https://www.youtube.com/watch?v=WAgq0CJbBRk

 

 

 

 

 

ヒウザン会とパンの会 

高村光太郎 



 私が永年の欧洲留学を終えて帰朝した

のは、たしか一九一〇年であった。


 当時、わが洋画界は白馬会の全盛時代

であって、白馬会に非ざるものは人に非

ずの概があった。

 

しかし、旧套墨守のそうしたアカデミッ

クな風潮に対抗して、当時徐々に新気運

は動きつつあった。

 

その頃、有島生馬、南薫造の諸氏も欧洲

から帰朝したばかりで烈々たる革新の意

気に燃えていた。 


 私が神田の小川町に琅と言うギャラリ

ーを開いたのもその頃のことで、家賃は

三十円位、

 

緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や

工芸品を陳列したのであるが、

 

一種の権威を持って、陳列品は総て私の

見識によって充分に吟味したもののみで

あった。 


 店番は私の弟に任し切りであったが、

店で一番よく売れたのは、当時の文壇、

画壇諸名家の短冊で、

 

一枚一円で飛ぶような売れ行きであった。

 

これは総て私たちの飲み代となった。 


 私はこの琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞で気に入った画家の個

展を屡開催した。

 

(勿論手数料も会場費も取らず、売り上

げの総ては作家に進呈した。)

 

中でも評判のよかったのは岸田劉生、柳

敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展

であった。 


 ヒウザン会は、丁度その頃、新進気鋭

の士の集合であり、当時洋画会の灰一色

のアカデミズムにあきたらぬ連中の息抜

き場であった。 


 琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)洞を本拠として、多士済々、大体

三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力

のあったのは岸田劉生及その友人門下生

の一団であって、

 

私も大体に於て岸田のグルウプであった。

 

その他、川上凉花、真田久吉、万鉄五郎

を中心とする一派、斎藤与里を中心とす

る一派等に分れていた。 


 われわれヒウザン会同人は、当時、殆

んど毎日のように本郷白山の真田久吉の

下宿に集合して、

 

気焔を挙げていたものであるが、期熟し

て、その秋、第一回展を京橋角にあった

読売新聞の楼上に開催した。

 

それが又ひどい会場で、天井板のように

ガタピシする床には少からず閉口した。 


 私は油絵三点、彫刻を一点出品したが、

岸田劉生は一室を占領し、万鉄五郎また

多数を出陳して気勢をあげた。

 

真田久吉の印象派風の作品など当時にあ

っては尖端をゆくものであった。

 

この第一回展で特に記憶に残っているの

は、先頃逝去した吉村冬彦氏(寺田寅彦

博士)が夏目漱石氏と連れ立って来場さ

れ私の油絵や斎藤与里の作品を売約した

ことである。

 

当時洋画の展覧会で絵が売れるなどと言

うことは全く奇蹟的のことで、一同嬉し

さのあまり歓呼の声をあげ、

 

私は幾度びか胴上げされた。 


 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲

間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は

新たに生活社を起した。

 

この系統が彼の草土社となったのである。 


 その頃、特筆すべきは「現代の美術」

と言う美術雑誌を主宰していた北村清太

郎氏で、われわれの仲間ではペエル タ

ンギイで通っていた。

 

あらゆる意味から、この人ぐらい熱心に

当時の美術界に尽力した人はないであろ

う。 


 概括してヒウザン会の傾向をのべると、

フォウビズム、印象派、後期印象派の三

つに分れ、

 

われわれの崇拝の的はゴオガンとゴッホ

であった。

 

先輩の中で、われわれの兎も角承認した

のは黒田清輝氏ただ一人である。 


 当時、山脇信徳が文展に出品した「上

野駅の朝」と題する絵は、当時の新傾向

作品の代表的のもので、

 

私は新聞雑誌上でこれを極力賞讃した。

 当時、文壇では若冠の谷崎潤一郎が

「刺青」を書き、

 

武者小路実篤、志賀直哉等によって「白

樺」が創刊され、

 

