夜明けまで降っていた雨も止んだので、京阪・石坂線の沿線を訪ねてきました。
 
沿線の比叡山東麓の坂本から皇子山・錦織の間は古墳が集中しており、
とくにこの辺りはドーム状の石室をもつ渡来系の古墳が多く(約1,000基)あることで知られています。
 
「近畿の駅百選」に選ばれた坂本駅からスタート。
イメージ 1
 
いつものとおり、駅前の日吉茶園で茶葉を観たあと
「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」を購入。
イメージ 2
 
切符には、600形車両を背景に鉄むすの運転士・石山ともかちゃんのイラスト。
 
ラッチ内に入るとホームに『鉄道むすめ』のラッピング車両が停車していました。 イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日吉茶園・・・日本最古の茶園とも~。
最澄が延暦24年(805)、唐より茶種を持ち帰り、
日吉大社に植えた事が始まりで、
弘仁6年(815)嵯峨天皇が日吉大神を行幸された折、
天皇に煎茶を献じ、以後山王祭に茶を献じているとのこと。
 
茶はかって薬として飲まれ、貴重のモノだったようで、
一般に普及するのは鎌倉時代に
臨済宗開祖・栄西禅師が留学先の宋から帰国して、
茶樹の種を播き茶の製法を伝授してから後のことなので
400年近く先んじて伝えたことになります。
 
イメージ 4
 
まずは、穴太駅で下車。
イメージ 5後世、
穴太積みの石工集団で知られている地です。 
 
坂本の里坊ほどではないですが、
ここでも盛安寺など集落内に穴太積みの石垣を散見することが出来ます。
 
 
イメージ 6
 
駅から東北に進むと直ぐに高穴穂神社
 
 
 
その境内、本殿の奥、穴太の杜の西端に高穴穂宮趾の石碑があります。
イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本書紀 巻第七 大足忍代別天皇 景行天皇 に、
五十八年春二月辛丑朔辛亥、幸近江國、居志賀三、是謂高穴穗宮。
六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穗宮、時年一百六
とあり、晩年、近江国の高穴穗宮で過ごし、106歳で崩御されたことが記されています。
 
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暑くなりました
・・・気分転換に琵琶湖畔へ~
 
初夏の風物詩
・・・華やかなハスをカメラにおさめる人
マリン(レイク?)スポーツを楽しむ人
木陰のベンチで横になって休んでいる人 
 
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暑~い、あつ過ぎます。
すっかり体調を崩し、信州に行く予定を止め家籠りの日々です。
 
予定が変わって所在ないので、
以前から気になっていた「石碑」、図書館に行ったついでに調べてみました。
 
イメージ 1
十字路、交差点の真ん中、石壇の上に『榎』と彫られた大きな石が鉢巻のように注連縄を巻かれて立っています。
このため大型車は通行困難で、暫く見ていると、右左折するクルマの通り方は、マチマチ。よく事故が起こらないものだと感心です。
 
『榎』碑の石壇に銘板がはめ込まれているのですが、クルマが頻繁に通る交差点の真ん中なので、危なくて近寄れません。
 
で、近くの公民館で尋ねると、
和邇の地は、古来から北陸道の宿場として湖西の交通の要だった。江戸時代に幕府の指示により一里塚が設けるように指示があった際、ここに一里塚を造り榎を植えた。 そうしたことから、和爾宿は『榎の宿』とも呼ばれた。 この榎は『天皇神社』の御神木として尊崇されていたが朽ちてしまったので、昭和43年に地元の有志により顕彰碑が建立された。」とのこと。
 
 
イメージ 2
石碑から右側の道を西に向かって比良山方面に進むと天皇神社があります。
更に進むと
「途中」を経て京都の「大原」や
「朽木」を経て若狭の「熊川」に
行くことが出来ます。
 
 
志賀町史(第一巻 p.104)に、以下のように記載されています。
西近江路は大津札の辻から琵琶湖西岸を北上し、堅田・今津・海津を経て七里半越で敦賀へ至る道。この道は古く『古事記』にも見られ、応神天皇の歌の中に「佐々那美道」として登場します。平安時代には宿駅がおかれ、和邇は穴太に次ぐ第二番目の駅。 また、若狭街道は、比良山地西側の峡谷沿いを走り、小浜から途中(大津市)を経由して京都に出る、西近江路の間道。古来、畿内と北陸とを結ぶ最短距離の陸路として利用されてきました。 この二街道をつなぐ道が、途中から還来神社(もどろきじんじゃ)前を通り、竜華から和爾宿へと通じています。道はさらに湖上舟運の開けていた和邇泊へ。 その交差点にはかつて榎の大樹が枝葉を繁らせていたといいます。天皇神社の神木として崇められ、親しまれていたこの榎に因んで、ここは「榎の宿」と呼ばれました。残念ながら昭和四三年、榎は枯れてしまい、代わって「榎」と刻まれた自然石の石碑が建てられています。
 
