りんりん(瀧川凛)はロンドンサザビーズの美術学校へ留学し、そのまま15年間、フリーランスの美術系ライターとして独立し、ロンドンに家も買った。
現在は京都在住で物語作家を目指している。
りんりんはビクトリア朝のメイド服はワインレッドのベルベットで、赤い編み手袋をして本を読んでいる。
メイド服は創作の女神(物語)に仕える象徴だ。
編み手袋は表現に苦労したが、これも物語の核心を網でとらえるイメージだ。
りんりんがもっとも影響を受けた「不思議の国のアリス」をモチーフに絵を描いた。
12時から時計回りで、エッグマン→マッドハッター(狂った帽子屋)→作者ルイス・キャロル→キノコと水パイプをふかすイモムシ→絶滅したドードー鳥→AKIRAサインの月に腰かけギターを弾く男→薔薇のゲートへ入っていくアリスの後ろ姿→物語を描くりんりん→太陽のAKIRAサイン→怒ってるハートの女王→時間を気にするウサギ→笑うチュシャ猫である。
ちなみUFOがりんりんとうさぎの間に飛んでる。
りんりんの書いたページが道になり、人々はカンテラで照らしながら文章を読み、人生を歩いていく。
道はルイス・キャロルの頭へと続いている。
りんりんが人々を導くような物語作家になる祈りを込めてこの絵を捧げる。
ではりんりん(作家名は瀧川凛)のチョーおもしろいドタバタ人生を紹介しよう。
●神戸 幼少期の夢 あの水平線を超えて行け!
幼少の頃の写真というのは、可愛いものが多いはずが、私の場合はなんとも情けない姿が多い。
生まれてすぐ、股関節脱臼になってしまい、足を左右におっ広げたまま、又を座布団のようなギブスで固められて、テディベアのように床に転がっているといった具合。
何しろ、ハイハイさえできなかったので、その頃の鮮明な記憶というのは、四畳半の畳のヘリをとにかく超えて行きたいという衝動だった。
眠りにつけば、ディズニー映画で見た憧れのピーターパンのように夜の街を自由に飛んでいた。
でも、いつも、決まって、ドーンと地面に叩きつけられて目が醒める。
結局は羽を焼かれたイカロスなのか?現実は、厳しい。
私はいつも、思うようにならない自分の身体や重力に拘束されている気がしていた。
「なんで、こんな不自由な世界に生まれてきたのだろう?」と嘆き、夢想ばかりしていた。
神戸の山側の団地に住んでいたので、家からは水平線の上を滑っていく小さな船の影が見えた。
水平線と畳のヘリの線がいつか重なり、「団地の四角四面の四畳半のヘリを飛び超えて水平線の向こうに行くんだ」と焦燥感にかられ、両手を伸ばしていたのを覚えている。
3歳の頃までには、股関節脱臼を克服し、歩けるようになったものの、病弱で、よく入院を繰り返していた。
そんな虚弱児を案じるあまり、両親からは行動を規制されることが多く、20歳を過ぎても、どこに行くにも母が付き添って、門限は午後6時という厳しさ。
昔、怖いものランキングに「地震、雷、火事、親父」といわれていた時代があったが、私の場合、地震の次は親父だった。実に、怖かった。そんな私にも反抗期が20代になり、遅れて訪れた。
●東京 父への反抗と家出
大学時代の同級生達から、「あいつは親のいいなりで、いずれ見合い結婚でもするだろう」と思われるほど、私は不甲斐ない奴だった。
そんな中、私は、リチャード・アッテンボロー監督の映画「ガンジー」を見て、ガンジーにインタビューするキャンディス・バーゲン扮するマーガレットバークホワイトに目を奪われた。女性初のLIFE誌の報道カメラマン。
それから、地味で平々凡々だった私が、密かにジャーナリストを目指すことになった。「戦場の銃弾をものともしないジャーナリストになるんじゃ〜」と、密かにマスコミセミナーに通い始めた。
そこで、共にマスコミへの就職を目指していたコーヤ君と出会った。
