聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*13節を読みましょう。

 13節は、先回までの「不正の富」についての結論的ことばです。

 「不正の富」「まことの富」「小さい事」「大きい事」「他人のもの」「あなたがたのもの」という二つのものが対比して語られましたが、それらをどう用いるかは、「ふたりの主人に仕える」ようなものだと説明しています。

 上記に挙げた項目は相対するものなので、両方に同時に仕えることは不可能なのです。しかし、当時の人々は神を愛すると言いながらも、お金や地位や名誉をい愛し、誇っていました。それらは力を持っているよう見えますが、この世でしか運用できないもので、その力も一時的なものです。しかも、一番大切な“いのち”を与える力はありません。まして、罪を赦す力もありません。しかし、人間にとって一番大切なのは”永遠の行き先”です。死後に続く永遠という時間をどこでどのように過ごすのかを、この地上にいる間に決めなければならないのです。その決め手となるのは“お金”や“社会的地位”、“名誉”ではありません。“罪の赦し”という解決を伴う“救い”によって決まるのです。それが、キリストの成し遂げられた十字架による身代わりの死なのです。

このキリストによる救いを受け入れた者は、たとい経済的、社会的に豊かでなくても、真に幸いな人と呼ばれるのです。

*14節を読みましょう。

 さて、1節から続いた「管理人」のたとえ話と、それにまつわる解説を聞いていた「パリサイ人」が反応します。彼らは「金の好きなパリサイ人」と紹介されていますが、この「金の好きな」とは、“金に支配されている、執着している、”という意味なので、お金を得ること、増やすことに懸命で、お金があることで安心感を得ていた人であることがわかります。また、おそらく「裕福であることが神に祝福されている証しだ」と考えていたふしもあったのだと思われます。だからこそ、イエスさまの話を聞いて「愚かな話だ、ばかばかしい…」と嘲笑っていたのです。そんな彼らの心を知っておられたイエスさまは、彼らに語りかけられます。

*15節を読みましょう。

「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」

 「人の前で」とは、“人の目を気にして”とか、“人に見られていることを意識して”というようなことを示し、「自分を正しいとする」とは、“自分で自分を義と認める”ことを意味します。当時のパリサイ人たちは、人が見ている時に宗教的な行動を取っていました。人前で熱心に祈ったり、大きな額の献金をしたり、慈善活動に勤しんだりしていました。しかし、人の目に触れないところでは行いませんでした。なぜなら、それらの行動の目的は“人から褒められる”ためであり、“人から評価されたい”ためだったからです。しかし、「神はあなたがたの心をご存じです」と言われているように、神さまは“見える”部分だけで判断なさる方ではなく、隠れた思い、行いこそ、見ておられる方です。

マタイ6:1~4(抜粋)「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。…施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。…隠れたところで見ておられるあなたがたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 パリサイ人のように、自分があがめられることを求めることは、自分が“神”となっている状態と同じで、そのような思想から宗教や偶像礼拝が誕生するのです。

*16節を読みましょう。

「律法と預言者はヨハネまでです」

 「律法と預言者」とは、“聖書(みことば)”を指します。「ヨハネ」とは“バプテスマのヨハネ”のことです。これまでにその時代ごとに預言者たちを通してみことばが告げられ、それらのみことばは“聖書”として遺されてきました。しかし、そのような神さまからのメッセージを告げる“預言者”は、バプテスマのヨハネが最後であり、伝えるべきメッセージは完了していると言われています。

 では、ヨハネはどのようなメッセージを告げたのでしょう?