確かに、古事記 中6 應神天皇を繙くと、
一時、天皇越幸近淡海國之時、御立宇遲野上、望葛野歌曰、
知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀流 夜邇波母美由 久爾能富母美由
故、到坐木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢。爾天皇問其孃子曰「汝者誰子。」答白「丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣。」天皇卽詔其孃子「吾明日還幸之時、入坐汝家。」故、矢河枝比賣、委曲語其父、於是父答曰「是者天皇坐那理。此二字以音。恐之、我子仕奉。」云而、嚴餝其家候待者、明日入坐。故獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是天皇、任令取其大御酒盞而、御歌曰、
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登 和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母
如此御合、生御子、宇遲能和紀自宇下五字以音郎子也。
 
つまり、応神天皇が近江の国に行ったとき、木幡村(現・宇治市?)で容姿端麗な娘に出逢って、「明日、都に帰るとき、お前の家に立寄るぞ。」と言って・・・。そして生まれた子が大雀命(仁徳天皇)の異母兄・宇遲能和紀郎子とのこと。
 
なお、応神天皇には皇子12柱、皇女15柱があり、こののち皇位継承をめぐって血生臭い争いがあった・・・。
 
古代豪族のワニ氏は、奈良・櫟本町の東北にある和爾辺りを本貫地とし、近江国西部や山城国南部にも同族が居住していたといわれています。
イメージ 3
 
この石碑から西近江路を南へ進むと、
街道から少し西に入ったところに
 

小野篁神社・小野神社・小野道風神社・小野妹子神社(唐臼山古墳)など

ワニ氏と同族の小野氏関係の神社があります。
イメージ 4
 
イメージ 5・・・もちろん古墳も~
(石神古墳の石棺蓋石)。
 
イメージ 6
和邇の交差点から天皇神社の脇を通って更に西に進むと
若狭街道(鯖街道)との合流点の近くに梛の巨木がある還来神社に出ます
 
イメージ 7
和邇から還来神社へ行く途中、
振り返ると緩やかな坂道の向こうに
琵琶湖が見えました。
 
 
 
酷暑につき、今回は、ここまで
・・・暑い、36℃~。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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イメージ 1梅雨。
曇っているが降っていない。
 
迷うことなく近江神宮へ~。
 
 
 
 
水祭
昨秋、東北地方を周回したときに最初に訪ねた新潟県胎内市
最後の越後瞽女として知られている小林ハル氏の情報を得るために立寄った黒川の資料館「黒川郷土文化伝承館」。
イメージ 2その折りに、
管理人さん(館長さんだったかも?)から、ご教示いただいた「臭水」。
 
 
 
イメージ 3近くのシンクルトン記念館の周辺には、明治~昭和初期までの油井(油壺)が点在しており、
記念館前の広場では、今も天然ガスがブクブク泡となって湧出している。
 
イメージ 4
 
記念館の管理人さんがチャッカマンで点火して見せてくれた。
 
 
 
 
 
書紀よると天智7年(668年)秋7月
「越の国、燃える土(アスファルト)、燃ゆる水(原油)とを献ず」とある。
 
  日本書紀巻第廿七  天命開別天皇天智天皇  七年
   秋七月、・・・又越國獻燃土與燃水。
 
イメージ 5これが縁で、
毎年7月1日、
黒川で古式に則って採油された「燃える水(原油)」が、
6日後の7日(7日が土日の年は5日)、
近江大津宮旧跡に鎮座する近江神宮『燃水祭』において、
黒川からの使者による献上の儀が行われているとのこと。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
で、きょうがその日。
 
見学 ~ (^J^)
 
 
 
 
イメージ 711時から始まって、
祝詞の奏上や燃水の献上などが行われた後、巫女さんの奉納舞が終わったのが11時半頃。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 8祭式は、まだ続くようだったが退場。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 9クルマに戻って間もなく小雨が降ってきた。
 
 
 
 
きょうの歩数 5,080歩
 
 
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今朝のTVニュースで、
「明治から昭和にかけて活躍した文豪、谷崎潤一郎が太平洋戦争中に作った俳句が見つかりました。
専門家は、軍部の圧力で小説『細雪』を出版できなくなった不安な心境を表した作品だとして注目しています。・・・」
谷崎潤一郎だって!!!
 
