昔話を交えながらの長文、失礼いたします。
我ながらくだらないと思いつつ、『カムカムエヴリバティ』が終わったいい機会なので、ということで(その①と書きましたが②は予定しておりませんです)。
言うまでもなく個人的な見解ですので悪しからず。
80年代を席巻した手法
1980年代、日本のテレビ業界を席巻した某民放テレビ局が謳い文句としたのが、
《楽しくなければテレビじゃない》
でした。
それまでのテレビ番組は、敗戦の記憶が色濃く残っていた時代性もあったのか、重々しく、深刻な内容のものが多かった。子供向けの番組でも、今考えると、「そこまで描くのか……」というものが少なくないです。
そこへカウンターカルチャー的に
《楽しくなければテレビじゃない》
ですよ。
そのスローガン(?)を実践したのは、お笑いバラエティー系の番組。今となっては当時の漫才ブームを牽引した芸人さん達の情熱が、奇跡的な化学反応を起こしたように思えますが、実際、面白おかしく観れたもの。〝視聴率の三冠王〟(意味不明)なんて時代が続いたんじゃなかったでしたっけ?
その制作手法はもっぱら〝内輪ウケ〟すなわち〝楽屋オチ〟でした。
番組を作る関係者(出演者もスタッフも)が、関係者(出演者もスタッフも)をイジる。その手法を前面に、これでもか、と押し出しました。
両手を叩いて皆でウケ合ってみたり。アメリカのホームドラマでみられるようなサクラによる笑い声を入れてみたり……。
しかし、この手法は「わかる人」には面白いのですが、「わからない人」には面白くない。置いていかれるばかりで、そうなるとシラけてしまう。つまり度を越すと裏目に出る。
もちろん、視聴者が「わかる」ために努力してくれるうちはいいのですが、一時のブームが去ってしまえば熱も冷めるもの。その時になって「あれは一体何が面白かったのか」ということになりかねない。
要するに内輪ウケ=楽屋オチは、簡単にウケを取ることはできるのですが、劇薬的というか、〝両刃の剣〟なのです。
それがわかりやすく出るのがドラマかもしれません。
「あれには嵌まったよなあ。あれ?どんな話だったっけ」
みたいな。
昨今のNHKの傾向?
ところで、この某民放局が謳った〝楽しくなければテレビじゃない〟にNHKが対抗(?)するように打ち出したのが、
《楽しいだけがテレビじゃない》
というコピーだったかと思います。
これとて、大手広告代理店目線に立てば、〝広義の業界内の内輪ウケ〟と取れなくもないですが、当時はなかなかに挑戦的なコピーに感じたことは確かです。その頃の自分は、実は限られた番組しかNHKは観ておりませんでしたが、このコピー以降、意識に変化がありましたので。
しかし、現在のNHKには 「この気概はどこに行ったのかな?」と思える部分がなくはない。
例えば私は『チコちゃんに叱られる』が大好きで、レギュラー化される前から元フジテレビ系(あ、書いちゃった)のスタッフが関係しているかな?などと想像してましたが、だからこそ彼らがNHKに舞台を移して、どんな番組を作るのか注目していた、という側面もありました。
当初は面白く見ていたのですが、いつ頃からか変わりましたね。ゲストが番宣の役者さんだったり、そうでないゲストはレギュラー化したり、スタッフいじりが常態化してみたり。また挿入されるVTRはNHKの人気番組のパロディなのはいいとして、それを頻発する……。
相変らず録画予約はしていますが、今ではほとんどスルーしちゃってます。
ドラマに関しても、その〝メイキングドラマ〟を番宣用に制作するようになったのには驚かされました。気持ちはわかりますよ。力を入れて作った番組の裏話的なことを、「それはそれとして作品として残したい」というのは。
しかしこれとて、やっぱり内輪ウケと言えなくもない。それが私みたいな〝NHKヘビーユーザー〟ではない皆さんからすれば、「その番組を作る資金はどこから出てるんだったっけ?」ということになりませんか?
改めてドラマの成否について
2013年に社会現象を起こした朝ドラ『あまちゃん』ですが、脚本は小ネタ満載で「伏線を張って回収する」ことに注力させたらお上手な宮藤官九郎さんでした。
ツイッターがドラマの番宣として機能するとはっきり示した2016年の大河ドラマ『真田丸』に続いて、今年の大河の脚本を担当している三谷幸喜さんも、くすぐりを入れさせたら抜群ですし、〝伏線→回収〟の脚本作りは最近のドラマのトレンドなのでしょう。
それはそれで結構だと思いますし、〝考察〟そのものを楽しむために視聴するのだってアリだと思います。
しかし、「それとこれとは別の話」として、前にも書きましたが、〝手法=技巧〟が優れているか否かだけが、ドラマの成否を左右するのでしょうか?
