*13節を読みましょう。
13節は、先回までの「不正の富」についての結論的ことばです。
「不正の富」と「まことの富」、「小さい事」と「大きい事」、「他人のもの」と「あなたがたのもの」という二つのものが対比して語られましたが、それらをどう用いるかは、「ふたりの主人に仕える」ようなものだと説明しています。
上記に挙げた項目は相対するものなので、両方に同時に仕えることは不可能なのです。しかし、当時の人々は神を愛すると言いながらも、お金や地位や名誉をい愛し、誇っていました。それらは力を持っているよう見えますが、この世でしか運用できないもので、その力も一時的なものです。しかも、一番大切な“いのち”を与える力はありません。まして、罪を赦す力もありません。しかし、人間にとって一番大切なのは”永遠の行き先”です。死後に続く永遠という時間をどこでどのように過ごすのかを、この地上にいる間に決めなければならないのです。その決め手となるのは“お金”や“社会的地位”、“名誉”ではありません。“罪の赦し”という解決を伴う“救い”によって決まるのです。それが、キリストの成し遂げられた十字架による身代わりの死なのです。
このキリストによる救いを受け入れた者は、たとい経済的、社会的に豊かでなくても、真に幸いな人と呼ばれるのです。
*14節を読みましょう。
さて、1節から続いた「管理人」のたとえ話と、それにまつわる解説を聞いていた「パリサイ人」が反応します。彼らは「金の好きなパリサイ人」と紹介されていますが、この「金の好きな」とは、“金に支配されている、執着している、”という意味なので、お金を得ること、増やすことに懸命で、お金があることで安心感を得ていた人であることがわかります。また、おそらく「裕福であることが神に祝福されている証しだ」と考えていたふしもあったのだと思われます。だからこそ、イエスさまの話を聞いて「愚かな話だ、ばかばかしい…」と嘲笑っていたのです。そんな彼らの心を知っておられたイエスさまは、彼らに語りかけられます。
*15節を読みましょう。
「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」
「人の前で」とは、“人の目を気にして”とか、“人に見られていることを意識して”というようなことを示し、「自分を正しいとする」とは、“自分で自分を義と認める”ことを意味します。当時のパリサイ人たちは、人が見ている時に宗教的な行動を取っていました。人前で熱心に祈ったり、大きな額の献金をしたり、慈善活動に勤しんだりしていました。しかし、人の目に触れないところでは行いませんでした。なぜなら、それらの行動の目的は“人から褒められる”ためであり、“人から評価されたい”ためだったからです。しかし、「神はあなたがたの心をご存じです」と言われているように、神さまは“見える”部分だけで判断なさる方ではなく、隠れた思い、行いこそ、見ておられる方です。
マタイ6:1~4(抜粋)「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。…施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。…隠れたところで見ておられるあなたがたの父が、あなたに報いてくださいます。」
パリサイ人のように、自分があがめられることを求めることは、自分が“神”となっている状態と同じで、そのような思想から宗教や偶像礼拝が誕生するのです。
*16節を読みましょう。
「律法と預言者はヨハネまでです」
「律法と預言者」とは、“聖書(みことば)”を指します。「ヨハネ」とは“バプテスマのヨハネ”のことです。これまでにその時代ごとに預言者たちを通してみことばが告げられ、それらのみことばは“聖書”として遺されてきました。しかし、そのような神さまからのメッセージを告げる“預言者”は、バプテスマのヨハネが最後であり、伝えるべきメッセージは完了していると言われています。
では、ヨハネはどのようなメッセージを告げたのでしょう?
マルコ1:15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
ヨハネ1:29「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ。世の罪を取り除く神の小羊。』」
聖書の中で最も大切なメッセージは「救い主が来られる」という約束です。ヨハネはその約束の時が来た(成就した)ことを告げました。だから今は「悔い改めて福音を信じる」のみであると告げたのです。
*お祈りしましょう。