梅雨~、曇り空なのだけれど、未だ降らない・・・。
 
大津市埋蔵文化財調査センター(長い名称なので、通称「大津埋文」)で、遺跡紹介展「滋賀里遺跡」を見学したあと、20年ぶり?に桐畑古墳を訪ねてきました。
 
イメージ 1大津埋文・・・「滋賀里」っていうところにあるのですが、この辺り一帯、どこを掘っても遺跡だらけ。
 
 
 
 
 
イメージ 2縄文時代の指標土器「滋賀里式土器」の出土地として、とくに弥生~古墳時代の「渡来系」の遺跡が集中していることで知られています。
「渡来系」っていうのは、朝鮮半島などから来た人たち・・・。 
 
 
イメージ 3埋文を出て、京都の北白川まで延びる「志賀(山中)越道」(※1)を西に、
 
 
 
 
 
イメージ 4比叡山に向かって5分ほど歩くと千体地蔵堂の手前に『不許葷酒入山門(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)。』(※2)って刻まれた石柱が建っています。
そこを北(右)に曲って数分で、志賀山寺岩屋不動尊の境内に至ります。
 
 
イメージ 5さすがに穴太里に近いだけあって、農道の石垣も算木積み・野面積みの堅固な造りです。
 
この辺りからの琵琶湖の展望は中々のものだったのですが、昨今の防獣柵により、折角の風景も台無しです。
 
 
その琵琶湖を見おろすかのように東に向いて開口した古墳があります。
 
ところで、琵琶湖の西側、比叡山の東麓一帯には、総数が1,000基ともいわれる古墳があります。
これらの古墳群は、石室の形や出土している(ミニチュアの竈など)特殊な副葬品などから渡来人のお墓といわれています。
 
イメージ 6そのひとつが、この「桐畑古墳(熊ヶ谷1号墳)」です。6基以上が確認されている熊ヶ谷古墳群中の1基です。
 
桐畑古墳は、Φ≒20m、玄門に巨大な石材の「まぐさ石」を持つ両袖式の古墳時代後期の古墳です。
 
イメージ 7玄室のL=5m、W=3.1m、H=3.6m以上、
羨道がL=6m、W=1.4m、H=1.6mとのことです。
 
 
 
 
イメージ 8
 
玄室の天井石はありませんが、
中央に立って上を見上げると、
四壁(奥壁・左右の側壁・前壁)が
天井部に向かってすぼまっている様子がわかります。
 
このように四壁を天井に向かってすぼませる構造を「持送り」構造といいます。
 
この持送り構造を持ち、天井を1~2石で構成する玄室が、比叡山東麓に広がる古墳群の石室の特徴のひとつです。
 
 
 
 
イメージ 9また、
玄室の奥にはお不動さんが祀られており、
現在でも信仰の対象となっています。
 
玄室内、石仏の壇として使われている2個の大石・・・
もしかして天井石? 
それとも側壁上部の石??
 
 
 
 
 
 
 
 
以前は、ここから上方の山麓にも石室の開口した古墳があったのですが、今は防獣柵で入り難くなっています。・・・ブッシュで、外からは確認できず。
小雨が降り始めたので、きょうはここまで~。
 
(※1)京都と琵琶湖を結ぶ古道のひとつ。そのまま進むと、渡来系の百穴古墳群、阿弥陀如来石像の滋賀大仏、天智天皇の勅願寺である崇福寺跡などを経て志賀峠に至ります。
(※2)「生臭い野菜を食べたり酒を飲んだものは、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずる」っていうことのようです。
 
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イメージ 10
 
梅雨の間の好天気、気分転換を兼ねて、湖畔を歩いてきました。
 
イメージ 2波もなく、穏やかな湖面を
時折り、涼風が渡ってきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3後ろの山には、雄琴城跡などがあります。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5山村美紗のTVサスペンスドラマをはじめ、
ロケ地として使われることの多い某ホテルと港です。
 
 
 
 
イメージ 6いつ来ても、ちらほら釣り人が居るだけなのですが・・・、
きょうは珍しく10名ほどの団体さんがおられました。
・・・写生後、作品の品評会をしているようです、水彩画。
 
 
イメージ 1対岸の近江富士(二上山)
草津・ビル群も見えます。
 
 
 
 
 
 
イメージ 4帰りに、『おごと温泉観光公園』の「足湯」で脚を伸ばしてきました。
20~30名は『混浴』できる広さがあるのですが、
・・・貸切状態です~(^J^)
 
「足湯」の隣りに並ぶ3基の泉源タンク。
 
イメージ 7さすがにこの季節、
訪れる人も少ないようで
15時頃にもかかわらず売店のレシート「お客様番号」は71でした。
 
 
 
