地下鉄・今出川駅から同志社大学、御所、下御霊神社、革堂(こうどう、行願寺)を訪ねて地下鉄・市役所前駅まで歩いた。
今出川駅からは、地上に出ることなく直接、同志社大学の建物に入ることが出来る。
経営の厳しい地下鉄、建設時に合築で出入口を構内に造ることができていたら、少しは負担が軽くなっていたかも・・・。
構内、緑の並木と赤茶色のレンガ建物・・・
ハリス理化学館で「森浩一の考古学」企画展を観る。
考古少年だった頃からの氏の取組みの概説展。
意外だったのは、「考古学」ではなく「英文科」の出身だったこと。
・・・そういえば、佐原真さんも大阪外大だったような~
高校教員として赴任したのが大阪府立泉大津高校、池上曽根遺跡のすぐ近く・・・。
展示物は、井辺八幡山古墳の人物埴輪、黒姫山古墳の短甲(※「摂津」阪大博物館の探訪録に記述)、和泉黄金塚古墳(※「泉州」探訪録に記述)・園部垣内古墳の三角縁神獣鏡など・・・。
いったん今出川通に出て、(上)冷泉家住宅の前を経て今出川御門から御苑へ・・・。
桂宮邸跡、猿ヶ辻、明治天皇誕生地の中山邸跡、和宮誕生地の橋本家跡、学習院跡、大宮御所・仙洞御所の前を通って富小路口から丸太町通に出た。
猿ヶ辻。
御所の築地塀が折れ曲った部分の屋根裏に一匹の木彫り猿。
烏帽子をかぶり御幣を担いだこの木猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者。
夜になると付近をうろつき悪戯をしたことから金網を張られ閉じ込められたとか・・・。
また、ここは、幕末の1863年、公家の攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知が暗殺された場所であったとか・・・(「猿ヶ辻の変」)。
容疑者であった薩摩藩士・田中新兵衛が自害したことから、ことの真相は不明のままなのだが、これにより薩摩藩は禁裏・乾御門警備の任から外され、禁裏九門内の往来が禁じられるなど京都政局から排除されることとなった。
御所の東側、築地塀沿いに南へ歩くと学習院跡近くに「桜松」。
クロマツの樹上10数mの所にヤマザクラが生育していた。
平成8年にマツが枯れて倒れたものの、マツの空洞を通り地上まで根を下ろしていたサクラは、今も花を咲かせ続けているか・・・。
寺町通に入ってすぐのところにあるのが、京都御所の産土神として崇敬されている下御霊神社。
古来、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらすと考えられていたのだけれど、平安時代になって、こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が生まれたとのこと。
ここには、そうした崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子(伊予親王の母)、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、火雷天神と吉備聖霊を加えた八座が祀られている。
本殿は、仮皇居の内侍所を、表門は旧・建礼門を移築したものとか・・・。
この日は、その祭礼である「還幸祭」が行われており、偶々、昼の休憩時だったため神社の境内や周辺は、氏子、神輿の担ぎ手、参拝者で溢れていた。
寺町通の神社前に神輿が並び、二条通付近までの数百mに露店。
南にある西国第19番札所革堂行願寺(天台宗)も人・ひと・・・。
開祖の行円上人は、元は猟師であったが、射止めた牝鹿の腹の中にいた子鹿が生きているのを見て改心し、仏門に入ったとか・・・。
また、革堂と呼ばれる所以は、行円が比叡山の横川で修行していたときに、自分が射止めた牝鹿の皮に経文を書き、それを寒暑に関係なく身につけていたことから皮聖と呼ばれていたことに由来しているとのこと・・・。
ここは、京都七福神巡りの一つ「寿老人」が祀られているほか、鎌倉時代のものといわれる大きな五輪塔・・・水輪が刳り抜かれ、その穴の中に不動明王を祀っている。
また、「幽霊絵馬」の伝説も・・・。 さて、これは、
「昔々、京都の革堂と呼ばれるお寺の近くに、質屋の八左衛門という男がいました。 この八左衛門はお金持ちでしたが、強欲な為に皆から嫌われていたので、子供が生まれても子守りのなりてがありませんでした。 そこでやっと、遠く近江の農家から、フミという十三歳の女の子を雇ったのです。
フミの母親は、自分の手鏡をフミに渡して言いました。
「フミや。これを母だと思って、さびしくてもこらえておくれよ。風邪には、気をつけるんだよ」
「うん、フミがんばる。お母ちゃんも、元気でね」
八左衛門の家に着いたフミは、その日から子どもの世話をしました。 子どもがむずかると、おんぶをして家の周りをあやして歩き、おしめがぬれるとすぐに取り替えてやりました。
さて、すぐ近くのお寺の革堂は西国三十三ヶ所のお寺の一つなので、巡礼の人でいつもお祭りの様に賑わっていました。 白い着物姿の巡礼たちは、革堂の観音さまの前で鈴をならしてご詠歌をとなえます。