彼は、いつも毛玉だらけの紺のセーターを着ていた。タイプではなかったが、マスコミはもとより、就職も許されない私の家の事情を知り、親身に相談にのってくれるようになり、付き合うようになった。
互いに励まし合いながら、出版を目指したが、私の目指す出版社は女性の採用がないということで、あろうことか、あっけなくマスコミを断念した。
コーヤ君は、大手の企業に就職しながら、すぐに独立。自ら出版した本が大いに売れて、そのお金で、世界を巡る旅に行ってしまった。
その3年ほどの間、私は、一般企業に勤めながらお金をためて雑誌を立ち上げようとしたが、失敗。
通常は大飯食らいの私が、食事も喉を通らないほど挫折感に苛まれている時、帰国していたコーヤ君と神保町でばったり出会った。
彼は、ロンドンの大英博物館で「不思議の国のアリス」の原本を見て、ルイスキャロルが、ただ一人の少女アリスのために書いたお話だったことを知り、どんなに感動をしたかを熱っぽく語った。
しばらくして、彼は、その英語の原本と日本語訳の本をセットにした夢見るような本を出版し、私にプレゼントしてくれた。
そして、私に「世界を見せてあげたい!」と世界旅行の旅に誘ってくれた。
私はアリスの物語に感動しながらも、その時、雑誌の立ち上げに失敗し、失意のどん底にいたので、自力で泥沼から這い上がらなければダメだと思っていた。
コーヤ君の差し出してくれた温かい手にすがることを潔しとできなかったのだ。
すると、コーヤ君は「君は一生、世界を見ることなんてできないよ!」と言い放ち、私の前から去っていった。
最初は、コーヤ君に申し訳ないと思っていたが、この捨て台詞に俄然、奮い立たされた20代の私は、「一人だって行ってやろうじゃないか!」と、闘志を燃やし、そこから人が変わったように、海外留学に向けてスイッチが入ってしまった。
アルバイトに勤しみ、親に隠れて、英国の留学先や滞在先を探し、紆余曲折の果て、やっと留学することになった矢先、兄が私の部屋を物色して、秘密裏に進めていた英国留学計画がバレた。
この発覚により、父は脳梗塞で倒れてしまった。
入院している父を見舞っている時、罪の意識に苛まれたが、主治医が、「2〜3ヶ月後には回復するから大丈夫」と言ってくれたのが救いだった。
しかし、病室の父に別れを告げに行くと「親を捨てるんだな。もう戻るな」と勘当を言い渡された。
1988年7月、玄関の前で涙顔で私を見送る母を残し、夏服冬服2枚ずつと本だけをいっぱい詰めたトランクを片手に、私は、片道切符の航空券でロンドンを目指した。
両親への申し訳ない気持ちはいっぱいだったが、まだ見ぬロンドンでの生活や学ぶことになる美術学校での授業を思うと、期待と興奮と不安の気持ちが入り混じり、胸は高揚感でバルーンのようにはち切れそうだった。
●ロンドン 毎日がアート漬けのワンダーランド
ロンドンでは、入学までに2ヶ月ほどあったが、お金がなかったので、ポートベロロードのアンティーク市場に行って、店主と話すことで英語をブラシュアップした。
ありがたいことに、当時、国立美術館は、無料で入館でき、ランチタイムは学芸員が名画の前で1時間も解説をしてくれる、無料のプログラムがあり、極貧状態の私でも、文化的な生活をすることができた。
貯金だけでは生活費が足りないので、アルバイトをしたり、醤油がけオートミールを食べて食費を削ったり、服も靴もオンボロだったが、心は豊かだった。
私が入学したのは、サザビーズというオークション会社が主催する学校で、9月から西洋美術史や現代美術を学び、めくるめく日々を過ごした。