芸苑のあらゆる方面に鬱勃たる新興精神

が瀰っていた。 


「パンの会」はそうしたヌウボオ エス

プリの現われであって、石井柏亭等同人

の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北

原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、

 

それから私など集ってはよく飲んだもの

である。

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=bVYy_lJFu9A

 

 

 

 

美術学校時代 

高村光太郎 

 

 




 僕は江戸時代からの伝統で総領は親父

の職業を継ぐというのは昔から極ってい

たので、

 

子供の時から何を職業とするかというこ

とについて迷ったことはなかった。

 

美術学校にも自然に入ってしまった。

 

二重橋前の楠公の銅像の出来上ったのは

明治二十六年頃で僕が十一歳の時であり、

美術学校に入ったのは明治三十年の九月

だったから齢でいえば十五歳であった。

  


 その頃の世の中は学校の規則なども非

常に楽なもので、願書の上でだけ何歳と

書いておけば入学が出来たので、

 

早い方が良いということから歳の多い者

の中に子供みたいな僕が飛込んでしまっ

た。

 

その頃の美術学校の制服というのはちょ

うど王朝時代の着物のような、上着は紺

色の闕腋で、頭には折烏帽子を被り、

 

下には水浅葱色の段袋を穿くという、こ

れはすべて岡倉覚三先生の趣味から来た

ものであったが、

 

どうも初めそれを着るのが厭で気羞かし

くて往来を歩けないような気がしたので

あった。

 

その頃はいつも絣の着物に小倉の袴を着

けて居ったので、この初めの制服は何と

なく厭でならなかった。

  


 それに代って洋服の制服が出来たのは

僕が三年生の時で、何でも正木直彦先生

が校長になって以来今の制服になったよ

うに記憶する。

  


 当時の美術学校は始めの一年が予科で

本科が四年、五年で卒業ということにな

っていた。

 

始めの一年の予科は皆おなじ学習をやり、

その一年間やった学習の中で自分の気に

いった科を選んで本科に入る。

 

それから後四年間やって卒業するのであ

る。

 

僕は洋画の方はやらないで日本画をやら

せられた。

 

それから彫刻をやった。予科のうちは方

々の教室に入って日本画もやり彫刻もや

るという風であった。

 

  


 その当時の日本画科の先生には橋本雅

邦、川端玉章、川崎千虎、荒木寛畝(今

の十畝さんのお父さん)それから小堀鞆

音等がいた。

 

彫刻の方では僕の親父高村光雲、外に石

川光明、竹内久一両先生、この三人くら

いであった。

 

木彫の方には助教授の林美雲先生などが

居られた。

 

僕は日本画の方で臨画ばかりやらされて

いた。

 

つまり以前からの学校の御手本であり、

これは岡倉先生の趣味に合ったものばか

りで南画系統のものは無く北画ばかりで

あった。

 

それを先ず一年間勉強すると今度は彫刻

科にいって木彫を主としてやるようにな

った。

 

  


 学校では親父と石川先生などが相談し

て、やはり昔からの木彫の順序立ったや

り方を教える。

 

地紋、肉合い、浮彫、丸彫等と二年間く

らいはそれを教えられる。

 

小刀の使い方なども覚える。僕もその通

りをやっていたが、早くから自分のやっ

ていたことなので、

 

学校といっても唯自分の家の延長のよう

なもので別段かわったところでも何でも

なかった。

 

  


 この彫刻の同級にいた人で今特に記憶

しているのは水谷鉄也君といって片瀬の

乃木大将の銅像を作った人、

 

後藤良君も木彫で仲間であったが、その

他の人はよく判らなくなってしまった。

 

僕の一年前には武石弘三郎君という人が

居り、そのもっと前には渡辺長男君とい

う人が居た。

 

こういう人達と三年位までは特に変った

こともなく、先ず当然のことを無事にや

って居ったのである。

 

またその時分の学科といえば黒川真頼が

日本歴史、詩人の本田種竹という人が通

鑑の講義をして居った。

 

森鴎外先生が美学の方をやり、久米桂一

郎先生が解剖学を受持たれた。

 