マルコ1:15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

ヨハネ1:29「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」

 聖書の中で最も大切なメッセージは「救い主が来られる」という約束です。ヨハネはその約束の時が来た(成就した)ことを告げました。だから今は「悔い改めて福音を信じる」のみであると告げたのです。

 

*お祈りしましょう。

 先回は、10節「小さい事」とは、9節「不正の富」と同じことで“この世のこと”を意味し、「大きい事」とは、9節「永遠の住まい」と同じことで“御国(=天)のこと”を意味する、という部分を見ました。今回はその続きです。

*11節を読みましょう。

 「不正の富」とは、悪いことをして得たお金ということではなく、やはり”この世で与えられたもの”という意味です。それに対して「忠実」であるとは、正しく管理する(用いる)ことを意味します。そして「まことの富」とは、この地上での歩み(人生)を終えて地上を去ったのち(死後)の世界において受ける“報い”のことです。

 つまり、地上での時間(人生)を、どのように歩むかが、永遠の時間(永遠の行き先)に密接な関りがある、と言っているのです。そのことを12節ではことばを変えて説明しています。

*12節を読みましょう。

 「他人のもの」とは、ここでは“神のもの”を意味し、「あなたがたのもの」とは、11節「まことの富」同様、死後に受ける“報い”のことです。

 今まで「不正の富 / 小さい事」と表現されていた“この世で与えられるもの”が、“神のもの”を意味する表現に変わっているのは、私たちがこの世で得るすべてのものは“神が与えてくださるもの”であり、私たちはその“管理を任されている者”であることを示しています。

 環境に恵まれて幼少期から裕福な生活をしている人や、多才で優秀な人をみると羨ましく感じますが、環境も能力も“与えられた”ものであり、そこには管理する責任もついてくるのです。

ルカ12:48「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」

 では、神が与えてくださったものとして管理する、とはどういう生き方をすることでしょうか?

①「すべては恵みである」と、すべてに感謝する

 人は、自分に属するものについては「私のもの、自分のもの」と思い込んでいますが、自分のいのちでさえも「自分のもの」ではありません。神が下さったものなのです。何も無い状態で生まれ、そこからすべてを与えられるのです。そして、それらは“恵み”と言われているように、すべて神の一方的な計画と好意によって与えられるのです。

② 与えられたものであるならば、他者の必要のために与えられたと理解する (出し惜しみせず、他者に差し出す)

 「自分のもの」と思うと、手放すことが難しくなります。また、人は損をすることを嫌うので、得ることは歓迎しますが、失うことを恐れます。しかし、自分に与えられているものは、すべて自分が使うように与えられているわけではなく、他者に仕えるため、誰かの不足を補うために与えられているものでもあるのです。そのようにして、仕え合うこと、支え合う、慰め合うという実践を通して、人として成熟させようとしてくださるのです。

③ 神を畏れ敬う(神を知る)

 最初の人アダムとエバは、神に頼って生きることをやめて、自分の知恵と力で生きることを望み、神から離れました。それが罪の始まりです。しかし、人間を含むすべての被造物(神に造られたもの)は、創造主である神によって生かされているので、今日も生きることができています。本来人間は、神に依存して生きるように造られています。”依存”という表現にあまり良いイメージがなく、依存することは悪で、"依存しないこと"が自立や成長と受け取られがちですが、そうではないのです。神を神と認め、自分は人(被造物)であることを認めること、自分の限界や弱さを知り、頼るべき方(創造主)に正しく頼ることこそ、真に”生きる”ことなのです。

④ 自分の力を誇らずへりくだる

 “恵み”とは、受けるに値しない者が受けること、一方的に(与え主の好意によって)与えられることを意味し、受ける側の私たちには何も“善きところ”がないにもかかわらず与えられている、それが神の恵みであり、あわれみです。

 人間社会では優劣が付けられ、優れた人は高ぶり、劣った人は卑屈に感じてしまう世の中です。しかし、高ぶることも卑屈になることも間違いなのです。神さまはあなたを誰とも比較してはおられません。それが“恵み”なのです。

 このような何の取柄もない私さえも愛し、受け入れ、慈しんでくださっている方がおられると知るならば、高ぶること、卑屈になることから守られます。むしろ、へりくだって与えられているものに目を向けて感謝できるようになるのです。

 そして、究極の恵みが現わされたのが”キリストによる救い”なのです。 

 