午前中はスライドで座学により、美術史や作品の鑑賞の仕方を学び、午後には大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・ギャラリーで古代ギリシャのパンテノン宮殿の一部やレンブラント、ターナーの名作をじっくり鑑賞し、レポートを書くといったカリキュラムだった。
学友たちは、世界的なコレクターやギャラリストなど、裕福な家庭の出身者が多く、授業が終わると街に繰り出し、夜な夜なパーティーで踊り騒ぎ、青春を謳歌していた。
私は、経済的にも精神的にも、授業と下宿先の往復で精一杯だった。
学校の先生からは、「Sachiko、もっと、肩の力を抜きなさい。アートはもっと余裕を持って楽しまなければね。あなたみたいな人がアートワールドで仕事見つけるのは難しい」と言われた。
私は、いつも教室の前列に陣取って、しかめっ面で授業を受けていたらしく、好印象を持たれていなかった。
「こっちとらは、背水の陣を引いてきてるので、余裕もへったくれもないのでござんすよ」と言ってやりたかったが、ぴったりの英語が思いつかなかった。
そんなこんなで、学校のカリキュラムを終えたとき、学生たちは嬉々として各々のお国に帰って学芸員やアートディーラーになった。コネがある人は、サザビーズの本社の受付嬢になる人もいた。
私はといえば、現地の雑誌社でアルバイトをしながら、テレビ局や新聞社の支局を行商人のように訪ねあるき、アートの話題をネタに自分売り込みを続けた。
折しも、1980年代後半から、バブル景気に後押しされて、ゴッホのひまわりがオークションで日本人により、最高価格で落札されたり、美術市場は活況を呈した。まさにグッドタイミングだった。
美術品オークションに注目が集まるようになり、私は、なんとか、新聞、雑誌、テレビ番組でアートの話題を記事にしたりTV番組を作ることで、複数の媒体を掛け持ちし、綱渡り的に食べていけるようになった。
その後も、紆余曲折ありながら、約15年、ロンドンを拠点にフリーランスとして仕事し、生活することができた。それでも、泥棒に入られ全財産奪われ、ウンコまで置いていかれたり、ホームレスの犬5匹に追っかけられたり、ロシアのレニングラードではマフィアに追っかけられたり、七転八倒。でも、なんとか生きのびれた。
その時、いつも私を支えてくれたのは、ダ〜リン、ではなく歌だった。
そんなこんなで、2000年のミレニアムを迎えるにあたり、私は、グリニッジ天文台の子午線ゼロの辺りに住みたくなり、そこに小さな家をローンで買った。
その頃、私は収入も安定し、仕事もプライベートも、人生で最も充実していた。
そして、21世紀の始まりの年、2001年、私史上最大の仕事、ロンドンのデパートをTOKYOに変容するというプロジェクトを成功に導き、やっと英国社会に認められる仕事ができたと思った矢先、母が亡くなった。
目が不自由になっていた父が残された。父と兄との間には長年に及ぶ確執があり、結論的に、私が父の介護をすることになり、最初は、ロンドンと東京を往復していたが、私の体が悲鳴を上げて入院。
ロンドンの家をそのままにして、日本に帰国することになった。それから3年ほど、東京の実家で、父と暮らした。ほぼ毎日、高熱を出す治療を行いながら、認知症で、夜に徘徊するようになった父と暮らすことは、身体的には厳しいものがあったが、今から思えば、幼くして母親を亡くした父の、哀しみや甘えたかった気持ちを引き受ける母親の役割を果たすこともでき、かけがえのない時間だったように思える。
厳しいスパルタの父に反抗し、その影響から逃れようとして家出までしたが、亡くなった後も、喪失感や罪の意識に苛まれて、父の遺髪を懐に入れて、彼の故郷を巡ったりした。
ここでは、長くなるので割愛するが、父の人生や我が家のカルマが重すぎて、私は、両親の残した家屋を兄に譲って、ずべてをゼロからスタートするため東京を離れた。
