*1~2節を読みましょう。
「祭司・主の宮のつかさ・監督」とは、神殿管理者の長(最高責任者)のことで、「これらのことば」とは、エレミヤを通して告げられたユダに対するさばきの宣告のことです。神殿に関わる奉仕の最高責任者であれば、この預言を聞いて、心を痛めたり、罪を嘆き悲しんで悔い改めるはずですが…パシュフルは怒り心頭でした。
なんと、エレミヤを捕らえてムチ打ちにした上で、足かせを着けて拘束したのです。翌朝には足かせを解かれているので、このムチ打ちや拘束は、通常の手続きを経て行われたものではなく、パシュフルが感情的になって起こした行動のようにも思えます。怒りのパワーは恐ろしいほどに強力です。強い感情を抱き続けるとき、過ちを犯すリスクも高まります。気をつけなければなりませんね。
*3節を読みましょう。
足かせを解かれたエレミヤは、パシュフルを非難し、主がパシュフル個人に向けて語られたことを告げます。「あなたの名をパシュフルではなくて、『恐れが回りにある』と呼ばれる」
「パシュフル」という名は、“平和(安全)が回りにある”という、まるで23篇の締めくくりの一節を思わせるような素敵な名前です。しかし、主は「恐れが回りにある」と呼ばれるようになると告げられています。これは、今後のパシュフルの人生は、平和や平安ではなく、恐れがつきまとうことを意味しています。平和や平安とは、救いの賜物でもあります。救いは、主なる神との(壊れていた)関係の回復であり、主との関係が回復されるからこそ、主がいつも共にいてくださる平和や平安な日々を過ごすことができるのです。しかし、主との関係が修復されていないのであれば、未だ罪の中におり、主は共におられないのです。つまり、パシュフルは、神殿管理の最高責任者で、礼拝奉仕者の長であるかもしれないけれど、パシュフルの信仰は見せかけのもので、主は共におられない…ということを告げているのです。そして、彼が受けるさばきの詳細が4~6節に語られています。
*4~6節を読みましょう。
「彼らはあなたの目の見る所で、敵の剣に倒れる」
パシュフルは、「愛するすべての者」を「敵の剣」によって失うこと、しかもそれを目の当たりにすると告げられます。この「愛するすべての者」とは、後の節で、一般庶民を意味する「ユダの人全部」や、肉親・身内を意味する「あなたの家に住むすべての者」ということばとは区別されているので、彼の支持者や取り巻きの人々のことでしょう。特に、パシュフル自身が「偽りの預言」をしていたことが記されているので(6節)、彼を預言者と信仰する者たち、彼を慕い求める人たちのことでしょう。
「ユダの人全部をバビロンの王の手に渡す」
そのさばきは、パシュフルとその身近な人々に限らず、「ユダの人全部」にも及びます。
主が「バビロンの王」にユダを引き渡されるので、逃れられる者はいません。バビロンとの戦いによって、いのちを失う者もいれば、剣を逃れることができる者もいます。しかし、そのような者でも、これは“主の御手によるさばき”なので、バビロンから逃れることはできません。剣に倒れなかった者は、バビロンへ引いて行かれます(バビロン捕囚)。
おそらく、パシュフルもエルサレム陥落以前(エホヤキム時代)の捕囚によってバビロンへ連行されています。(※ゼデキヤ王の時代には祭司が代わっているため)
「この町のすべての富…ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す」
エルサレムが陥落させられた時、バビロンによる略奪が起きます。その時、神殿も破壊され、その中の財宝や礼拝に使う調度品などもバビロンに運び去られてしまいます。
「あなたとあなたの家に住むすべての者は、とりことなって、バビロンに」
パシュフルとその身内・家族の者たちは、捕囚民としてバビロンへ連行され、バビロンの地で死に絶え、再びエルサレムの地を踏むことは無いと告げられます。
*7~9節を読みましょう。
ここから18節までは、エレミヤの祈りです。
「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」
エレミヤは、自身が預言者として召された時のことを思い出し、あのときの約束は何だったのですか…と、訴えています。エレミヤが召された時、しり込みするエレミヤに、主は約束を伴った励ましのことばを語られています。
エレミヤ1:7「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
主の約束に励まされ、いざ預言者として活動し始めたものの、困難や苦痛ばかりで、エレミヤとしては「惑わされた」と思いたくなるような状況が続いていました。今回のムチ打ちと拘束もそうだったのでしょう。
しかし、主はエレミヤをだまして預言者に任命したわけではないですよね。先ほどの約束には、「困難や苦痛などは一切与えない」とは言われていないし、そもそも、苦しみを回避する約束ではありません。むしろ、困難や苦痛は有ると言う前提で、どんな状況下に陥っても、主はエレミヤと「ともにいて、あなたを救い出す」と約束してくださっているのです。そして、その通りに救い出されたからこそ、今もエレミヤは預言者として活動しているのです。・・・これらのことは、エレミヤも私たち以上に分かっています。でも、弱さから、つぶやきたくなったのです。主の前で、強がってカッコつけるのではなく、弱さをさらけ出して祈り、全身全霊で主を求めているのです。