*お祈りしましょう。

 冒頭部分では、いくつかの禁止事項が述べられています。一見、あり得ない事柄が語られているのですが、これらは、バビロンによる侵攻が迫っていることを意識させることを目的として告げられたものです。

*1~4節を読みましょう。

「あなたは妻をめとるな…息子や娘を持つな」

 一つ目は、結婚すること、そして子孫を得ることを禁じています。その理由は、4節で述べられている通り、病死、戦死、餓死などによって、家族を失うことになるからです。つまり、さばきが目前に迫っている、ということを告げているのです。

*5~7節を読みましょう。

「あなたは、服喪中の家…悼みに行ってはならない」

 二つ目は、葬式に参列することを禁じています。これは葬式に行ってはいけないということよりも、前節の、病死、戦死、餓死を遂げた人々の死を悼み、嘆いてはいけない、ということです。なぜなら、それらの人々はバビロン軍のエルサレム包囲からエルサレム陥落によって亡くなる人々であり、多くの者たちは、葬られることもない状態になるとも言われています。これは、その死が平安ではなくのろいを象徴するものであり、“悔い改めなかった結果”を示すものであるから、悲しんではならないのです。嘆き悲しむなら、罪を悲しみ、悔い改めなければならないのです。

*8~9節を読みましょう。

「あなたは宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない」

 三つめは、宴会に参加することを禁じています。一つ目の禁止事項に関連しますが、さばきが迫る中で、祝宴を催しをしている場合ではなくなるからです。特別な喜ばしい光景だけでなく、日常のちょっとした笑いや喜びさえも失われる日が来る、という厳しい警告です。

*10~13節を読みましょう。

 さばきが目前に迫っている自覚のない民にとって、冒頭の禁止事項は理解しがたいものです。

「なぜ、そんなことをいわれなければならないのだ」、「なぜ、そんなに私たちを束縛するのか」という民の苦情や憤りが起こることは目に見えています。民は、理由なく理不尽な禁止事項を突き付けられたと反発しますが、…理由はありますよね。

「あなたがたの先祖がわたしを捨て…ほかの神々に従い/仕え/拝み」

 まず、民の方から主を捨てた、ということが強調されています。捨てた理由は、他の神々に従い、仕えることを選んだからです。

「わたしを捨てて、わたしの律法を守らなかった」

 そして主を捨てた結果、どうなったか。みことばをも捨てた、ということです。

「あなたがた自身…先祖以上に悪事を働き…おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み」

 ある人たちは、偶像や異教的な習わしは「先祖たちが持ち込んだものだ」「私の生まれた時から日常にあったのだから、先祖が悪い」…などと、保身のために責任転嫁することもあったようですが、主は「先祖」も罪を犯したけれど、あなたたちは「先祖以上に」罪を犯したと言われています。おもには、マナセ治世下での人身いけにえなど、過去に類を見なかったおぞましい行為のことでしょう。しかも、主は「おのおの悪い」と、各人が罪を避ける、あるいは悔い改めることもできたのに、そうせず、悪を選んだのだと指摘しています。

 そして、自らの選択に責任を負わせる形で、“選択のままに”さばきをくだすと告げられます。

 右矢印主を捨てたので ⇨ 国から投げ出し、外国へ行かせる(捕囚民となり、外国へ連行される)

 右矢印他の神々に仕えることを選んだので ⇨ 異国の地で異教の神々に仕える

*14節を読みましょう。

「見よ。その日が来る」

 ここでの「その日」とは、さばきの日ではなく、捕囚から解放される日のことです。さばきが告げられたばかりですが、一転して解放と回復の約束が告げられます。

「『エジプトから上らせた主は生きておられる』とは言わないで」

 バビロンから捕囚民が解放されて帰還する時には、かつてエジプトから脱出させられた時とは比べられない御業が行われる、という事を示しています。

 実際は、エジプト国内での十の災いや、紅海が二つに分かれて海底に道ができたこと。荒野での40年もの間、何不自由なく守り導かれたことなどは、いつまでも語り継がれる不思議で偉大な出来事でしたが、その時以上の御業が行われるという。それは何か? それは、エジプトの時にはファラオがイスラエルを解放することを拒み、紅海までエジプトに追われる形での脱出劇となりましたが、バビロン捕囚からの解放は、異邦人の王によって解放と帰還命令が出されるからです。それは、主なる神は、異邦諸国をも支配する神であることを示します。

