につけられて海に投げ込まれたら・・・結果はわかりますよね。恐ろしいことです。つまり、死に値すること、それは神の忌み嫌われる罪ですよ、ということを言っているのです。

 「つまずきを起こさせる」人の中には、「楽しいからこの人にも教えてあげよう」といった軽い気持ちから悪い遊びに誘っている、ということもあるかもしれませんが、それが本当に自分のため、相手のためになることなのかを考えて行動することは大切なのです。なぜなら、その一回のために人生を棒に振ることになるかもしれないのですから。 

 

*お祈りしましょう。

*1~2節を読みましょう。

 「土の焼き物のびん」を買い、「民の長老と年長の祭司のうちの数人」を連れて、「ベン・ヒノムの谷」に行くよう、命じられています。この「土の焼き物のびん」は、10節以降で預言の視覚教材として使用されます。

 「民の長老と年長の祭司のうちの数人」を連れて行ったのは、おそらく預言の証人とするためです。

 「瀬戸のかけらの門」は、砕かれた陶器類が捨てられていた場所で、後の“糞の門”ではないかと言われている場所で、その入り口にある「ベン・ヒノムの谷」とは、モレク神の礼拝所(いけにえをささげていた場所)です。

 ここは、かつてヨシヤ王による改革によって破壊され、再び異教の礼拝がささげられることがないよう、ごみ焼却所とされた場所です。

Ⅱ列王記23:10「彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした」

 しかし、エホヤキム王の時代に再び異教の礼拝所として再建されたのです。

 今回の箇所では、人身いけにえをささげてきた血なまぐさい悪しき偶像礼拝の象徴的な「ベン・ヒノム」へのさばきの宣告です。それは、この先起こるさばきの原因の一つが偶像礼拝であることを示すための象徴的預言なのです。

*3~5節を読みましょう。

「わたしはこの所にわざわいをもたらす」

 「この所」とは「ベン・ヒノムの谷」を指し、「耳鳴りがする」とは、さばきに対する恐れを意味する表現です。そのさばきの理由が詳しく語られています。

「彼らがわたしを捨ててこの所を見分けがつかないほどにし」

 これは、「ベン・ヒノム」での偶像礼拝が盛んで、熱狂的だったことを示しています。「見分けがつかない」とは、エルサレム神殿での礼拝と遜色ないほどの熱狂ぶりで、もはや「ベン・ヒノム」が真の礼拝所なのではないかと錯覚するほどだった、という皮肉です。

「先祖も…知らなかったほかの神々にいけにえをささげ」

 「ベン・ヒノム」で行われていた偶像礼拝の異教の神々は、昔からイスラエルを導き、伴って来た神ではありません。むしろ、彼らが神ではなく「諸外国のように王がほしい」と求め、王国となって以降、政治的理由から、外国との同盟や政略結婚によって、異教文化や偶像が入り込んできました。このモレク神もバアル神もそうです。

 彼らと何の縁もない、何の約束も無い、いのちもない“むなしいもの”(=偶像)を熱心に拝んでいることに、何の矛盾も感じていなかったのです。

「この所を罪のない者の血で満たし」

 異教の礼拝行為の中で、最も忌まわしいものは人身犠牲でした。彼らは、「自分の子どもたちを全焼のいけにえ」としてささげていたのです。あり得ない狂気な行為ですが、その“あり得ない”行為が“最上の犠牲”ということだったのでしょう。

「このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったこと」

 主の民だと自称し、アブラハムの子孫であることを誇りとしていたイスラエル・ユダの民が、主が命じてもいないことを熱心に行っているのです。主が命じたこと(みことば)には従わないで…なんと皮肉なことでしょう。

*6節を読みましょう。

 「その日」とは、さばきの時であり、バビロンによるエルサレム陥落の日のことです。バビロンによる攻撃の後には、この場所(ベン・ヒノム)が「虐殺の谷」と呼ばれるようになると告げられています。これは、この場所が、バビロン軍包囲から攻撃に至るまでに出る、多くの死者の遺体処理場になることを示しています。

「しかばねを、空の鳥や地の獣のえじきとして与える」

 しかも、その遺体は丁寧に埋葬されることなく、野ざらし状態になることが告げられています。

「窮乏のために、自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる」

 Ⅱ列王記25:1-3には、バビロン軍によって二年半もの間、エルサレムが包囲されたことが記されています。いわゆる、兵糧攻めです。これにより、食料難からの栄養不足が生じ、疫病による病死、餓死する人もいました。そんな極限状態で、エルサレムの住民たちは自分が生き残るために互いを食べるという…恐ろしい選択をするのです。それが“生きる”ということではないのにね…。

 主なる神が、“いのちと祝福”を選びなさいと言われたのに、“死とのろい”を選んだものの最期は、やはり虚しいのです。

申命記30:17-19「もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、…あなたがたは、必ず滅びうせる。…私はいのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」

*10節を読みましょう。

 さて、ここから冒頭に購入した「びん」を使った象徴的行為に拠る預言がなされます。

 「同行の人々」とは、1節の「民の長老と年長の祭司」のことです。彼らの前で「土の焼き物のびん」を砕くことで、一度壊れたものは“元には戻らない”ことを示しました。

 これは、18章のたとえと合わせて、「陶器師」である主の御手によって「砕かれる」(さばきを受ける)ので、エルサレムが崩壊(荒廃)から逃れることはできないことを示すものです。それは、悔い改めることない(さばきを受ける)なら、二度と主の民として回復されることがない、ということなのです。