雨は止んでいる。
「晴れ間が出るかも~」っていう天気予報を信じて、千野(ちの)を少し歩いてきた。
 
千野。
比叡山から派生した尾根の一つにある集落。
集落内を貫く2本の東西路、
西、比叡山横川への参詣路である雄琴・千野道(※)。
東、琵琶湖側に下れば、雄琴温泉。
 
イメージ 3南側の道には、参詣路の道標。
 
遠望は、比叡山・横川。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道標付近から東に琵琶湖を観る。対岸には近江富士(二上山)
イメージ 1
 
イメージ 4天台宗・安養院妙見堂
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5堂の背後、琵琶湖を背にして石造りの廟・月子姫の墓
 
比叡山中興の祖・慈恵大師良源、元三大師・角大師・豆大師・厄除け大師とも)は、12歳(一説には15歳とも)のとき比叡山に上り、仏門に入った。
比叡山は女人禁制、太子の母・月子姫は、未だひとり立ちもしないわが子を偲び、千野(乳野)に庵を結び尼になった。
その母を思い、横川で修行する大師が足繁く通ったことに興味を覚えた谷崎潤一郎は、小説『乳野物語 ~元三大師の母~』(1951年発表)に纏めたとのこと。
 
以下その抜粋、
 
・・・大師の住んでいた比叡山の横川と、月子姫のいた麓の千野の庵との距離は、ざっと一里ぐらいであろう。  今日安養院へ行って、下から横川の峰を仰ぐと、ただ頂上にこんもりした木々の梢が望めるだけであるけれども、月子姫の時代には、或いは樹木の間から堂塔の甍の一部が隠見したでもあろうし、夜になれば灯火などがちらちらしたかも知れない。 少なくとも山の上にいる大師の方からは、つい眼の下に住む草庵の灯がほの見えたであろう。  大師は遥かにその灯影を瞰おろすだけでは満足出来なかったばかりか、却って母恋しきの一念を募らせたと見えて、おりおり忍んで一里の山道を下って来ては母にまみえた。  一山の宗徒たちや千野の里人どもは、天台座主の大僧正が尊貴の身を以てこっそり母に逢いに来るのを珍しいことに思い、あれは山の座主がお袋の乳を吸いに来るのだと云って陰口をきいたが、そんなことから千野の地名に「乳野」の字を当てたり、「ちちの」と呼んだりするようになった。  現今坂本の郵便局のある四辻に、文化年間の石の道標が立っているが、それにもはっきり「乳野」と刻んである。
 
 出家した大師が初めて母の許を訪れたのは、二十幾歳かの時であったが、母は喜びのあまり豆を炒って我が子をもてなした。  大師は母が豆を運んで来るのを見ると、それを次の間から撒いてくれるように頼み、飛んでくる豆を箸で以て一つ一つ巧みに宙で受け留めて食べた。  後世手先の器用な人のことを「箸豆」と云うのは、それから起こった言葉である。  又叡山では大根漬のことを沢庵とは云わず、定心房と称しているが、定心房は即ち大師の房のことで、大根の糠漬を発明したのは大師であると云われている。・・・
 
※ 千野のひとつ北の尾根先にある拙宅からは、夜になると比叡山横川にある定光院の灯が微かに見えます。 
     逆に山上・ 横川にある鐘楼の付近からも山麓の集落が良く観えるのですが・・・以前撮った自前の写真が見つからない・・・。  見つかれば、追加でUPします~ (^J^)
 
比叡山・東塔は中央の平坦地あたりに展開している。
その左下、△に尖った山は、古墳&山城のある壺笠山。
イメージ 2
 
集落の西端まで行って、北側の道を戻る。
イメージ 6
 
主が居なくなって、
どれだけの月日が流れたのだろう~?
 