その学科というものはひどく簡単でほん

の申訳みたようなものだったので、僕は

馬鹿馬鹿しくて自分で勉強した。

 

試験の時百二十点貰ったことがある。

 

大村西崖先生の時だったが、日常自分で

読んでいるものが試験に出てくるのだか

らそんなことになるのだろう。

 

随分のんきな時代であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=ZLPEnYjIOsk

 

 

 

 

 

自作肖像漫談 

高村光太郎 

 

 

 今度は漫談になるであろう。

 

この前肖像彫刻の事を書いたが、私自身

肖像彫刻を作るのが好きなので、肖像と

いうと大てい喜んで引きうける。

 

これまでかなりいろいろの人のものを作

った。 


 昔、紐育に居てボオグラム先生のスチ

ュジオに働いていた頃、暫く同じ素人下

宿に居られた鉄道省の岡野昇氏といわれ

る人が、私に小遣取をさせる気持で肖像

を作らせてくれた。

 

肖像で報酬をもらったのはこれが生れて

初めての事なのでよく憶えている。

 

先生の所で昼間働いて夕方帰って来てか

ら岡野さんに坐ってもらった。

 

日曜は休みなので朝から勢いこんで作っ

た。

 

七八寸位の小さなものであった。

 

それを石膏型にとって岡野さんは帰朝さ

れる時持ちかえられたが、帰国後石膏に

斑点が出たという通知があった。

 

その頃はその人に肖せる事だけがやっと

の事で彫刻としての面白さなどはまるで

無いものであったろうと思われる。

 

「兄貴に似ている」と岡野さんが言われ

たので、それなら他人と間違えられる事

もあるまいと思って稍安心した事を記憶

している。

 

令兄は法学博士岡野啓次郎氏という事で

あった。

 

岡野昇さんは鉄道線路とシグナルとの設

計見学に外遊せられていたのであったが、

其頃の大宮駅の線路は同氏の設計らしく、

引込線を錆びさせないように苦心するの

だと常に言って居られた。

 

ボストン停車場の線路はいいという事だ

ったので、後日ボストンに行った時その

線路の配置を注意して見たが自分にはさ

っぱり分らなかった。

 

岡野さんは実に頭のいい人で何でもてき

ぱきと分った。

 

余程以前に一種のブレイントラストのよ

うなものを組織せられた事があると記憶

する。

 

今もむろん健在の事と思うが、私のあの

胸像はどうなっているかしらと時として

思い出す。

 私は外国に居る間、外に肖像を作らな

かった。

 

日本に帰ってから丁度父光雲の還暦の祝

があり、門下生の好意によって私がその

記念胸像を作ることになった。

 

まるで新帰朝の私の彫刻技術を父の門下

生等に試験されるようなものであった。

 

はじめ作って一同の同意を得たものは石

膏型になってから急にいやになり、一週

間ばかりで二度目の胸像を作り、この方

を鋳造した。

 

「世界美術全集」などに出ている写真は

この胸像であり、当時一般から彫刻の新

生面と目されたのであるが、

 

この胸像は実物の彫刻よりも写真の方が

よい位で、甚だ見かけ倒しの作だと今で

は思っているので、そのうち鋳つぶして

しまう気でいる。 

 

父の胸像はその後一二度小さなのを作っ

た事があり、死後更に決定版的に一つ作

った。

 

これは昭和十年の一周忌に作り上げた。

今上野の美術学校の前庭に立っている。

 

この肖像には私の中にあるゴチック的精

神と従ってゴチック的表現とがともかく

も存在すると思っている。

 

肩や胸部を大きく作らなかったのは鋳造

費用の都合からの事であり、彫刻上の意

味からではない。

 

亡父の事を人はよく容貌魁偉というが、

どちらかというと派手で、大きくて、厚

肉で、俗な分子が相当あり、なかなか扱

いにくい首である。

 

私は父の中にある一ばん精神的なものを

表現する事につとめたつもりである。

 私が日本へ帰ってから初めて人にたの

まれて肖像を作ったのは園田孝吉男の胸

像であった。

 