「一日中、物笑いとなし、みなが私をあざけります」
このことばに、エレミヤが孤軍奮闘していた様子が伺えます。誰も真剣に聞いてくれない。むしろ馬鹿にして嘲笑してくる。そんな状態で、語り続けることはなかなか難しいものです。普通なら、憐れみなど持ちようもなく、怒りをあらわにし、見切って背を向けて距離を取ることを選んでしまいそうになる状況です。
「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」
エレミヤがどれほど追い詰められていたかが、このことばに表れています。しかし、エレミヤは預言者としての使命を投げ出すことはしませんでした。その理由は、語らずにはいられない、というものです。
預言者とは、主から聞いたこと(預かったことば)を、そのまま人々に語り聞かせる人です。自分が語り伝えていることばは、“自分のことば”ではなく、“みことば”(御告げ)です。自分のことばであれば、引っ込めてもいいでしょう。しかし、主なる神のことばなので、語るか語らないかは自分(エレミヤ)の決めることではないのです。
「主のみことばは私の心のうちで…燃えさかる火のようになり」
しかも、エレミヤの中でみことばが生きて働いていたので、エレミヤは黙っていることに苦痛を感じるほどであったのです。これは、エレミヤがみことばを自分のこととして聞き入れ、服従していたからこその苦しみです。
エレミヤだって「暴虐だ。暴虐だ」と、エルサレムへのさばきを宣告し続けることは辛いことで、その宣告に耳を傾けようともせず、嘲笑う同胞を見るのも辛かったのです。かといって、語ることを止めてしまうことは、もっと辛く苦しいことなのです。
*10~12節を読みましょう。
あざける者たちは、エレミヤの語ることばを取り上げ、ふざけて言います。
「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれあいつを訴えよう」
エレミヤの言うわざわいなど起きてないではないか。エレミヤの回りにだけわざわいがあるのではないか?と冷やかし、目障りなエレミヤを亡き者にしてやろうと、準備を進めていました。
しかし、エレミヤはこのような脅かしにもひるみません。八方ふさがりの中、唯一開いている逃げ道である、“天”に目を向けます。
「しかし、主は私とともにあって」
7節では、預言者として召された時の約束と違う現実に、戸惑いと泣き言を漏らす場面もありましたが、同時に、主が召してくださったのだから、主が務めを全うさせてくださるという確信もありました。そして、自分を取り囲む敵よりも強いお方が共にいてくださる、という事実がエレミヤを支えていました。
「横暴な」とは“偉大”や“恐ろしい”という意味で、特に“さばき”を下される恐ろしさを示す語です。また、その“恐れ”は信仰者にとっては畏怖ではあっても、恐怖ではありません。
「正しい者を調べ、思いを心を見ておられる」という、全てを知られていることは、時に恐ろしく感じるかもしれませんが、すべてを知られているからこそ、人に誤解されても平安でいられます。人に対する恐れや悔しい思い、復讐などの罪を犯すことからも守られます。今、自分の目には劣勢に見えても、最後に勝つのは主であることを知っている人は幸いなのです。
*13節を読みましょう。
主に対する嘆きから始まった祈りは、現実から目を離し、主を仰ぎ見ることで賛美へと変えられました。現状は移り変わりますが、主の約束は変わりません。変わらない現状を無理やり変えようとするなら、大きな抵抗力に押し潰されそうになるでしょう。変わることを期待して待ち続けるなら、変わらない現実にしびれを切らし、絶望するでしょう。だからこそ、確実なものを見出し、そこに期待すべきです。それが“みことば”なのです。
このように、素晴らしい着地を見せた賛美でしたが、最後の段落は再びエレミヤの嘆きが記されています。
*14~18節を読みましょう。
20章が13節で終わっていたら…と思ってしまいそうな揺り戻しです。しかし、これが現実なのです。信仰者だから泣き言を言ってはいけない、嘆き悲しんではいけない、忍耐して励まなければならない、という根性論ではないのです。自分の弱さや苦悩を隠さず赤裸々に打ち明けることも、信仰者の姿なのです。
ここでエレミヤは、自分の「生まれた日」を「のろわれよ」と言い放つほど、自分の無力さ、やるせなさにフラストレーションを感じているのですが、だからといって、かつて病んでしまったエリヤや、怒り心頭のヨナのように「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」(Ⅰ列王19:4)「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから」(ヨナ4:3)などの不健全な発言はしていないのです。そして主の側も、エレミヤから預言者の働きを取り上げてしまう、ということをほのめかすこともなさらないのです。ということは、この苦悩の叫びは、エレミヤの同胞に対する愛ゆえの苦しみとして主の御前に届いているのです。
*では、20章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。