ハロウィン肖像画Ⅲー5 柴本さとみ | New 天の邪鬼日記

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小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。



この絵はメキシカン・キルトの可愛い背景でいこうと描きはじめた。

しかし主人公のさとみがあまりにうまく描けてしまい、背景との違和感を感じた。
創作の女神が悪魔のようにささやく。
「ねえねえ、さとみちゃんの大河ドラマに描き替えちゃえば?」
えー、バックを全部消して描き直し?!
ここで拒否れば神様のGOサインが出なくなる。
オレはさとみのライフストーリーを読み返し、さとみの生きた1シーン、1シーンをバックに描き入れていった。

1ー1、地球に転生する魂、もしくは卵子に向かって泳ぐ3億匹の精子。

京都に次女として生まれる。

1ー2、コウノトリと赤ちゃん。背景は京都タワー。
1ー3、家族構成は父、母、姉の4人家族。

物事ついたときから父母の喧嘩の記憶から父を恐れる。
父は私には優しかったが大好きな母をいじめるので大嫌いだった。
しかし怖いので父を常に怒らせないように、険悪な空気を読んで無邪気な子供らしく装い、和ませるよう立ち回っていた。
心中はいつ喧嘩になるかヒヤヒヤしながら、父の膝の上に座りながらもビクビクしていた。
険悪な空気になると母が「あっちに行っとき」と少し離れた場所に子供を誘導する。
姉は私の耳を塞いで抱きしめていてくれたが、父母の怒声と破壊される家財の音から逃げられるはずもなく、小さなアパートの隅っこで震えていた。

5歳の時に滋賀に引越し、新築された家と共に祖母との同居が始まる。
ちなみにその家に私は現在も住んでいる。
祖母は当時京都の病院で付き添いさんをしていたので家にはほぼ居なかった。

今でも鮮明に思い出すのは小学1年生の夏休み。
1ー4、台所で昼食のそうめんを茹でていた母に馬乗りになり首を絞めている父。
母の手には包丁が握られ、「2階に行っとき」と私をかばうものの「そこで座って見とけ!」との父の怒声に私は居間に正座して、地獄のような父母の様子を眺めていた。
水道からはそうめんを冷やす水がザーザーと音を立て、私は父母を見ながら見ていず
「ああここで私も死ぬんやな」と他人事のように俯瞰していた。

1ー5、小学2年の時に父が去り、母子家庭になった。祖母が帰ってきた。女性ばかりの4人家族になった。
私にとっては父は恐怖でしか無かったので本当に嬉しかった。
父と別れてくれた母に感謝した。



2ー2、母の顔。
そこから母は病院の介護士の仕事と、深夜の仕事の2つをかけ持ちし、私達姉妹を短大までいかせてくれた。
夜勤もしつつ平均睡眠時間4時間の生活を25年近く続け、父の借金と家のローンまでも完済した。
母の晩年に父と別れた理由を聞いたところ、子供への教育方針の相違が決定的な原因だった。
高学歴の父は娘には高校に行かなくていいという方針だったらしい。
母は私達姉妹の未来を守ってくれた。
父は教育者の厳格な家の末っ子であった。
しかし見栄が強く女性関係が華やかで浪費家で母を悩ませた。
非常に頭が良く口が立ち、家族は常に言葉の暴力に晒されていた。

そんな父が高校2年生の時に帰ってきた。
どれくらい家に居たのかもう記憶がない。
私には最悪の日々だった。
父に好かれていた私は父の前では機嫌を損ねないよう利発に振る舞い、一方心の中でどうやったら父を殺せるかばかり考えていた。
当時の状況としては姉は嫁いでおり、祖母と母しか居なかった。
父と祖母とは昔から仲が悪く母は日中不在のため、祖母は姉の家に避難した。
最悪な環境の中、母は嬉しそうだった。
それが私の嫌悪感をさらに強固なものにした。
不信感しかなかった。
「大きくなった私に何ができるだろう、父を殺すことしかない!」
父の首を絞める電気コードを探しながら「これは正解か?」と自問していた。