脚本が重要である。ということに異論はありません。
しかし、当たり前過ぎて口はばったくなりますけれど、ドラマはそれだけでは成立しません。
役者がいて、演出があって。
更に撮影、編集、音楽、照明、美術、大道具、小道具、衣装……etc。
そしてそれらを統括する立場の人間の意向が絡んでくる。
ごく最近の朝ドラで『エール』の脚本家が変更になりました。ネットの記事によれば、制作サイドと脚本家に意見の食い違いがあったとか?
また、こちらはちょっと古いですが、大河ドラマ『勝海舟』でも同様のことがあったのは有名な話です。
要するに、内容には制作統括者の意向、姿勢、思想、或いはどこかへの忖度、が大いに反映されるってことでしょう。
そして今回の『カムカムエヴリバディ』の場合。
3人のヒロインということで安子編、るい編、ひなた編にパートを分けてみると、安子編だけが普通(展開は早かったですけど)、というか、あとの2人のパートはどうにも雰囲気が違うように感じられました。脚本家に変更はなかったにせよ、あの違和感はなんだったんでしょうか。
制作統括の狙いは?
〝親子三代、100年にわたる物語〟
主要なキーワード(それぞれの対象に敬意はあまり感じられなかった気がしますけど)は〝英会話〟〝ジャズ〟〝ベースボール〟(ここまではアメリカ文化ですかね)に、〝時代劇〟〝伝統的和菓子〟で良かったですか?
時代時代を象徴的に描こうという狙いはわかりますが、そのほとんどを歴代の朝ドラを挿入することで説明しました。
本放送をリアルタイムで観ていた皆さんには好評だったようですし、私も当初は「過去作品へのオマージュなのかな?」と思える部分もありましたが、どうもそうでもなくて、ただ「昭和何年であるか」を示すクレジット替わりになってるように思えました(勿論小ネタ込みで)。
また、21世紀に入って、〝時代劇の衰退〟を救ったのは、これはさすがにセリフには出てきませんでしたが、大河ドラマに限らず私はNHKがその役割を担った、と思ってますし、メジャーリーグ中継を積極的に行ったのもNHKです。これらのほとんどが、るい編以降に画面に出てきました。
そもそもタイトルからして、ラジオの英会話番組のそれ。
これらをもって「NHKの壮大な楽屋オチ」とまでは言いませんが、そんな空気が感じられるのも否めません。それを脚本家がひとりで考えたのであれば、凄いというよりはガッカリさせられるところです。マイセレクトスリー(女性脚本家部門)の藤本有紀さんがそれをするはずはなく……。
(次回作『雪国』ももちろん観ますよ)
ともあれ、制作サイドが狙ったであろう〝史上初〟とか〝画期的〟というワードが用いられる作品にはある程度なったのでしょう。
〝3人のヒロイン〟に始まって、ヒロインが100歳で存命であったり、ヒロインが作った〝ラジオ番組用の物語だった〟というオチにいたるまで(だからファンタジー処理だったわけでしょうけど)。
それがいいのか悪いのかを云々するつもりはありませんし、人それぞれの楽しみ方があるわけですから、それを否定するつもりもまったくありません。
ですから、その流れで、では自分は?と言えば……。
(ネタバレ注意)
物語を進めるにあたっての最重要テーマのひとつは、母(安子)と娘(るい)の誤解によるすれ違いをどんなふうに解消するのか、だったと思います(これが違ってたら話になりませんが)。
それが約50年ぶりに母娘が再会し、さあいよいよ、となってから、
「夜遅くまで語り合いました。安子とるいの間にあった誤解もわだかまりも、クリスマスの夜に溶けていきました」
このナレーションだけで済ますって……。
そこでどういうことを語り合うのか、役者さんはどんな演技で心理状態の移り変わりを見せるのか、そのうえでどうやって誤解とわだかまりが解けるのか、を期待していたのですが、そういったことはあまり観せてくれないドラマでした。
しょせん個人の好みの問題です。
くどいようですけど、人が代われば鑑賞法も変わるものです。
これからも自分なりに楽しむことにします。
そうそう、最後にもうひとつ。
私の知り合いにも映画、ドラマ好きな人が少なくありません。その中に何故か「朝ドラだけは観ない」という友達も複数いて、理由が判然としてなかったのですが、今回、何となくわかった気がしました。
これは大きな収穫でしたか。
あ、あと川栄李奈さんがヒットだったこともかな。
他にもいろいろあるのですが、この話は、
「これでおしまい」
ということで。
気分を替えて、以下の画像は田中泯さんと橋本愛さんの、NHK『スイッチインタビュー』の印象的なワンシーン。
やっぱり泯さん、カッコいいですわ。
週末は皐月賞ですし、佐々木朗希投手のことも触れたいし、『ちむどんどん』も始まったし、個人的なことも忙しいはで、ダラダラしている暇はございません。
どうか懲りずにお付き合いください。
長文誠に失礼しました。
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