相州二の宮の園田男別邸へ写生に行った

り、その著書「赤心一片」を精読したり

してほぼ見当をつけて作った。

 

男は長く十五銀行の頭取だった人で、戦

時献金運動の早期主唱者であった。

 

その当時は最善を尽したのだが今日見る

と製作にまだ疎漏なものがある。

 

大震災の時男は二の宮邸で亡くなられた

が、震災後、東京の邸宅でその胸像を再

び見る機会を得た。

 

ブロンズの色が美しくなっていた。

 その後私は日本の彫刻界にあまり立ち

交らないような事になったので、私自身

に直接に註文してくる人はめったになか

った。

 

私が彫刻を作るという事を世人は知らな

い程であった。

 

光雲翁はあとが続かないとよくみんなが

言った。

 

私は妻の智恵子の首を幾度でも作って勉

強していたものの、金がとれないので、

父の仕事の原型作りを常にやって生計の

足しにしていた。

 

父の依頼された肖像の原型を大小いろい

ろ作った。

 

大半は忘れてしまった。

十数箇年に亘る此の間の私の米櫃仕事は、

半分は父の意見に従い、半分は自分の審

美判断に従った中途半端な、そういう原

型物であった。

 

折角苦心した肖像が父の仕事場で、星出

し針で木彫に写される時むざんに歪めら

れてしまうような事も少くなかった。

 

松方正義老公の銀像、

大倉喜八郎男夫妻の坐像、

法隆寺貫主の坐像などが記憶にのこって

いる。

 

松方老公のは助手として父に伴いていっ

て三田の邸宅で写生した。

 

老公は自分はビスマルクに似ていると人

がいうと言って居られた。

 

そして額の中央が特に高く隆起している

といって私に触らせてみせたりした。

 

此の銀像は甚だ幼稚な出来であった。

大倉男はあまり肖ると機嫌が悪かった。

 

こせこせ写生などするようでは駄目だと

言われた。

 

当時蒙古方面の踏査から帰られたばかり

で颯爽として居た。

 

私は何と言われても叮嚀に写生して帰っ

て来た。

 

法隆寺貫主には父の宅でお目にかかり、

写真をとらせてもらい、其を参考にして

油土で等身大の原型を作った。

 

これは木彫に写された時大変違ってしま

った。

 

曾て帝展に出品されたのがその木像であ

る。

 

貫主のような清浄な、静かな、深さのあ

る人の肖像を自分の思い通りに製作した

いなと思いながら、結局父の木彫に都合

のいいように作った。

 

父の仕事の下職としては随分愚劣なもの

もかなり作った。

 その年月の間に私はアメリカ行を計画

してその資金獲得のために彫刻頒布会を

発表したが入会者があまり少くて、物に

ならずに終った。

 

モデルを十分使って勉強する事も出来な

いので智恵子がしばしばモデルになった。

 

彼女のからだは小さかったが比例がよく

て美しかった。 


 
 
 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=Z_1sXprwHmQ

 

 

 

 

 

小刀の味

高村光太郎 




 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械

を愛撫するように、

 

技術家は何によらず自分の使用する道

具を酷愛するようになる。 

 

われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小

刀を大切にし、

 

まるで生き物のように此を愛惜する様は

人の想像以上であるかも知れない。 

 

幾十本の小刀を所持していても、その一

本一本の癖や調子や能力を事こまかに心

得て居り、

 

それが今現にどうなっているかをいつで

も心に思い浮べる事が出来、

 

為事する時に当っては、殆ど本能的に必

要に応じてその中の一本を選びとる。 

 

前に並べた小刀の中から或る一本を選ぶ

にしても、

 

大抵は眼で見るよりも先に指さきがその

小刀の柄に触れてそれを探りあてる。 

 

小刀の長さ、太さ、円さ、重さ、

つまり手触りで自然とわかる。 

 

ピヤニストの指がまるでひとりでのよう

に鍵をたたくのに似ている。 

 

桐の道具箱の引出の中に並んだ小刀

を一本ずつ叮嚀に、

 

