『カムエヴ』怒濤の回収中? | 還暦フリーランサーのおしゃべり処

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元競馬専門紙記者/旧ブログ~「オヤジの競馬倶楽部」~
(ヘイトスピーチはご勘弁)

 久しぶりにNHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』の話題を。

 最終回まであと3週間くらいですか?ネットの記事を見てますと、〝神回〟がどうしたこうしたと益々賑やかになってるようで……。

 

  ファンタジーの扱い方

 昨日の放送回でしたか、亡くなった登場人物(2人目の主人公の父親で、3人目の主人公の祖父)が、玉音放送のあった日から50年目の8月15日に再登場しました。

 この手法は、妄想や幻想のシーンが多いことと相まって、つまりやっぱり〝ファンタジー〟なのだ、と理解できました。

 

 私はファンタジーは嫌いじゃない、どころか、ミュージカルも含めて大好きなジャンルのひとつです(「すべてのドラマはファンタジーじゃないの?」という極論は脇に置かせていただくとして)。

 ファンタジーであれば、いろいろと辻褄が合わないことでも強引に進めることが許されます。だからこそですが、ファンタジーには伏線の回収は無用です。やり過ぎるとヤボになりますから。

 〝それをやりつつ話を進めた〟

という意味において、確かに『カムエヴ』は画期的だったのかもしれません。

 でも一方で、ずっとモヤモヤしていた違和感の正体もわかりました。

 

 もともと藤本有紀さんの作品には、『ちかえもん』に代表されるように、ファンタジーコメディー的な要素が少なくないです。これまた代表作のひとつである『ちりとてちん』も、カメラ目線で主人公がしゃべったりしてましたし(成長後の主人公がナレーションを務めるから、というのもありますが)。

 

 なのに大河ドラマ『平清盛』をやってのけました。

 私はこの作品も好きなのですが、藤本作品の中では珍しく一般の評価が低いようです。これは鎌倉幕府成立以前を扱った、というのがミソになってると思ってます。

 というのは、大河の舞台設定としては、現時点で〝最も〟に近い古い時代のため、史実に曖昧なところも多く、つまりファンタジー要素を入れやすかったんじゃないでしょうか。

 しかし、そこは〝大河〟ですから、史実をまったく無視はできず、でもそこが最も大河には重要だ、と考える視聴者層が少なからずいらっしゃる。それが評価が低い理由なんじゃないか、と思います。

 

 ですから、ファンタジーも大好きな私としましては、『カムエヴ』は近年流行りの〝二刀流〟じゃないですが、どっちつかずになってしまった印象が拭えない。やはり私には楽しめる作品ではなかった、という結論になりました。

 

  伏線は回収するものなのか?

 どこかで読んだのです。

 「伏線を張るのはいいが、それを回収してしまっては意味がなくなるのではないか」

 という意見。

 「伏線を張る」というのは推理小説とか、ミステリーの手法なのかなと思いますが、なるほど言葉遊びのようになりますけれど、張った伏線を回収してしまっては、本線の方が心配になりかねません。伏線を張るのは悪くないんです。でも、それをいかに本線につなげるかということばかりに躍起になっては、肝心の〝物語〟の部分はどうなるのか?ってことです。

 私も以前に、藤本有紀さんについて、「ミステリー系の作家さんを除外すると、伏線を張って回収させたら当代随一~」みたいな書き方をしたことがありますので、今後は気をつけようと思います。

 

 ともあれ、『平清盛』では伏線がどう張られたのか覚えていませんが、〝歴史〟というベースがあって、「遊びをせんとや生まれけむ」をテーマに、〝源平盛衰〟の本線がありました。

 しかし『カムエヴ』の場合、ベースにNHKの内輪ウケの匂いがプンプンしますし、そもそも本線はなんだっけ?という疑問も拭えない。

 これは脚本家さんの責任だけではないように感じられますね。

 

  ドラマの成否

 そもそもの話として。

 ドラマの成否って、「あのセリフがここにつながってくる」とか、「あのシーンはこれを意味していた」とか、「あの時チラッと登場した人物が、のちのち主人公にこう絡んでくる」という組み立ての上手い下手だけ、で決まるんでしょうか?

 無論、下手よりは上手い方がいいですけど、それがすべてになってしまうと、やはり自分の好みとは違う……。

 

 諸々について、しっかり〝ドラマ〟で魅せてくれてこそ、ドラマなんじゃないのかなと思う次第。当たり前ですが、そこには〝演出〟という問題も絡んできますけどね。

 私は、そういう楽しみ方で演劇、映画、ドラマを観ております。

 

(今日は連投予定でおります)