 さらに、帰還するだけでなく、エルサレムを再建し、イスラエルそのものが回復されるのです。そしてこの“回復”こそ、さばきの目的なのです。

*16~18節を読みましょう。

「多くの漁夫をやって…彼らをすなどらせる」

 「多くの漁夫」とは“バビロン軍”のことで、「すなどらせる」とは、“捕らえる”ことを意味するので、捕囚とすることを示しています。その起こりは…「わたしは」とあるので、彼らは主がユダに向かわせた=主に拠るさばきであることが告げられています。

「多くの狩人をやって、…彼らをかり出させる」

 これも前半と同じくバビロン軍による侵攻を示すものですが、軍が城壁を突破してきた時(陥落直前)、隙をついて周辺へ逃れ出た者たちがいたのですが、どこへ逃げ隠れしようとも捕らえられることが告げられています。なぜなら、主によるさばきであるので、主の目から隠れることなどできないからです。

 「彼らの罪と咎」とは何であるのか。それは「わたしの国」である地を「忌むべきもの/忌み嫌うべきもの」で満たしたからです。

 まず、イスラエルの民が譲り受けた土地は「わたしの国」、つまり主のものなのです。主からの譲りの地であるからこそ、主に感謝して管理をし、簡単に手放したり、略奪したり、勝手な理由で売買してはいけないし、やむを得ず手放した場合にも、後には必ずもとの所有者のもとへもどされなければならない、という戒めも定められていました。しかし、いつのまにか“自分のもの”と思い込み、主への感謝もなくなったのです。

 つぎは、イスラエル中を偶像や異教的なもの、死骸などで満たした、という点です。あらゆる所に異教の祭壇を築き、さらには神殿内にまで偶像を設置したでいっぱいにしたのです。その状態をそのままにしておいて、イスラエルが主の民としての務め(主を証しし、みことばを伝えること)などすることはできません。伝えたとしても、「どの神のこと?…あなたたち、たくさんの神さまを拝んでいるけど」となります。彼の内から異教的なものを一掃すること、彼らの心の内からも偶像礼拝を一掃すること。それが厳しいさばきの目的なのです。

 しかし、このさばきにはイスラエルの回復以外に、もうひとつの目的があると告げられています。

*19~21節を読みましょう。

「諸国の民は地の果てから来て言うでしょう」

 エルサレム陥落と捕囚‥という出来事を目の当たりにした周辺諸国は「イスラエル(ユダ)は終わったな…」と嘲笑っていましたが、その後のペルシャ帝国による捕囚解放と帰還命令。さらに困難を乗り越えて再建を果たす様子は驚異でした。そして、こう言うのです。

「私たちの先祖が受け継いだものはただ偽るもの、…むなしいものばかり」

 「私たちの先祖が受け継いだもの」とは、異教的な宗教や文化、習わしのことです。それらは生まれた時から当たり前のようにあったから、それを受け入れ拝んできたけれど、その神々に助けられ、守られた経験はなく、実体のない「むなしい」ものに過ぎない。なぜなら、それらは「人間」「自分のために」造った神々だから、と”異邦人たちが”認識するようになるというのです。

 なんと、イスラエルの回復が、異邦人の救いに大きな影響を与えるようになるのです。

「わたしは彼らに知らせる…彼らは、わたしの名が主であることを知る」

 本来であれば、イスラエル自らが異邦諸国に主を示し、みことばを伝え、証しするべきでしたが、彼らはそれを怠りました。主を捨て、異教の神々を慕い求めるという、全く逆行することを行っていたために、主に拠ってさばかれたのですが、そんな彼らの回復する様子を通して、主が“彼らのなすべき証し”を立てさせてくださるというのです。主の民としての働きから脱落したイスラエルに、主ご自身が代打を打ってその働きを続けてくださいました。イスラエルが失格者のまま落ちぶれることなく、出直しできるよう道を備えてくださったのです。だからこそ、彼らは城壁や神殿だけでなく、信仰も再建することができたのです。