 
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久し振りに、ブログ(その1)&(その2)をUP

・・・書き始めて、10か月の(その1)、まもなくアクセス数は1万になりそう~

・・・どちらも地味な趣味(暇人の史跡徘徊記録)のブログです (^J^)




 
イメージ 2山麓に下りた後、
防獣柵の中に集在する龍王寺北古墳群Ⅰ支群の1~6号墳を見学。
 
4号墳の石室に入る。
 
 
山の神の下を通り龍王寺に至る。
その途中にも古墳の石材らしい岩が散在している。
 
西側には白鳳時代に創建された法起寺式の伽藍配置をもっていた雪野寺の遺構。
 
 
 
 
イメージ 1門前に花崗岩製の石棺仏
 
 
 
 
 
 
 
これまで数回、北東山麓(東近江市側)にある八幡社古墳群から登って、雪野山を縦走したことがあるのだけれど、今回のコースは初めて・・・。 
「山中には、未確認の古墳が集在しているかも~」という説明にいたく感動。近いうちに再訪し、この日、登城しなかった野寺城跡、山上の大岩をはじめ、山行中に認めた石組など山麓の古墳を確認しようと思う。
 
 
帰路、鏡山の東山麓に残る2つの古墳に立寄った。
 
イメージ 3三井アウトレットパーク滋賀竜王のすぐ東に岩屋古墳
羨道に不動明王が祀られており、玄室の確認はできない。
 
 
 
 
三ツ山古墳群の老々塚古墳
10数基からなる古墳群であったが、現在はこの1基だけ残っている。
封土は殆んど無くなり、L5.4m・W1.8m・H2.1mの玄室が露出、ミニ「石舞台」の風情。
イメージ 4
イメージ 5
 
            
 
 
 
 
 
              きょうは、ここまで・・・総歩数 4,259
 
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歩を進めると雛壇状に平坦地が続き、野寺城跡へ行く道との分岐に至る。
途中にあった平坦地は、雪野寺の僧坊跡か野寺城の郭跡?
 
イメージ 1所どころ集在する湖東流紋岩を過ぎると大岩との分岐点。ここから北の尾根伝いに雪野山山頂を目指す。
尾根上にも湖東流紋岩の岩石が所どころ集在、その間をぬうように進み山頂の雪野山古墳(古墳時代前期)に到達。
 
 
イメージ 2前回、訪ねた折には何の表示もなくて墳形が全くわからなかったのだが、今春、国指定遺跡となったことに伴い古墳の概要を記した案内表示版が設置され、随分と分かりやすくなっている。
 
 
 
イメージ 3後円部から墳頂に入ったこと、北東に伸びている尾根に前方部があること、真北から45°ほどズレていること・・・。
 
 
 
 
 
【概要】4C前半。ヤマト王権とのつながり。全長70m、後円部直径40m。主体部の南北10.6m・東西7m、二段掘りの墓壙・湖東流紋岩の割石による竪穴式石室。
銅鏡5面(内向花文鏡・ダ龍鏡・三角縁波文帯盤龍鏡・三角縁唐草文帯四神四獣鏡・三角縁シン出銘四神四獣鏡)、銅鏃96本、鉄鏃43本、鍬形石、琴柱形石製品、紡錘車形石製品、管玉、靫などが出土。
 
※ 発掘調査された竪穴式石室は三角点の東側。
  これとは別に、西側にもう一つ埋葬施設があるそうな・・・未盗掘?
  ただし、石室ではなさそうとのこと、何が出てくる??
  調査の予定は・・・???  待遠しい~ (^J^)
 
イメージ 4黄砂のため遠景は少し霞んでいるものの、墳頂部からは西側の展望が頗る良好で、三上山鏡山など。東側は、尾根を北に進むと木々の間から、木村古墳群(久保田山古墳・天乞山古墳)や山城のある布施山などの確認ができる。
 
 
なお、前方後円墳上に中世に城郭(雪野山城、後藤氏の詰城?)が築かれており、後円部の北端から西端部にかけて土塁遺構の盛り土が残っており、北東尾根の左右に造られた竪堀により前方部の一部が土橋状に狭くなっている。 この前方部に残る石段は、八幡社祠の参道跡とのこと。
 
イメージ 5大きな岩の傍などを通りながら北東尾根を下る。途中、ブッシュの中、70基以上からなる新巻古墳群で開口している数基の古墳を見る。
羨道と玄室の間に石組みと落込み・・・待望の東近江固有?の階段状石室?? 冬期に再訪して確認したい~。(続く・・・)
 
 
 