 
 
 
イメージ 7天台真盛宗・深光寺
総本山西教寺まで2km足らず。
 
すぐ隣りは、若宮神社と公民館。
 
 
 
イメージ 8鳥居前の農家。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 11
家並みの中、細い道を進むと
集落の外にむかう竹林に・・・。
 
 
 
 
 
 
イメージ 9
集落の東端まで来たところで小雨が降ってきた。
 
今回の散策はここまで~。
 
 
きょうの歩数 4,995
 
里から仰ぎ観る比叡山 
イメージ 10
 
※ 3枚のパノラマ風景は、是非、拡大してご覧ください。
 
※ 比叡山の古道は、武覚超師(現・延暦寺執行)の『比叡山三塔諸堂沿革史』が詳しい。平成5年当時、天台宗僧侶を養成する叡山学院におられた師にお伺いしたところ、前年に実地調査を行ったうえで「回峰行者道」を紹介されたとのことであった。
 当時、琵琶湖側の回峰行者道など全25本の古道踏査を試みていたわたしは、師のご教示を得て、2年の月日をかけて3ルートを除く古道を踏査することができた。
 その時に、倒木で道が廃れていたり、新しく造られた林道により道が無くなったりなどで踏査できなかった3ルートの一つが、上述の千野⇒仰木・野田平⇒香芳谷にある日蓮が修学した定光院に至るルートである。
 なお、千野からは、上記のルートとは別に、野田平をとおり山上で横川行者道に合流する妙見菩薩道があり、合流地点に「元三大師御母公 妙見菩薩」と刻まれた石標がある。
 
 
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雪野山を下山後、帆立貝形の墳丘を持つ雨宮古墳に向かう。
 
イメージ 1幅員の広くなった道端にクルマを停め、
北側から外堤に上がる。
 
シダ類が繁茂している周濠跡から前方部北端。
 
後円部に小さな祠。 
 
イメージ 2後円部の大きさに比べて
前方部は余りにも小さく、
それらの比高差も大きい。
 
円墳に小さな造出しを付けた、
っていう感じ・・・。
後円部Φ=67m・H=9m、
前方部L=22m・W=35m・H=1.9
の規模を持つ5C中頃の古墳。
 
 
 
 
 
この後、オウゴ古墳に向かう。
最寄りの道が農道?なので、駐車スペースの懸念があったことから、前回訪ねた岩屋古墳(岩屋不動)の境内に駐車するが・・・、現地の通過車両は殆んど無く、道幅も広いことから路肩に十分停めることができる。
 
イメージ 3ほんのり色付き始めた
桃のような?梅の実がなる
木々の横を進み、
 
 
 
 
 
イメージ 4舗装された農道と別れ、
 
竹林を5分ほど歩く。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5竹林の東端、
横穴式石室が南に開口した方墳。
 
L≒20m・H=2(北側)~5(南側)m。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
花崗岩からなる両袖式石室のL≒10.5m、
 
 
 
 
 
 
イメージ 8玄室のL≒5.70m・W=2.14m・H≒3.27m・左袖=0.65m・右袖=040m、奥壁鏡石のH≒2.0m。
羨道のL≒4.80m・W(玄門)=1.5m・H=0.90
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 76C後半の築造。
 
人の手が入って整備に努めているようではあるが、玄室・天井・羨道の床・壁のいたる所に、竹の地下茎が伸びてきており、早晩、石組みは崩れるのではないかと危惧される。
 
この日、出逢ったのは
大岩からの下山途中で
1組のカップルだけ、
静かな探訪が楽しめた。
 
あまり荒らされていない古墳・石室に
大満足したところで、
龍王町探訪を〆る。
 
この日、71km走行 +11,943歩。
 
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イメージ 1大岩山頂から野寺城跡への分岐に向かって下山する途中で石垣らしき石組(※写真下部)を見つけてルートから外れて斜面を下る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 22ヶ所の石垣遺構と削平地。
 
さらに下ると小さな谷筋(横堀?)。
 
 
 
 
 
イメージ 3その東南に土塁状の高まり・・・、
この土塁上を通り南へ、
南端に石組遺構?
 
 
 
 
 
その下は、大岩山と野寺城山の鞍部であるシナド越の細い道。
 
イメージ 4西側にある案内表示に従って
野寺城跡の登山路に取付くと、
直ぐに右手に城跡からの派生尾根。
 
削平地、登城路を固める郭?
 