 

*では、16章を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。

 今回の箇所も、先回まで学んで来た不正が発覚し、解雇処分と引継ぎをするための業務整理を言い渡された「管理人」のたとえ話の続きで、自分に与えられているものを正しく管理することへの勧告が記されています。

*10節を読みましょう。

 ここでの「小さい事」とは、9節の「不正の富」と同じことを指していて、“この世のこと”を意味します。そして「大きい事」とは、9節の「永遠の住まい」と同じことを指していて、“御国(=天)のこと”を意味します。

 「小さい事に忠実」であるとは、この世において管理を任されているもの・・・お金だけに限らず、時間、能力、体力、知力、所有物などなど…それらを正しく用いることを意味します。

 では、正しく用いるとはどういうことでしょうか?

 普段、私たちは無意識のうちに自分に与えられているあらゆるものを“自分のもの”という考えを持っています。“自分の時間”と思っているので、自分の好きなように過ごします。たとえその時間の使い方に問題があったとしても「私の時間なんだから、どう使ったっていいじゃん」と考えるわけです。お金や持ち物も同様に、他者から見て「無駄にしているな…」という使い方をしていても、「私のお金なんだからいいじゃん」と考えるのです。他者がどう感じようと、自分が納得する使い方であれば「よし」と考えるのです。しかし、聖書は重要な事を教えています。

使徒14:15~17(抜粋)「・・・天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神・・・恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださった・・・」

使徒17:25「神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

 上記のみことばにあるように、私たちを造られた創造主なる神は、私たちが生きていく上で必要なものをも造られ、それらを与えて生かしてくださっているのです。

 毎日、太陽が昇って朝が来るだけでなく、日の光の下でたっぷりと活動することができる時間が与えられ、夜には、程よい月光の下で体を休める時間が与えられ、眠っている間にも天体は秩序正しく動いているので、また同じように朝が来るのです。季節ごとに変わる景色の美しさや食の美を喜び楽しむことができます。それらすべては、創造主なる神の恵みなのです。“恵み”とは、受けるに“ふさわしくない者”が受けることで、何の条件もなく、与え主から一方的に与えられるもののことを意味します。以下のみことばはそのことをよく表しています。

マタイ5:45「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 創造主なる神の目に、「悪い人」「良い人」も、決して失いたくない価値ある一人一人です。だから、等しく恵んでくださるのです。

 しかし、価値ある存在であるからといって、罪を見過ごすことはされません。なぜなら、創造主である神は“聖い神”であるからです。ですので、以下のことも平等に与えられています。

へブル9:27「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」

 すべての人に“いのちの終わり”が定められており、その先には、いのちを与えてくださった神のもとへ帰り、地上でのすべての言動を清算する“死後のさばき”が待っているのです。罪を解決せずに神の前に立つなら、自分の罪の刑罰を受けることに成ります。神は“さばき主”でもあるからです。しかし神は“救い主”でもあるので、次のような願いをもっておられます。

Ⅰテモテ2:4「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

エゼキエル18:32「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ」

エゼキエル33:11「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。」

 とはいえ、罪が赦されることは簡単なことではありません。だからこそ、神(キリスト)ご自身が、私たちの身代わりとなって救いを成し遂げてくださったのです。これぞ、最大かつ究極の恵みです。

ローマ3:23~24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」

 