●京都 家を建てた!大黒柱とともに生きる。
ロンドンの家は住みて不在のまま、数年も放置していたので、ローンも膨れ上がり借金が溜まっていた。
父の死後、やっと戻ってみると、家の購入の決め手になった桜の木が枯れていた。
父は、東京の桜が満開の時に逝ってしまったが、ロンドンの私の家の庭では、ちょうどその年の春から桜の花が咲かなくなったと、近所の人が教えてくれた。
「もはやこれまで」とロンドンの家をたたむことにした。
売却してローンで溜まった借金の返済に充てた。
手元に残ったお金で、2009年、京都に移り住み、手作りで小さな家を建てた。
身も心も喪失感で憔悴していたので、自分を再生させるための、家プロジェクトだった。
地元の建築家とアマゾンに植樹に行く大工の棟梁、一人では靴箱までしか作ったことのない大工さん。
みんな30代の若手たちとチームを作り、家プロジェクトをスタート。
吉野に大黒柱となるヒノキの丸太を探しに行った。
なんと、クリスマスの日に、ちょうど良い丸太を見つけ、それを我が家の大黒柱にした。
というわけで、私の家にはど真ん中に、ドーンと大黒柱がある。私の家は、京都の浄土寺という地区にあり、法然上人が瞑想をするために廬を結んだという善気山の麓の近くにある。
この土地を初めて見たとき、山からなんとも清々しい風が吹き抜けて行ったので、この土地に家を建てることに決めた。猫の額ほどの小さな土地だが、私にとっては浄土である。
朝起きると毎日、ベランダに立ち、善気山からの爽やかな風を受けながら、お天道様に感謝をし、大黒柱に感謝をして、私の1日が始まる。老後の資金も全て、この家建てプロジェクトで使い果たしてしまった。
だから、どこに行くにもママチャリをかっ飛ばして、文字通り自転車操業で暮らしている。
この家の大黒柱が吉野からやって来たご縁からか、このところ、しきりに吉野に呼ばれる。
吉野の金峯山寺を何度も訪れたり、吉野の山奥で滝下りをやったり、藍染の草木染を体験したり、おまけに、日本の山岳信仰に心惹かれている。
京都に移り住んでから、日本の伝統建築、工芸、芸能を取材してきたが、日本のものづくりや芸能の底辺には、アニミズム的自然信仰が息づいているように思う。
7世紀の役行者が開祖といわれる修験道により育まれた、山岳信仰や祈りの文化が、日本人の桜を愛でる心やものづくり、日本文化の基層をなしているように思う。
●現在地の私 毎日が『私わんだーらんど』
前述の通り、幼い頃は、ピーターパンのように空を飛び回る夢を見ていた。
しかし、ロンドンで仕事をするようになって、私は、人を飛ばすことに夢中になった。
無名だが才能のある作家を見つけては、スタジオを訪れ、打ち出の小槌をフリフリ応援し、挙句、「魔法の光の粉をふりかけまする」などと嘯いたりしていた。
でも、結果、作家たちが高く飛んだので、自分は、他の人を飛ばすチンカーベルだと思ってきた。
しかし、今年から、これからは「自分が飛ぶのだ」と心に決めた。
私のアセンション時代の目標は、自らが光の柱だという自覚を持って、神聖さを取り戻すこと。
もっともっと、山の自然の中に入っていきたいと思う。
緑の森の中で、自然に抱かれながら、自分の感性を磨き、草花、樹々、鳥や妖精などと共振共鳴できる声を磨いてその神秘を歌い上げたい。
そして、たくさんの樹々の精霊や妖精たちと友達になり、物語を紡いで生きたいと思っている。
それが、私のワンダーランド。昔、コーヤ君がくれた、あのアリスの黄金の午後の素晴らしい物語。そんな素敵な物語を私も紡いで生きたい。
そんな「私わんだーらんど」を生きる私の姿を描いていただければ嬉しいです。
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