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イメージ 1 歩く人、ランニングする人、サイクリングする人。 
雲ひとつない五月晴れの下、琵琶湖を廻る多くの姿を見ながら、琵琶湖大橋、湖周道路などを経由して、竜王町・近江八幡市・八日市市の境にある雪野山西麓の「妹背の里」に着く。
 
イメージ 2気候の良い日曜日の朝。 
ここは、バンガロー・キャンプ場があるので、駐車場には他府県ナンバーの車が目立つ。
それぞれの施設には龍をあしらった屋根飾り。
 
 
集合まで時間があるので資料館で、雪野山一体からの出土品や写真の展示などを見学。
 
地元の竜王町教育委員会・「妹背の里」主催のイベント「国指定史跡王墓『雪野山古墳を訪ねる』」に参加。 高齢者ばかりが総勢30名ほど。 
登山前に揃ってラジオ体操。 第一だけなのに・・・日頃使っていない筋肉が痛み、汗まで・・・()
 
イメージ 3天神社の鳥居前を通って天神山古墳群(6C後半~7C初頭)を目指す。
 
 
 
 
 
 
イメージ 4山道に取付いて直ぐに天神山古墳群Ⅰ支群4号墳が登山路の左に開口。
羨道に厚みのある天井石。
奥壁に向かって左脇に小石室を設けるという珍しい副室構造とのことなのだが、石室内に入れないので確認できず。
 
 
イメージ 5
さらに登ると5号墳
玄室の奥壁は大きな1枚岩の鏡石。
 
 
 
 
 
 
イメージ 6両袖式の石室。
両側壁は持送り。
羨道の天井石はこちらも厚い。
 
 
 
 
 
階段状の石室を期待していたのだが・・・2基とも違った。
 
墳丘上に石燈籠が見えたので上がってみると小さな祠。
山の神? 
祠のあるところは円状の平坦地、そこから西に下りる参道は撥状に平坦、まるで前方後円墳??   (続く・・・)
 
 
 
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ここのところ頻繁に奈良県に行ってる。

奈良市の北部から京都府の境目あたりと

西部の平群町、生駒山と矢田丘陵に挟まれた地域。


昨日も平群に行くつもりだったけれど

午後、降水確率40%で雷雨かも~との天気予報。

落葉の多い急斜面の登降なので(もちろん道などない立木&藪)

きょうに延期・・・。


・・・しかし、朝から頭痛。眼を開けられないくらい痛い!。

で、中止・・・。

薬が効いてきたのか、

やっと、先ほどPCを観ることが出来るようになった。


中途半端な時間、

もう少し時間があれば

先日、行きそびれた「野寺城跡」に行けたのに~・・・。

地下鉄・今出川駅から同志社大学、御所、下御霊神社、革堂(こうどう、行願寺)を訪ねて地下鉄・市役所前駅まで歩いた。
 
今出川駅からは、地上に出ることなく直接、同志社大学の建物に入ることが出来る。 
経営の厳しい地下鉄、建設時に合築で出入口を構内に造ることができていたら、少しは負担が軽くなっていたかも・・・。
 
イメージ 1構内、緑の並木と赤茶色のレンガ建物・・・
ハリス理化学館で「森浩一の考古学」企画展を観る。
考古少年だった頃からの氏の取組みの概説展。
意外だったのは、「考古学」ではなく「英文科」の出身だったこと。
・・・そういえば、佐原真さんも大阪外大だったような~
 
高校教員として赴任したのが大阪府立泉大津高校、池上曽根遺跡のすぐ近く・・・。
展示物は、井辺八幡山古墳の人物埴輪、黒姫山古墳の短甲(※「摂津」阪大博物館の探訪録に記述)、和泉黄金塚古墳(※「泉州」探訪録に記述)・園部垣内古墳の三角縁神獣鏡など・・・。
 
イメージ 2いったん今出川通に出て、(上)冷泉家住宅の前を経て今出川御門から御苑へ・・・。 
桂宮邸跡、猿ヶ辻、明治天皇誕生地の中山邸跡、和宮誕生地の橋本家跡、学習院跡、大宮御所・仙洞御所の前を通って富小路口から丸太町通に出た。
 
 
イメージ 4猿ヶ辻。 
御所の築地塀が折れ曲った部分の屋根裏に一匹の木彫り猿。 
烏帽子をかぶり御幣を担いだこの木猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者。 
夜になると付近をうろつき悪戯をしたことから金網を張られ閉じ込められたとか・・・。
 
イメージ 3また、ここは、幕末の1863年、公家の攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知が暗殺された場所であったとか・・・(「猿ヶ辻の変」)。
 