*お祈りしましょう。

*12~14節を読みましょう。

 「鉄、北からの鉄や青銅」とは、バビロンのことです。それを砕くことができない、つまり、バビロンに勝利することはできない、ということです。

「あなたの財宝…宝物を獲物として、ただで引き渡す」

 ここでの「あなた」とは、悔い改めることの無かったユダの民のことです。その「財宝/宝物」は、彼らが大切にしていたものを指すので、文字通りの財産(土地、家、家畜など)はもちろん、エルサレム神殿やその中にある高価な物をも含みます。それらがバビロンによって奪取される、と告げられます。

「わたしはあなたをあなたの知らない国で敵に仕えさせる」

 「あなたの知らない国」とはバビロンのことであり、「仕えさせる」とは、捕囚民となってバビロンに長く留まらなければならない、ということです。

 それらが引き起こされる理由は「あなたが犯した罪」に対する「わたしの怒り」が燃え上がるからだと告げられています。バビロンが強すぎたからではなく、罪を認めず、悔い改めもしなかったからなのです。

*15~18節を読みましょう。

 この段落はエレミヤの祈りです。

「私を追う者たちに復讐してください」

 「私を追う者たち」とは、エレミヤを憎み、殺害計画まで立てていた同胞の迫害者たちのことです。復讐を祈り求めるなんて…と思われた方もいるかもしれませんが、これは「自分で復讐しない」という意思表示であるとともに、主の御告げが拒絶されていることへの怒り、悲しみ、悔しさを表している祈りでしょう。自分で感情のままにさばくなら、失敗します。主の正義に委ね、その罪が主に取り扱われることを求めることは最善の選択です。

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」

 エレミヤは、敵(迫害者)からの脅迫や圧迫を受けても、預言者としての働きを棄権することなく忠実に続けることができたのは、みことばをしっかりと自分のものとしていたからです。

 「見つけ出し」とは、“出会う”という意味の語なので、自分が必死に捜し求めて発見した、ということではなく、みことばの方からエレミヤの方に近づいて来てくれた、というようなイメージです。

申命記30:14「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができある。」

 そして「食べました」とは、“食べ尽くした”の意味があるので、ちょっとかじった程度、気に入った聖句が見つかった程度ではなく、厳しいことばも愛あふれることばも“すべて”をしっかりと受け取ったということです。ちょうど、食べた物がただ体を通過して排泄されるのではなく、体の一部となり、自分を支える力になっていくように、見聞きしたみことばが、自分を生かすための糧になり、自分自身の生活(人生)を支える力になっている、と告白しているのです。

「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」

 ここでの「楽しみ/喜び」は、全身で表わすほどの歓喜、はしゃいで大喜びする様子などを示す語です。苦しく辛い状況の中でも、それに捕らわれない喜び、苦しみをもしのぐ大きな喜びを与えてくれるのがみことばだ、と告白しているのです。

「私にはあなたの名がつけられているから」

 「エレミヤ」という名前には、“主は高められる”、“主は見出す”などの意味がありますが、この流れ的に“主は見出す”という意味にかけての告白でしょう。「名前の通り、私は主に見出され、私はみことばに出会いました。このことを感謝します」といった感じでしょうか。

 しかし、これはエレミヤだけに限ったことではなく、私たちも同じ喜びと感謝を表すことができるのです。

使徒11:26「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

 「キリスト者」という呼び方は、現在も“クリスチャン”という名称で残っていますが、当初は、悪口からつけられたあだ名でした。しかし、使徒や弟子たちは、迫害者たちから自分の信仰を嘲笑されても、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜び」(使徒5:41)ました。自分が本当にキリストを信じ、証している者だと、世間から認められたようなものだからです。

 私たちも、信仰ゆえに苦しむとき、辛さを覚える時、信仰の先輩たちの喜びを思い出し、感情に従うのではなく事実に添って喜ぶことを選ぶべきです。

 一方エレミヤは、この世に目を転じれば、そこには何の喜びもない世界が広がっているとも告白しています。

 「戯れる者たちの集まり」とは、主なる神を無視して生きる人々が、その空しさを満たすために快楽にふける様子を描いています。そのような場に「すわったこと」がない、とは、参加したことがないこと、「小躍りして喜んだこと」もない、とは、罪によって満足を得ようとしたことはない、と。