洗いぬいた軟い白木綿で拭きながら、

かすかに錆どめの沈丁油の匂をかぐ

時は甚だ快い。 

 


 わたくしの子供の頃には小刀打の名工

が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重され

ていた。

 

切出の信親。

丸刀の丸山。 

 

切出というのは鉛筆削りなどに使う、斜

に刃のついている形の小刀であり、

 

丸刀というのは円い溝の形をした突い

て彫る小刀である。 

 

当時普通に用いられていた小刀は大抵

宗重という銘がうってあって、

 

此は大量生産されたものであるが、

 

信親、丸山などになると数が少いので高

い価を払って争ってやっと買い求めたも

のである。 

 

此は例えば東郷ハガネのような既成の鋼

鉄を用いず、

 

極めて原始的な玉鋼と称する荒がねを小

さな鞴で焼いては鍛え、

 

焼いては鍛え、幾十遍も折り重ねて鍛え

上げた鋼を刃に用いたもので、

 

研ぎ上げて見ると、普通のもののように、

ぴかぴかとか、きらきらとかいうような光

り方はせず、

 

むしろ少し白っぽく、ほのかに霞んだよう

な、含んだような、静かな朝の海の上で

も見るような、

 

底に沈んだ光り方をする。

 

光を葆んでいる。 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=gTBzvvNdalA

 

 

 

 

 

 

木彫ウソを作った時

高村光太郎




 私は自分で生きものを飼う事が苦手の

ため、平常は犬一匹、小鳥一羽も飼って

いないが、

 

もともと鳥獣虫魚何にてもあれ、その美

しさに心を打たれるので、街を歩いてい

ると我知らず小鳥屋の前に足をとめる。

 

母が生きていた頃だからもう十幾年か以

前の事である。

 

或る冬の日本郷肴町の小鳥屋の前に立っ

て、その頃流行していたセキセイインコ

の籠のたくさん並んでいるのを見ていた

が、

 

どうもこの小鳥の極彩色の華美な衣裳と

無限につづくおしゃべりとが、

 

周囲のくすんだ渋い、北緯三十五度若干

の東京の太陽の光とうまく調和しないよ

うに感じられて、

 

珍らしくおもしろいとは思いながら、そ

れほど夢中にはなれなかった。

 

そのうちセキセイのぺちゃくちゃの騒音

の間から、静かな、しかし音程のひどく

高い、鋭く透る、ヒュウ、ヒュウという

声が耳にはいった。

 

店の奥の方から来るのだが、それが何だ

かもっと大変遠いところから聞えて来る

ような響をしているので、

 

何だろうと思って店の中へ踏み込んだ。

 

その頃私は小鳥の名などをさっぱり知ら

なかったので、それぞれの籠につけてあ

る名札をよみながら鳥を見た。

 

鶯、山雀、目白、文鳥、十姉妹などの籠

の上に載っていたウソをその時はじめて

詳しく観察した。

 

さっきの声はそのウソの鳴音だったので

ある。 

 


 ウソを見て一番さきに興味をおぼえた

のはその姿勢と形態とであった。

 

この小鳥は思いきった直立の姿勢でとま

り木にとまっていた。

 

むしろ後ろに反りかえっていると言って

もいい動勢を有っていた。

 

それを見るとすぐ、あの柳の丸材で作っ

た、亀井戸天神のウソ替のウソを思出し

た。

 

柳の丸材へ横に半分鋸を入れて上からぽ

んぽんと二つ三つ鑿でこなし、その後ろ

へ削りかけのもじゃもじゃを作り、

 

脳天を墨でぬり、眼玉を描き、ぐるりと

紅で頸を撫で、胸とおぼしきところに日

の丸を一つ附けた、

 

あの原始的なウソの木彫は、実に強くこ

の自然の動勢に迫っている。

 

あの木彫りのウソは実物のウソよりも、

もっとほんとにウソのようだ。

 

私はたちまち自分でもウソの木彫を作っ

てみたくなった。

 

鳥屋さんのいわゆるその照りウソを一羽

籠ごと求めて持ちかえった。 

 

 