2−1、 kobara: mujhe shakti do(ヒンディー語。コブラ・ムジ・シャクティ・ド)コブラ、力をください。

ある日父が出ていった。
母がお金で方を着けたのだと後でわかった。
私は殺人者にならずに済んだ。
私はこの時に男女間の深い複雑な底を理解した気がする。



生来のんびり屋の私はこれといって自分の将来というものに見通しもなく、なんとなく就職し学費を貯め、姉のアドバイスに従って美容師の免許をとった。
2−3、美容師。
全く人任せの人生だった。
美容師の仕事は面白かったが、人間関係の悪さに辟易し、休日も講習漬けの毎日に疲れて現場を離れた。

31歳の年に母が倒れた。
骨髄異形成症候群の進行によるものだった。
私は仕事を辞め母に付き添うことになった。
日中は母と病院で過ごし病院の消灯と共にそこから深夜のバイトに出かけ、祖母の様子を伺いに家に帰宅し、仮眠してから病院の起床時間に間に合うように母の元へ戻る
入退院を繰り返しながら病状が悪化していく母の介護をしていた1年半が、1番母と長く過ごした時間となった。
2ー4、母の死。
33歳の年に母を看取った。
真面目で真っ直ぐな尊敬する大きな母親だった。
お天気がいい日に病院の屋上で母の髪を切りながら、母は初めて私に自分の人生を語った。
それが母とまともに交わした最後の会話だった。
母を愛していた。
甘えん坊の小さな私は忙しい母に甘えることも出来ず、そのまま大人になり、母に十分な感謝も伝えられず母を逝かせてしまった。
最愛の母。屋上で「後悔することは何もない」と静かに微笑んで語っていた尊敬する女性。
あなたの話をもっと聞きたかったと今でも思う。

母が亡くなってから美容師に戻った。
きっかけは遺品整理をしていた時に見つけた私が母に宛てた25歳当時の手紙である。
母は美容師になった事をとても喜んでくれた。
当時の手紙には美容の道に進む私の心情と母への感謝が綴られていた。
こんな薄っぺらい手紙を大事にしまい私を信頼していてくれていた母。
私は当時の自分と母の愛に叱咤されて美容師への道に戻ったのだ。



3−1、息子の誕生。
40歳で息子が誕生した。
1キロに満たない超低体重児だった。
状況がよく分かっておらず漠然と大丈夫だと思っていた私に反して、周りの私を励ます言葉を聞いているとそうでは無いらしいことが分かり、自分の事を他人事のように聞いていた。

私の入院中に抗がん剤治療中の中園さんがお見舞いにきてくれた。
私は子供を愛せないのではないかという不安を口にした。
なぜなら私にとって子供とは愛というよりは家を存続させる使命の方が勝り、その上帝王切開で誕生した我が子であったので、出産したという実感がなかったからだ。
子供を産んだら母性が急に溢れると思い込んでいたが、実際は自分の身体の痛みで母性の欠片も見つけられなかった。
なのに周りは母親として接してくる。違和感と戸惑いしかなかった。

慶子さんは1冊の本をくれた。
3−2、タイトルは「あなたがだいすき」
「わたしは あなたが だいすきです
せかいで いちばん あなたが だいじ
いつでも あなたを まもってあげる」
ちいさなちいさな子どもを、おおきな体でどうぶつたちがすっぽり包みこみ、ほおずりします。
子どもは、どうぶつたちの首にうでをまわし抱きつき、ほほをよせ、しあわせそうに目をつぶります。

「大丈夫、大丈夫や」慶子さんは何度も私の手を握ってくれた。
あの時慶子さんが私の心を拾い、母にしてくれたのだ。

3−4、慶子



高齢の祖母と同居させてもらいつつ、育児と仕事の日々が始まった。
慶子さんが主催するというので初めてみかんさんのライブに行った。
慶子さんの心を救ったAKIRAという人やそこを中心に形成される人間関係や歌に興味があった。
なによりAKIRAライブの話を生き生きとする慶子さんを見てて、こちらまで元気に幸せになった。

そのうち高齢の祖母の見守りか必要となり始めた。
98歳で大腿骨骨折からリハビリで自力歩行復活のバイタリティあふれる勇気の塊のような可愛い祖母。
下降していく祖母の曲線と成長していく息子の曲線を同時に目の当たりにする貴重な時間。
少しづつ衰弱していく祖母を見守り、母のような後悔はしないでおきたかった。
祖母は12歳の頃から奉公に出され子供時代を知らずに成長した。
だから子供は子供らしく遊べと、子供好きな女性だった。
戦争からの病で早逝した祖父の代わりに農家を切り盛りし、女手一つで母を育てた。
村で1番に自転車に乗ったのも祖母だったらしい。
新しいものを進んで取り入れるフロンティア精神とバイタリティと決断力。
家系が存続しているのは祖母のおかげだといっても過言では無い。