 しかし、周囲を見渡せば、”主ではない他のもの”、”みことばではない他のもの”で心を満たそうとする人々、自分をいやそうとしている人々ばかりです。そのような人々に「憤りを感じている」とも告白しています。

 さらには、みことばを食べ尽くし、みことばによって慰めと励ましを受けたからこその痛みと苦しみがあると訴えています。

「なぜ、私の傷みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、いえようとしない…」

 エレミヤは、語っても手ごたえのない人々、むしろ現実逃避するために快楽を捜し求めている人々の姿に、憤りだけでなく心を傷めていました。それは、どんどん深い傷となり、苦悩は積み重なっていくばかりのように感じていたのでしょう。本当に報われるのだろうか…というようなマイナス思考的なつぶやきをも吐露してしまうのです。

「あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか」

 「当てにならない小川」とは、常に水が流れているわけではなく、季節や天候状況によってからからに乾いた状態になってしまう川のことで、このような川はパレスチナ地域に実在するものでした。小川の水は、旅人の渇きや疲れをいやすために必要なものでありながら、いざ必要を覚えて近づくと水がない…という”期待外れ”なときもあったのです。その状況にたとえて、今、主からのいやしが必要であるのに、私の心はこんなに苦しいままでいやされていない…主への期待は裏切られてしまうのですか、という訴えです。

*19節を読みましょう。

 エレミヤの正直な泣き言に対して、主は答えてくださいました。

「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ…立たせよう」

 主は、苦悩に押しつぶされそうになっているエレミヤに、直ちにいやしを…ではなく立ち返るよう迫りました。「帰って来るなら」というのが“立ち返るなら”という意味です。

 エレミヤは“民衆の一人”ではないのです。預言者として召され、遣わされた主のしもべなのです。人情や人間的見方は預言者の働きを妨げます。私たちが証し、伝道する時もそうです。人情が先立つと、罪を見過ごしたり大目に見たりしてしまうこともあります。人間的見方で判断すると、人を恐れて罠にかかったり、高ぶってさばいたりしてしまうこともあります。…一体、何を伝え、何を求めているのかわからないですよね。

 エレミヤはなぜ苦しんでいたのでしょう?

  何に、心を痛めていたのでしょう?

 …それは、さばきがせまっているのに、人々が御告げを拒絶し、悔い改めないことに対してです。忍耐し続け、あわれんでくださっている主がないがしろにされていることに対してです。…ならば、人の側に立って主に不満をぶつけるのは、本末転倒なのです。

 でも、主はエレミヤの苦しみにも同情し、理解してくださるお方です。ここでいきなりエレミヤを叱るのではなく、立ち返りなさい、という呼びかけと、その先にある「あなたをわたしの前に立たせよう」という回復の約束こそ、エレミヤをいやすものなのです。

 そして、どのように立ち返るのか、その具体的な勧めをも告げられています。

「卑しいこと」(=不平不満や愚痴)ではなく、「尊いこと」(=みことば)を語るべきこと。

 不平不満や愚痴は、相手に恵みを与えません。つまずかせてしまう危険もあるのです。

② この先、人々がエレミヤの言うことを信じるようになることはあっても、エレミヤが彼らのいう事を信じるようになってはならない、ということ。

 人を恐れること、妥協してしまうことへの警告です。いつでも主を畏れるべきです。

③ 主がエレミヤと共にいて、救い助け出す、という約束を信じて、主の側につき活動すること。

 主に遣わされ、使命を与えられたのであれば、主が責任を負ってくださっている、ということでもあるのです。自分が強いか弱いか、自分ができるかできないか、ではないのです。「神さまにとって不可能なことは一つもありません」というマリヤの告白こそ、自分の確信とすべきです。

 これらの勧めは、現代の私たちにとっても必要なことばです。

 

*では、15:12~21を読みましょう。 

 ・・・最後にお祈りしましょう。