 私は幅二寸、奥行二寸五分の檜の角材

を高さ六寸ほどに切った。

 

それから毎日ウソを観てばかりいた。

 

ウソは鳥屋の店の仲間の声から急にひと

り引離されて、いかにもさびしそうに見

えた。

 

一日ばかりは鳴かなかったが、そのうち

またしみとおるような、細い、高い、

ヒュウ、ヒュウという口笛を吹きはじめ

た。

 

(その後、家雀の群を友達にさせてから

このウソの声がすっかり荒されてしまっ

て、

しまいにはチャア、チャアとばかり鳴く

ようになった。)

 

ひとりで窓ぎわの籠の中でそうやって静

かに鳴いている時の彼の姿勢は、ますま

す背をまっすぐに立て、

 

胸を高く張り、頭だけを静かに水平に動

かし、片足でとまり木にとまり、片方の

足はちぢめて腹の羽毛の中へ入れてしま

う。

 

ウソの面相は、雀や文鳥のように嘴の尖

って三角に突き出た方でなく、

 

むしろ鷹のように嘴が割合に小さく強く

引きしまって尖端が鍵に曲り、

 

眼も文鳥のように平らに横に附かず、鷹

のように前方に強い角度を持って附いて

いる。

 

眼の上の眉のひさしがやや眼にのしかか

り気味でそれが眼に陰影を与える。

 

眼と嘴と額との国境のような凹んだ三角

地帯に、剛い毛に半ば埋れるように鼻孔

がこの辺のこなしを引締めている。

 

文鳥のような鳥は鼻孔がむしろ嘴の根元

の隆起部に大きく露出していてまるで違

った景観を呈している。

 

ウソの黒頭巾の頭は角刈のようにさっと

平らにそげている。

 

これはややクマタカじみている。

 

ここらは例のウソ替のウソそっくりであ

る。

 

後頭部でちょっと段がついてくびれ、そ

れからぱっと明るく頬のふくらみが下に

起る。

 

そこの推移が実に甘美だ。

 

頬から上は頭も眼も眼瞼も嘴も嘴の下の

毛も皆漆黒で、その黒い中で眼の動いて

いるのがまた美しく、

 

更にその黒に境して大きく円い頬がきれ

いに頬紅をさして毛並美しく頸にかぶさ

っているのだから、

 

このウソの首だけでも、いかにも山の小

鳥らしい、黒じみない、おっとりとして

いて、

 

中々精悍な、また紅梅の花にも負けない

美麗さと風格とのある鳥だと思った。

 

頬紅からつづいて曙いろの、ほんとに日

の丸の感じの紅色の胸がぐっと前に高く

張り出し、

 

腹へかけて一段ゆるく明灰色に波うって

いる。

 

この胸の方の明るい大まかな凹凸と、鶯

いろの背部の垂直に近い、削ったような

潔い輪廓とがいい釣合を持っている。

 

その背部の蓑毛を胸の方の房々の羽毛が

逆に下から逆まきにかぶせているのは、

ウソの身体の中で、一番颯爽としている

ところだ。

 

胸の羽毛は斂めた翼の風切りの上へまで

ぱらぱらとかぶさる。

 

背中の蓑毛と胸の羽毛の下からこの風切

りが、もう一度あざやかな黒色で、黒頭

巾との呼応をしている。

 

閉じた翼の風切りのさきは左右あまり強

く交叉せず、直ぐ下に背の長さ位の尾羽

根がやはり黒一色ですっとさがり、

 

その親骨がはっきり見える。

 

風切りの黒と、尾羽根の黒との間にちら

ちらと、下尾筒の雪白の毛が隠見する。

 

これが中々シックだ。

 

この白い毛は春先の頃になると幾分多く

なるように観察された。

 

琴ひくような、夢みるような、咽喉をふ

くらまして長く引っぱる唄を謡い出す頃

である。

 

彫刻にしても彩色したらこの一個所の白

が恐らく甚だ効果的であろうとその時考

えた。

 

片足をちぢめて腹の中へ入れ、その腹の

羽毛が少し立っているのもおもしろい。