 
 
 
 
容疑者であった薩摩藩士・田中新兵衛が自害したことから、ことの真相は不明のままなのだが、これにより薩摩藩は禁裏・乾御門警備の任から外され、禁裏九門内の往来が禁じられるなど京都政局から排除されることとなった。
 
イメージ 5御所の東側、築地塀沿いに南へ歩くと学習院跡近くに「桜松」。
クロマツの樹上10数mの所にヤマザクラが生育していた。
平成8年にマツが枯れて倒れたものの、マツの空洞を通り地上まで根を下ろしていたサクラは、今も花を咲かせ続けているか・・・。
 
 
寺町通に入ってすぐのところにあるのが、京都御所の産土神として崇敬されている下御霊神社
古来、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらすと考えられていたのだけれど、平安時代になって、こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が生まれたとのこと。
 
ここには、そうした崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子(伊予親王の母)、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、火雷天神と吉備聖霊を加えた八座が祀られている。
 
本殿は、仮皇居の内侍所を、表門は旧・建礼門を移築したものとか・・・。
 
イメージ 6この日は、その祭礼である「還幸祭」が行われており、偶々、昼の休憩時だったため神社の境内や周辺は、氏子、神輿の担ぎ手、参拝者で溢れていた。
 
寺町通の神社前に神輿が並び、二条通付近までの数百mに露店。
 
  
南にある西国第19番札所革堂行願寺(天台宗)も人・ひと・・・。
開祖の行円上人は、元は猟師であったが、射止めた牝鹿の腹の中にいた子鹿が生きているのを見て改心し、仏門に入ったとか・・・。
また、革堂と呼ばれる所以は、行円が比叡山の横川で修行していたときに、自分が射止めた牝鹿の皮に経文を書き、それを寒暑に関係なく身につけていたことから皮聖と呼ばれていたことに由来しているとのこと・・・。
 
ここは、京都七福神巡りの一つ「寿老人」が祀られているほか、鎌倉時代のものといわれる大きな五輪塔・・・水輪が刳り抜かれ、その穴の中に不動明王を祀っている。
 
また、「幽霊絵馬」の伝説も・・・。  さて、これは、
 
「昔々、京都の革堂と呼ばれるお寺の近くに、質屋の八左衛門という男がいました。 この八左衛門はお金持ちでしたが、強欲な為に皆から嫌われていたので、子供が生まれても子守りのなりてがありませんでした。 そこでやっと、遠く近江の農家から、フミという十三歳の女の子を雇ったのです。
 