 
 
イメージ 5直登する整備された道を登ると、
楕円状に削平された主郭。
 
西側に「井戸跡」と標柱のある凹地。
 
 
 
 
イメージ 6北西に遠望できるのは、
琵琶湖岸の水茎岡山城
(※300mm望遠)。
 
 
 
 
 
南側の尾根筋を下ると帯郭?、石垣?、土橋?・・・両側に畝状竪堀。
再度、上りに・・・、上り切ったところは円形の削平地。 郭跡? 
イメージ 7 
その先、一度下って、また上ると見晴台状のピークに出た。台?
 
小さいけれど連郭式の縄張り遺構。
 
 
 
シナド越の分岐まで戻り、雛壇状の平坦部(竜王山遺跡)を通って、
前回も訪ねた天神山古墳群Ⅰ支群5号墳へ・・・。
 
墳丘に上がり形状を確認。やはり、前方後円墳に視える。
5号墳のあるのは、前方部の左先端部。
だとすると、祠のある後円部にも石室があるのか・・・?
 
イメージ 8前回は入れなかった4号墳の石室を確認。
 
奥壁の鏡石は2枚が並ぶ。
 
 
 
 
イメージ 9その右側壁側に副室?の凹み。アルファベット「L」字のような平面プランを持つ。雪野山北麓の八幡社古墳群・46号墳(前方部石室)と同じ珍しいタイプ・・・羨道・副室・主室と列に並ぶのではない。
 
この両古墳とも玄室の大きな鏡石のほか、玄門に巨大な石材の「まぐさ石」が印象的・・・琵琶湖周辺の古墳に多い。
 
 
 
 
 
 
 
 
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年に1~2回、

若狭本郷にある

若州一滴文庫

に通っています。


ご当地出身の

水上勉

の資料館

なのですが


わたしの目当ては

斉藤真一

越後瞽女の絵


学生時代に

展覧会で

出逢ってから

40数年・・・


海岸から

少し入った山里

静かな佇まいの

中にあります。









先日の探訪会で雪野山に登ったのだけれど、途中に表示のあった大岩・・・、
以前に行ったことがあるはずなのだが全く思い出せない。
それと、探訪会で初めて知った野寺城、佐々木厳秀の居城とも・・・。
この2ヶ所をメインに、あと鏡山山麓の古墳を訪ねてみた。
 
イメージ 8左から、
雪野山、大岩、野寺城跡
の各ピーク
 
 
 
 
まずは、びわ湖の湖岸道路。 
この日もバイクや自転車でツーリングする人、ランニングする人、歩く人、多くの人々を見かけた。
 
守山市から近江八幡市にかけての平野部、以前は水田地帯だったが、
今は、その1/3以上が麦畑に替わった様子
・・・茶色くなった畑では、収穫作業が行われていた。
 
イメージ 1日野川に架かる雪野山大橋
その東岸の欄干に、額田王の像とその歌
「あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや 君が袖振る」。
 
西岸には、大海人皇子像と「紫草むらさきの にほへる妹いもを 憎くあらば  人妻ゆえに われ恋ひめやも」の歌。
 
ところで、万葉集に載っているこの額田王の歌
(通釈「紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって――野の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを」)
 
 
額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた「贈る歌(恋歌)」って昔に習ったような~。 
ところが、今は、
「これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖の振り方を恋愛の意思表示と見立てて、才女の額田王がからかいかけた。・・・どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して~」ということで、宴席などでおおやけに披露した「雑歌」であったと解されているとのこと。
  
イメージ 2前回と同様、妹背の里にクルマを駐めさせていただく。
 
まずは、前回、充分に確認できなかった龍王寺境内の雪野寺跡で石積基壇の確認。
 
 
 
イメージ 310数m四方の基壇らしきものは分かるのだが、夏草で不明瞭。
 
当地における古代の豪族「安」氏関係の寺院であったか、と言われている。
 
 
 
イメージ 4前回とは違って、
最南端のルートから大岩を目指す。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5「神饌田」横の道を進み
防獣柵の中へ・・・。
 
 
 
 
 
 
イメージ 6すぐに、石室は開口していない古墳。
 
野寺城との分岐を過ぎ、
湖東流紋岩の大石が散在する斜面を登る。
 
 
 
 
イメージ 7枝の向こう、
鏡山山系の後ろに二上山(近江富士)
 
山麓は、水田と麦畑の格子模様。
 
 
 
 
イメージ 9大岩山頂
 
 
 
 
 
 
イメージ 10
山頂から東に
名神高速道路と木村古墳群、
円墳の久保田山古墳(手前)と
方墳の天乞山古墳(奥)。
 
  
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