「契約のことば」とは、何を指すのか?それはかつて、エジプトから救出された先祖たちが、荒野において主なる神から与えられた「契約のことば」のことです。
出エジプト19:4~5「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
レビ26:3、12「もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、・・・わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」
本来、イスラエルは4~5節にあるような祝福を受ける民でした。
主の民になる
主が私の神となってくださる
乳と蜜の流れる地が与えられる
申命記6:3「イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」
そして、上記の約束は成就したのです。…しかし、その祝福は長続きしませんでした。
「わたしの声を聞けと言って、しきりに戒めてきた。しかし彼らは聞かず…」
彼らは重大な誤解をしていました。約束の地である“カナンに居住すること”によって「わたし(=主)の民」となると。しかし、主は、「わたしの声に聞き従い…行(う)」ことによって「主の民となる」と言われたのであって、どこに住むかは、“みことばに聞き従うこと”以上に重要ではないのです。主に聞き従うことの延長線上に、祝福(約束の成就)はあるのです。このことを改めて認識し直す必要がありました。
「それで、わたしはこの契約のことばをみな、彼らに実現させた」
「契約のことば」には、守り行うことによる“祝福、幸い”の約束だけでなく、守らなければ“のろい、わざわい”を受けなければならないことも明言されていました。ここで「実現させた」と言われているのは、後者の“わざわい”の実現です。
レビ26:14、33「もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行わないなら、・・・わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」
ユダの民が受けている苦しみ、この先のユダの民が受ける苦しみは、誰のせいでもなく、ユダの民が「聞き従わなかった」(=主への反抗、背信)に拠るのだと。だからこそ、彼らにバビロンに抵抗するのではなく、降伏しなさいと命じられているのです。
主がバビロンを使って懲らしめようとしておられるので、バビロンに抵抗することは“主と戦うこと”になり、バビロンに降伏することは“主に降伏(へりくだる)こと”になるからです。
エジプトから救出され、約束の地であるカナンへ導かれる途上において「契約のことば」が与えられたことは、イスラエル民族の原点ともいうべき出来事で、子々孫々に語り継がれてきた大切な教えでした。それを今一度、エレミヤによって語り聞かせようとしておられるのは、主がイスラエルに求めておられるのは、“原点に立ち返ること”であることを気付かせるためなのです。
*9~13節を読みましょう。
では、なぜユダの民は主の御声に聞き従わなくなったのでしょう?
「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある」
「謀反」とは、主君に対して武力を用いて反乱を起こすことで、支配(権力)を転覆させようとする反逆罪です。日本史だと、本能寺の変などがそれに当たりますが、これは、最初の人間(アダム)が犯した罪そのものであり、私たち誰もが犯し得る罪なのです。
「ほかの神々に従って、これに仕えた」
「主に支配されたくない!」と「謀反」を起こしたのに、「ほかの神々」に仕えたのはなぜか?
「ほかの神々」は、仕えやすい神だからです。人間の欲のままに(都合よく)作った神なので、仕えることに苦痛は無いのです。つまり、人間は自分の欲に仕え、自分の罪の力に支配されていることに気付いていないのです。主なる神が与えてくださる救いは、この罪の支配からの解放であり、真の祝福は罪赦されて、主との関係が回復されることなのです。
「彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、…彼らを決して救うことはできない」
一方、人間が自分の意のままに作った神々は、救いを与えることはできません。
当時、ユダには「町の数ほど/エルサレムの通りの数ほど」神々の像や祭壇があったと記されています。これは、偶像が民衆の日常に欠かせない存在であったことを示しています。それほど多くの神々に囲まれていたのに、「わざわいの時」に助けてくれる神々はひとつもないのです。これが偶像の究極の虚しさです
*14~17節を読みましょう。
さばきの宣告の後、主はエレミヤに「この民のために祈ってはならない」と、とりなしの祈りをしてはならないと命じられます。同じ命令(とりなし禁止)は、7章でもありましたが、この先14章、15章でも告げられています。なぜでしょう? 彼らが真に立ち返るためには、あえて厳しい取り扱いを受ける必要があるからです。ここで人情的な思いであわれみを乞うたりしてしまうなら、彼らのためにならないだけでなく、逆に彼らが立ち返る機会を失わせることになるからです。
「わたしを呼ぶときにも、わたしは聞かない」ということばは、冷たく突き放しているように見えるかもしれませんが、主ご自身が誰よりも彼らを愛し、彼らの姿を悲しんでおられる故の厳しさであることを知らなければなりません。その証拠に、主はユダの民を「わたしの愛する者」と呼んでいます。
ユダの民が、「わたしの家」(=神殿)にまで偶像や異教の神々への祭壇を持ち込み、主に逆らう行為をしているのに、それを大目に見てあげることは優しさではありません。
かつて彼らを「良い実をみのらせる美しいオリーブの木」として、約束の地に植えられた(住まわせた)のは主なる神です。植えた方だから、引き抜く権威ももっておられるのです。そして、再び彼らを植え直すことができる方は、主だけなのです。
*18~23節を読みましょう。
最後の段落は、エレミヤ暗殺計画が企てられていることを、主がエレミヤに知らせてくださったことが記されています。
「ほふり場に引かれていくおとなしい子羊」とは、自分が殺されることを全く気付いていない様子を示す表現です。つまり、エレミヤにとって、自身の暗殺計画が立てられていることは予想もしなかったことだった、という驚きを示しているのです。
「木と実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」
「木」とはエレミヤのことで、「実」とは、エレミヤの実績や働きの成果のことです。エレミヤ自身を殺害するだけでなく、彼の記した書物や手紙なども抹殺し、エレミヤの痕跡を少しも遺さない、という計画を立てていたようです。
しかも、暗殺計画を立てていた人々は、「アナトテの人々」でした。「アナトテ」(1:1)とは、エレミヤの出身地であり、祭司の町です。エレミヤは、バビロンに降伏せよと語っていました。それが、主に降伏することであるからです。しかし、偽預言者は逆のことを言いました。そして、時の王もバビロンに反逆する政策を進めていました。…すると、エレミヤは愛国心が無い“反逆者”扱いされるわけです。そんなエレミヤに対する風当たりの強さは、祭司である身内からも厄介者扱いされる一因となったのでしょう。自分たちの立場を守るために、エレミヤを亡き者にするという決断はそう難しくなかったのかもしれません。
エレミヤにとっては、身内からの殺害計画ほどショックなものはないでしょう。しかし、エレミヤは感情的になったり、取り乱したりうることなく、冷静に受け止めています。それは、主に目を向けていたからです。
*では、11章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。