フミの母親は、自分の手鏡をフミに渡して言いました。
「フミや。これを母だと思って、さびしくてもこらえておくれよ。風邪には、気をつけるんだよ」
「うん、フミがんばる。お母ちゃんも、元気でね」
八左衛門の家に着いたフミは、その日から子どもの世話をしました。 子どもがむずかると、おんぶをして家の周りをあやして歩き、おしめがぬれるとすぐに取り替えてやりました。
さて、すぐ近くのお寺の革堂は西国三十三ヶ所のお寺の一つなので、巡礼の人でいつもお祭りの様に賑わっていました。  白い着物姿の巡礼たちは、革堂の観音さまの前で鈴をならしてご詠歌をとなえます。
♪はなーをーみて (花を見て)
♪いーまーはー (今は)
♪のぞみーもー (望みも)
♪こおーどーうのー (革堂の)
♪にわーのーちぐさーもー (庭の千草も)
♪さかりーなーるーらん (盛りなるらむ)
ご詠歌は仏さまをたたえる歌で、それを聞いたフミは、ご詠歌がいっぺんに好きになりました。 そこでフミは、毎日子どもをおぶって革堂へかよいました。 そのうちにフミは背中の子をあやしながら、ご詠歌を口ずさむ様になりました。 ところがこれを知った八左衛門が、かんかんになって怒りました。
「うちの寺は、宗派が違うんやで!  それに、そんないん気くさい歌は大嫌いや!  革堂なんかに行くから、そんな歌を覚えるんや。 今度革堂へ行ったり、ご詠歌を歌ったりしたら、承知せえへんで!」
「・・・はい」
フミは言いつけを守って、革堂へ行くのをがまんしました。 つらい事があると母親の手鏡を見ましたが、でも、鏡は何も言ってくれません。
「ああ、ご詠歌を聞きたい。ご詠歌は、近江のお母ちゃんの声を聞いてる様だもの」
やがてフミはがまん出来ずに、革堂へ行ってしまったのです。 お参りの人のご詠歌に小声であわせていると、フミは悲しい事を忘れる事が出来ました。 でも、八左衛門には内緒でした。
ある寒い冬の事、フミが子守りをしていたら、背中の子どもが、たどたどしい口ぶりで、ご詠歌を歌い出したのです。 いつもフミと一緒にご詠歌を聞いていたので、覚えてしまったのです。 それを聞きつけた八左衛門は真っ赤になって飛んで来ると、フミを裸にして庭に引きずり出しました。
「ごめんなさい。ごめんなさい!」
フミが泣いて謝っても、八左衛門は許しません。 八左衛門は裸のフミに、頭から氷の様に冷たい水を浴びせました。 そしてフミを納屋に放り込むと外から鍵をかけて、そのまま寝てしまったのです。
次の日の朝、ふと目を覚ました八左衛門は、フミの事を思い出しました。そしてあわてて納屋を開けると、裸のフミはもう、凍え死んでいたのです。
「どないしょう。世間に知れたら、大変や」
そこで夫婦は納屋に穴を掘ると、フミの死体を埋めて隠しました。 そしてフミの両親には、《フミは好きな男が出来て、家出をした》と、うその知らせをしたのです。
知らせを受けたフミの両親が、近江から飛んできました。 でも八左衛門は、逆に文句を言い出す始末です。
「こっちは子守りがいなくなって、困っている。どうしてくれる!」
「申し訳ありません。申し訳ありません。必ずフミを探し出して、子守りを続けさせますから・・・」
フミの両親は八左衛門に謝ると、京の町を探し回りました。 そして道行く人から、
「そう言えば、よく革堂というお寺で、子守りをしてはりましたなあ~」
と、聞いたので、両親は革堂の観音さまの前で、ご詠歌を唱えて拝みました。
「観音さま、どうかフミの居所を教えてください」
両親はそのままお堂に泊まり込み、おこもりをしました。 すると真夜中、両親は、誰かがいる様な気がして目を覚ましました。 暗闇に目をこらすと、お堂のすみにフミのかげが立っているのです。
 (フミ!) 呼びかけ様としましたが、二人とも声になりません。
近寄ろうにも、体が痺れて動けません。
 するとフミが、口を開きました。
「お父ちゃん、お母ちゃん。 わたしはもう、この世にはいないの。
 わたしは主人に殺されて、納屋の冷たい土の中に埋められたの。
 ここは、寒い。暗い。 どうか掘り出して、供養をしてください。」
そう言うとフミの幽霊は、すーっと消えました。 そしてフミの幽霊がいた場所には、母親が持たせたあの手鏡が置かれていました。
フミの両親は奉行所に訴えて、フミの死体を探し出すと、ねんごろに弔いました。
そしてこの悲しい出来事を忘れない様にと、フミの幽霊姿をそのままの大きさで杉板に写しとり、形見の鏡をはめ込んだ大きな絵馬にして革堂に納めました。 もちろん、幽霊に罪をあばかれた八左衛門は、奉行所に引き出されて罰を受けました。 フミの弔いが終わった両親は巡礼になって、ご詠歌を歌いながら西国の寺を巡りました。

このあわれなフミの幽霊絵馬は、鏡とともに、今も革堂にまつられており、毎年お盆の八月十五日、十六日に公開されています。」(「福娘童話集」から引用、一部改編)
 
 
革堂のすぐ南には、囲碁「本因坊」発祥の地(寂光寺の塔頭)。歩道上、石の腰掛けに挟まれて置かれた石の碁盤がある。
 
ここまで来れば、あと少し南に下がると京都市役所。
その前面・御池通の下に地下鉄・市役所前駅
17年前、この狭い空間で開業式典が行われた。
東西線は、すべての駅にホームドアを設け、エレベーター、エスカレーターなどのバリヤフリー施設を設置、各駅毎にステーションカラーと呼ばれるシンボルカラーを採用、行先別発車メロディの導入など当時としては画期的な施設であった。
 
きょうはここまで・・・、2時間ほどの散策でした。
 
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いい天気です (^J^)


一昨日、平群の谷(奈良県西部)を歩いてきたよ。


2万歩ほど・・・・・でもね~、限界だった。

2年ほど前に遭った追突事故の後遺症?なのか


脊椎腫瘍がまた悪化し始めたのか

去年から、良し悪しの体調変化の波が大きくなって


全く立ち上がれない日と

2万歩も歩ける(山城にものぼれる)日


でも、2万歩も歩くと

脚に痛みは出ないのだけれど


下半身に痺れが出て治まらない

・・・・・


とは言っても、きょうは、いい天気なので

きょうへ行ってきます。


同大(考古学者の森浩一・企画展)を観た後

御所を少しだけ散策するつもり・・・


では~ (^J^)