「わたしはこの町をトフェテのようにする」

 「トフェテ」とは、最初の部分で書きましたが、かつて異教の礼拝所となっていた場所で、ヨシヤ王の改革の時に破壊され、ごみ焼却所とされた地(さらに、後に再び異教の礼拝所へ…再びごみ焼却場へ)です。

 バビロン侵攻時には、この「トフェテ」に、亡くなった人々の遺体を積み上げるが、処理しきれないほど遺体が溢れるので、エルサレム全体が「トフェテ」(=汚す・燃やすの意味)のようになってしまう、という事が告げられています。

 この章では、さばきの宣告だけで、回復の約束は告げられていませんが、他の箇所では約束が告げられているように、イスラエル・ユダは不信仰のためにさばきをうけましたが、全滅させられたわけではありません。現在も、イスラエルは存在し、その民も存在するのです。それは、このさばきが滅ぼすことを目的としたものではなく、回復を目的としたものでもあるからです。

 割れた陶器が元に戻らないのは事実ですが、陶器師の手によって砕かれたのは、作り直すためです。イスラエル・ユダが、主の御手によって「砕かれる」(バビロン捕囚を経験する)ことを通されなければ、エルサレム(南ユダ)の住民は、元に戻る…すなわち、立ち返り、主の民として回復するために必要な試練でもあったのです。

 

*では、19章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 先回までに、「金持ち」と「ラザロ」の生前の生活と、この世を去った後の行き先の違いについてみてきました。今回の内容に入る前に、死後の世界について整理してみます。

① 死後には“苦しみの場所”と“なぐさめの場所”がある。

 “苦しみの場所”とは、地獄と言われるところで、“なぐさめの場所”とは、天国と言われるところです。死後にはこのどちらかに行きます。カトリックの教える“煉獄”と言われるような地獄と天国の中間地点のような場所はありません。

② 死後の世界の行き先は、生前の報いで決まる。

 25節に「良い物を受け・・・悪い物を受け」という表現がありますが、これは、金持ちが貧しいラザロに対して何のあわれみも示さなかったという罪の“一例”を挙げているのであって、これがすべてではありません。また、贅沢していたから地獄行きと言っているのでもありません。金持ちは、あらゆる面で罪の自覚がなく、罪を悔い改めて救いを求めることをしていなかった、故に、自分で自分の罪の報いを受けることになった、ということです。

 罪の罰を受けるために地獄へ行っているのだから、どんなに願ったとしても、刑罰である“苦しみ”が緩和されることなどありえないのです。

③ 地獄と天国の間には大きな隔たりがある

 26節には「大きな淵」がある故に「ここ(天国側)からそちら(地獄側)へ渡ろうとしても、渡れないし」その逆も同様に不可能だと言われています。これは、死後に下される判決(有罪/無罪)は、決して変わらない事を示しています。つまり、仏教のように供養し続ければ地獄から極楽へ行ける、神道のように神に成れる、というものではないことを示しています。

 ・・・ということで、自分が地獄から救出されることや、苦しみから逃れることが不可能だと思い知った「金持ち」は、最後のお願いをします。

*27~28節を読みましょう。

「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください」

 金持ちは、自分の遺族の救いを願い求めたのです。特に、5人の兄弟のことが取り上げられていますが、おそらく、この金持ちと同じような贅沢三昧の生活をしているのだと思われます。

「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように」という懇願は、「苦しむのは自分だけでいい」という、兄弟への愛情が感じられる言葉に聞こえますが・・・もし、そのようなあわれみの精神があるのなら、なぜ生前にラザロに対してあわれみを示すことが無かったのか?ということにもなります。

 この発言から、金持ちが地獄で苦しみを味わってもなお、自分の罪の自覚がなく、悔い改めてもいない、ということがわかります。

 そして、この願いも先の願いと同様に、拒否されるのです。

*29節を読みましょう。

 「モーセ」は“律法の書”(創世記~申命記の5巻)のことで、「預言者」は“預言書”のことです。これらを合わせた「モーセと預言者」とは、当時の聖書(現代の旧約聖書)のことです。つまり、アブラハムは「聖書を読み、聖書のメッセージに聞き従うなら、兄弟は救われる。そうでないなら、あなたと同様に自分の罪のためにさばかれる。」と言っているのです。

 この「金持ち」も「兄弟」も、「父アブラハム」と呼んでいることから、イスラエル人であることは明確です。であるならば、幼少期から聖書を教えられ、暗記し、礼拝や祭りなどにも当たり前のように集ってきたはずです。そういう意味では、金持ちも兄弟も、知るべきことは知らされていて、あとは応えるだけなのです。今から新しい情報を聞かなければならない段階ではないのです。しかし、金持ちは食い下がって懇願します。

*30節を読みましょう。

 つまり、ラザロが幽霊となって兄弟たちに語ったら、よりインパクトがあって兄弟たちは恐れて信じるだろう、と思ったのです。

 聖書なんかじゃなくて、不思議体験をしたらきっと信じるという提案をしたのです。しかし、アブラハムは賛同しませんでした。

*31節を読みましょう。

 日常的に聖書に触れる機会がありながら、みことばに従う決心をしていないのなら、たとえ不思議体験をしたとしても、その人の心に罪の意識や悔い改め、救いを求める思いなど生じません。罪の自覚をするためには、聖書から神の聖さと罪の基準を知ることから始まります。不思議体験よりも、自分との向き合いが必要なのです。  

 

*お祈りしましょう。