もっぱら新刊の出版作業にかかり切りになり、気になりながらも約3カ月間、こちらで書き出せなかったことを少しずつ、と思っておりましたが、本日がまたひとつ齢を重ねた日、ということで、ちょろっとまとめて二題ほど片付けようと思いました。
それぞれが、4月1日と4月3日の当ブログの続き、になりますが、まずはこちらから。
無謀な挑戦と知りつつ
よく耳にします。
「芸術作品と、その作者の人間性そのものは、別モノとして語られるべきである」
と。
とてつもなく立派な作品を創造した芸術家(アーティスト)が、何らかの犯罪であるとか、不祥事を起こした時、あるいは起こしていたことが発覚した時などに、作品の不買運動や再評価を促すような論調がはびこる時があります。映画作品やテレビ番組なんて、存在を抹消されたかのように扱われたり。
そんな時に、「それはそれ、これはこれ」的なこととして、まさに〝正論〟として話題になるのが、〝作品と作者の人間性は別モノ〟という論。
あらかじめ断っておきたいのですが、この論について反論するつもりはありません。それが正解だとも思いますし。
ただ、そこに挑みたい、とだけ思っているのです。作品から受ける印象で、作者の人間性を理解できないものか、と……。
音楽の持つ特異性
10年ほど前のこと、やりとりのあった編集者さんと、「文体に人間性が出るや否や」という話題をしたことがありました。その時に、
「書き方の技術で別人格を装うことはできる。でも、人間性はやはり出るものだ」
で意見が一致したのです。
(神経が細やかだったその編集者は仕事を辞めましたが)
その少し前くらいからです。「作品から受ける印象で、作者の人間性を理解できないものか」と意識し、模索するようになったのは。
いやもちろん、文学だけでなく絵画、彫刻、建築、映画等、それぞれに難しいんですよ。そもそも〝好き嫌い〟なんじゃないか、という思いも否定できませんから。
で、一番やっかいなのが音楽です。
〝芸術〟一般として捉えるとき、音楽だけは他のジャンルとは作品の在り方が決定的に違いますよね。「視覚に頼らない」という点で。
直接的に〝脳〟にきますから、生理的、というか、もっとはっきり性的な部分に関係ありそうな気もしますし。最も判断が難しい対象、と言えるかもしれません。
今年に入って坂本龍一さんが亡くなり、パンタさんが亡くなって、今回のジャニーズ事務所に関する山下達郎さんの話を聞きました。で、この3人、どことなく「作品から受けるイメージ」で理解できることがあるのではないか、と考えてみましたが、上記の3人では、坂本作品には歌詞がないものが多く、山下さんも歌詞は本人ではありません、かね?。そうなると余計に厄介になりますが。
だけど、考えてみたいんですよ。なにをもって自分が〝好き〟と感じるか、〝嫌い〟なのか。その問いであるとか見極め方を、独自に線引きできないものかなあ、と。
あ、いや、改めてお断りしておきますが、それが正しいとか間違いとかではなくって、その好奇心を持ち続けたいのだ、という意志表明と申しますか、そうした思いだけです。無謀な挑戦であることは理解しております。
余談ながら、パンタさんが亡くなったのは、間違いなくショックでしたけど……。
そして野球に関する雑感(続く)
その昔、テレビの電源を入れて野球を見ようとすると、ほぼジャイアンツの試合ばかりでした。昭和40年代から50年代のことで、実際にジャイアンツは強かったわけですが、それはつまり、日本のプロ野球も、伝えるメディアもファンも、まだまだ成熟途上だったんだろうなあ、と懐かしく思うばかりです。
が、現在も大して替わってないのかな?と思うのは、BSの大リーグ中継。毎日ほぼ同じ球団の試合を放送してませんか?
あ、いけね、それは本題ではありません。
そう、今年初めて〝俄か虎党宣言〟をさせていただいた阪神タイガースのことでございます。残り試合が50試合くらいになって、やっとペナントレースも佳境に入ってきましたが、いよいよになるのはもう少し先、なのではないでしょうか。
そのあたりについて、ちょっと書きたいと思うのですが、すでに長くなりましたし、本日の試合も始まったようですので、また次回、ということで。申し訳ございません。