♪はなーをーみて (花を見て)
♪いーまーはー (今は)
♪のぞみーもー (望みも)
♪こおーどーうのー (革堂の)
♪にわーのーちぐさーもー (庭の千草も)
♪さかりーなーるーらん (盛りなるらむ)
ご詠歌は仏さまをたたえる歌で、それを聞いたフミは、ご詠歌がいっぺんに好きになりました。 そこでフミは、毎日子どもをおぶって革堂へかよいました。 そのうちにフミは背中の子をあやしながら、ご詠歌を口ずさむ様になりました。 ところがこれを知った八左衛門が、かんかんになって怒りました。
「うちの寺は、宗派が違うんやで! それに、そんないん気くさい歌は大嫌いや! 革堂なんかに行くから、そんな歌を覚えるんや。 今度革堂へ行ったり、ご詠歌を歌ったりしたら、承知せえへんで!」
「・・・はい」
フミは言いつけを守って、革堂へ行くのをがまんしました。 つらい事があると母親の手鏡を見ましたが、でも、鏡は何も言ってくれません。
「ああ、ご詠歌を聞きたい。ご詠歌は、近江のお母ちゃんの声を聞いてる様だもの」
やがてフミはがまん出来ずに、革堂へ行ってしまったのです。 お参りの人のご詠歌に小声であわせていると、フミは悲しい事を忘れる事が出来ました。 でも、八左衛門には内緒でした。
ある寒い冬の事、フミが子守りをしていたら、背中の子どもが、たどたどしい口ぶりで、ご詠歌を歌い出したのです。 いつもフミと一緒にご詠歌を聞いていたので、覚えてしまったのです。 それを聞きつけた八左衛門は真っ赤になって飛んで来ると、フミを裸にして庭に引きずり出しました。
「ごめんなさい。ごめんなさい!」
フミが泣いて謝っても、八左衛門は許しません。 八左衛門は裸のフミに、頭から氷の様に冷たい水を浴びせました。 そしてフミを納屋に放り込むと外から鍵をかけて、そのまま寝てしまったのです。
次の日の朝、ふと目を覚ました八左衛門は、フミの事を思い出しました。そしてあわてて納屋を開けると、裸のフミはもう、凍え死んでいたのです。
「どないしょう。世間に知れたら、大変や」
そこで夫婦は納屋に穴を掘ると、フミの死体を埋めて隠しました。 そしてフミの両親には、《フミは好きな男が出来て、家出をした》と、うその知らせをしたのです。
知らせを受けたフミの両親が、近江から飛んできました。 でも八左衛門は、逆に文句を言い出す始末です。
「こっちは子守りがいなくなって、困っている。どうしてくれる!」
「申し訳ありません。申し訳ありません。必ずフミを探し出して、子守りを続けさせますから・・・」
フミの両親は八左衛門に謝ると、京の町を探し回りました。 そして道行く人から、
「そう言えば、よく革堂というお寺で、子守りをしてはりましたなあ~」
と、聞いたので、両親は革堂の観音さまの前で、ご詠歌を唱えて拝みました。
「観音さま、どうかフミの居所を教えてください」
両親はそのままお堂に泊まり込み、おこもりをしました。 すると真夜中、両親は、誰かがいる様な気がして目を覚ましました。 暗闇に目をこらすと、お堂のすみにフミのかげが立っているのです。
(フミ!) 呼びかけ様としましたが、二人とも声になりません。
近寄ろうにも、体が痺れて動けません。 するとフミが、口を開きました。
「お父ちゃん、お母ちゃん。 わたしはもう、この世にはいないの。
わたしは主人に殺されて、納屋の冷たい土の中に埋められたの。
ここは、寒い。暗い。 どうか掘り出して、供養をしてください。」
そう言うとフミの幽霊は、すーっと消えました。 そしてフミの幽霊がいた場所には、母親が持たせたあの手鏡が置かれていました。
フミの両親は奉行所に訴えて、フミの死体を探し出すと、ねんごろに弔いました。
そしてこの悲しい出来事を忘れない様にと、フミの幽霊姿をそのままの大きさで杉板に写しとり、形見の鏡をはめ込んだ大きな絵馬にして革堂に納めました。 もちろん、幽霊に罪をあばかれた八左衛門は、奉行所に引き出されて罰を受けました。 フミの弔いが終わった両親は巡礼になって、ご詠歌を歌いながら西国の寺を巡りました。
このあわれなフミの幽霊絵馬は、鏡とともに、今も革堂にまつられており、毎年お盆の八月十五日、十六日に公開されています。」(「福娘童話集」から引用、一部改編)
革堂のすぐ南には、囲碁「本因坊」発祥の地(寂光寺の塔頭)。歩道上、石の腰掛けに挟まれて置かれた石の碁盤がある。
ここまで来れば、あと少し南に下がると京都市役所。
その前面・御池通の下に地下鉄・市役所前駅。
17年前、この狭い空間で開業式典が行われた。
東西線は、すべての駅にホームドアを設け、エレベーター、エスカレーターなどのバリヤフリー施設を設置、各駅毎にステーションカラーと呼ばれるシンボルカラーを採用、行先別発車メロディの導入など当時としては画期的な施設であった。
きょうはここまで・・・、2時間ほどの散策でした。
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