4−1、祖母の死。101歳。
101歳の天寿を全うしたが最後までかっこいい可愛いおばあちゃんだった
「最期の一息まで生き切る」と言って3ヶ月ほど入退院しつつ自立心は失わないままの、勇気のお手本となって、残された家族に光を与えて天に還った。
勇気ある101年だった。
時間が経てば経つほど祖母の偉大さが身に染みる。
自分の身体が変化していくにつれ祖母を見習わなくてはという気持ちが大きくなる
「もっと労わってあげたら良かった」と、その時はやっていたつもりではあったがやはり後悔は残る。
人が亡くなるということはそういうことなのだ。
母と祖母を見送り2回も喪主となった私に時間が出来た。

3−3、AKIRAライブ
祖母が無くなったのと同年の秋に滋賀でAKIRAさんのスーオペラが開催されたのだ。
みかんさん主催のあのイベントで初めて私は、なぜ人がAKIRAさんに惹かれるのかという心情に触れた気がした。
そして私もスーおじいさんと祖母が重なってイベント中涙でまともに見ることが出来なかった。
スーおじいさんの最後のメッセージ「生きることは喜び以外の何物でもない」
救われた気がした。
そしてその時スタッフをしていた慶子さんが「会場ポスター書いてくれる?」とのふとした一言から今に至るのであります。



4−2、夫、息子、
愛する息子と家庭を支えてくれる主人。
慶子さんを始めAKIRAさんで繋がっている人々との出逢い。
AKIRAさんの「Puzzle」の歌の通り、どれかひとつが欠けても今の私にはなれなかった。

今も私は他人事のように自分を生きてる感覚がある。
その時は一生懸命今を生きてると思うのだが、過去を思う時なんだか他人事のように
書いてるのを読んでも自分の事のように思わない。

人はどう思うか分からないが、私は自分の人生は特に何事もなく平穏で幸せだと心から思う。
なぜなら自分の定規しかないから他を測れないから分からないのだ。
私が生きてきた中で起こった全ての事は私にとっては至って普通であり、それ以上もそれ以下もないのだから。
母と祖母に愛され、姉に守られ、苦労せず何不自由なく育ててもらった。
今も好きな仕事をしつつ、ステキな人々に囲まれ、愛する息子と幸せに過ごしている。
これから起こるかもしれない未知のことも、きっとこんな感じでのらりくらりと越していけると知っている。
なぜならたくさんの人に関わってもらい、智慧を授けてくれる愛すべき人が回りに大勢いるから。
ご先祖さまに私は幸せだと毎日感謝している。
生命を楽しむことが命を授けてくれた人々への一番の供養になると分かっているから
とても幸せです。(以上さとみの文章)



なんて人の人生はすばらしいのだろう!
成功や富や名声とはまったく関係なく、すべての人生がすばらしいのだ。
さとみが今のさとみになるためのレッスンが完璧に用意されている。
とくに命がけで子供を守ったお母さんがに涙した。
24年間も4時間睡眠で働きつづけ、娘たちを短大まで行かせてくれた。
この絵をウェブにアップした時、さとみの目に入ったのは、ピースサインをするおばあちゃんで、仕事中にもかかわらず号泣で化粧が流れたという。
101歳の天寿を全うしたんだから、やっぱピース(アメリカではビクトリーを表す)でしょ。
驚くべきはコラソンのペンダントで、さとみが手作りしたものと同じものを描いていた。



ハロウィンメイクをみていこう。
1、ひたいに光る目。ojo brillante。オッホ・ブリジャンテ。
さとみのマンガはささやかな日常を観察して笑わせる。
世界を見つめる輝かしい目である。
2、目は太陽。エル・ソル。
無条件の愛を与え尽くす太陽のように温かい眼差しで人々を見守ろう。
3、あごは愛の手。マノ・デ・コラソン
さとみのおばあちゃんもお母さんも手先が器用で物作りが得意だった。
ハートとが入った手で創作し、愛を届けよう。

F15号(652×530mmSold


さとみのライブペインティング

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さとみのハロウィンメイク

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ハロウィン肖像画Ⅲー4 PICO


ハロウィン肖像画Ⅲー3 吉永くみこ








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